2019年10月21日 (月)

郷土士の歴史探究記事 その44

                              新説・まぼろしの崎姫

  前ブログ(その43)4項で「崎姫」は山木大方ではなく、「蒔田殿」であろうことを吉良頼康・室の文献等から示唆しながら、確定史料は見えないことも記し、訝しく思いつゝまとめていました。
  従って、その後も資料の探求を続け、勝光院(曹洞宗、世田谷区桜一丁目)の「薬師佛縁起」を探していました。偶々、ネット検索で『せたかい第六0号』収載「薬師佛縁起について」を知りました。
  早速、世田谷郷土資料館で閲覧しましたが、原文のみで解説はありません。長文の上、難解で穂積隆彦と斎藤月岑が「偽作」・「拙文」とまで酷評して本文を割愛した(前ブログ4項)ことも理解できました。原文を読むことによって、崎姫が創作上の人名と分かり前ブログで記した「崎姫は蒔田殿」の間違いも判明します。
  前ブログ4項の訂正も考えましたが、間違いは間違いとして本ブログで訂正させて
いただきます。従って一部、前ブログを参照する記述を御容赦ください。Sagisou_flower

   1、『薬師佛縁起』の「崎姫」は、まぼろし
   2、史料が記す「蒔田殿」
   3、高源院は山木大方か、蒔田殿か?
                                                         (写真・図版は、クリックすると拡大します) 
  1、『薬師佛縁起』の「崎姫」は、まぼろしImg_20191011_0005_20191026083501
  文化九年(1812)十二月五日、世田谷吉良家菩提寺勝光院で、「薬師如来像」(現存しない)を実見した穂積隆彦が、自著『世田谷
私記』で「愛縁仏の縁起」として記した見解を右に示した。
  氏綱娘を崎姫と称しての吉良頼康との結婚が、天文六年(1537)春の尊像崇信から20年後の永禄元年(1558)などを理由に、「偽作したること分かるへし」と、「縁起は偽作」と断じている。
  後段の「小田原家臣宗哲云々」は、吉良氏朝に嫁いだ宗哲娘の
鶴松院が、嫁入りの際に持参した『幻庵覚書』を、崎姫が持参した
と間違えている。
  また、斎藤月岑も天保七年(1836)刊の自著『江戸名所図会』で、同じ「薬師佛」を「愛縁薬師如来」と題して論評している。
  その解読文を右下に示した。
  崎君(崎姫)を氏康息女として、「天文六年の春、此尊像の霊示により永禄元年にImg_20191011_0010_20191026083801
吉良頼康卿の室」とあるが、「拙文ことに疑ふへき事少からす」として、縁起本文は
記さず、崎君は氏綱息女と訂正している。
  ほぼ、『世田谷私記』と同様の見解である。            
    穂積隆彦と斎藤月岑の見解は正しいが、2項史料の頼康・室は「蒔田殿」とある。
  両者ともに偽作と拙文に、「薬師佛縁起」を記す気持は失せたのであろう割愛して
いる。ただ、縁起話を真正面から論じたことは、どう評価したら良いのだろうか?
  なお、崎姫父の氏綱と兄氏康の混同は、後述の資料にも度々見える。
  この両書の記述から、前ブログでは訝しく思いつゝ「崎姫」を「蒔田殿」と記しながら、「薬師佛縁起」を確かめたく探し続けていたところ、原文に出会った。
  江戸時代初期の成立であろう吉良家菩提寺勝光院『薬師佛縁起』は、世田谷城主吉良頼康に嫁いだ氏綱息女を「崎姫」と記している。「崎姫」の初見資料と言えるが、長文でいささか難解(拙文との論評がある)のため関係箇所に絞って要約して記す。

    勝光院の山門に立つ愛縁の薬師如来ハ、運慶の作にして小田原北条氏康(氏綱の誤記)卿の御息女
    崎姫君御信心の霊像なり。然に天文六年の春頃、彼姫君に夢のお告げがあり、東の方を拝して愛鳥
    白鷺の足に一首の歌を付けて離した。その頃、世田谷御所吉良頼康が奥沢(世田谷区奥沢)に御狩に
    出ていると、一羽の白鷺が飛び来たり、近習が白鷺の足に付いていた紙を頼康卿に手渡した。その紙に
    は「賤の身のことのつまねの糸たてゝ うきねの床に立やしらさき」の和歌が認めれられていた。頼康卿
    が不思議に思っていると、傍らにいた白鷺は亡くなっていた。卿はその場所に白鷺を手篤く葬らせた。
    翌年からその場所に珍しい草が生え、白色の花が咲くとその形は白鷺に似ていた。このことを近習から
    聞いた頼康卿は、奥沢でこの花を実見して「さき草」と名付けた。後日、このことを氏康(氏綱)卿が頼康
    卿から聞かされ、崎姫と頼康卿の縁談がまとまった。嫁入りの際、御化粧免(持参金)として武州久良岐
    郡蒔田近在三千石が世田谷御所に入りました。     (「勝光院薬師佛縁起について」収載原文要約)

  こうした鷺草に関する伝説的話は、『江戸砂子拾遺』や『名残常盤記』の他にも記され、鷺草は「世田谷区の花」に制定されている。なかでも『名残常盤記』がよく知られている。
  両書2編と、「薬師佛縁起」の成立年は判明していない。いずれも伝説的創作話である。          
  この薬師佛縁起の「しらさき(白鷺)」から、「さき姫」と名付けたのでは…が一瞬、私の頭を過ぎった。鷺は仮名書きすると濁点は付けず「さき」と書くことから、「崎」の字を当てたのが「崎姫の誕生」であろう。
  世田谷勝光院愛縁の薬師如来を、小田原の幼女(氏綱娘)が何故知り得て信仰したのか、余りに現実離れした話である。こうした矛盾を含めて穂積隆彦と斎藤月岑は、この薬師佛縁起を「偽作・拙文」と酷評したのであろう。しかし、彼らの論評では「崎姫=吉良頼康・室」までもが偽作とは私は気付かなかった。原文を読んで始めて「崎姫」そのものも偽作であると知った。            
    以上、こうした「崎姫と蒔田殿の呼称」を記すImg_20191022_0003
資・史料を右表にまとめた。
  「崎姫」を記すのは、①~⑤の5件である。
  ①②⑤は既述した。③④の詳細は後述するが、③『石井家本吉良系図』は「室ハ北条氏綱娘サキ姫ト云、世ニ蒔田御前ト称ス」とある。
  このサキ姫は「薬師佛縁起」からであろう。「蒔田御前」の詳細は2項で詳述する。
  ④「幻庵覚書修補奥書」には、「高源院殿(崎姫君御方)世田谷へ御入輿之時」とあり、高源院を「崎姫君」と記している。「高源院」については3項で詳述するが、この崎姫君も「薬師佛縁起」からであろう。
  確かに「吉良頼康と崎姫結婚」の永禄元年は、前ブログ(その43)1項②水口文書で、三月二十一日時点で山木大方の小田原在住が確認でき、その後も山木大方は山木または小田原に居住していた。従って、この崎君は山木大方ではない。山木大方と崎姫の関係がないことはご理解いただけよう。                             
  以上、「崎姫」を記したのは①「薬師佛縁起」と、③「石井家本吉良系図」に、④「幻庵覚書修補奥書」である。③④2書の筆者は後述するが世田谷の関係者(住人か)で、崎姫は①「薬師佛縁起」によるものであろう。
  とすると、「崎姫」の名前は伝説的作り話による「さき草」から名付けられた可能性は否定できず、寧ろ可能性は高く架空の人名であり、「まぼろしの崎姫」と言えよう。 
  なお世田谷吉良家については本ブログ(その9)で詳述しているが、『系図纂要』によれば足利家の嫡男左馬頭義氏の子義継が、三河国吉良荘に住して始めて吉良氏を称した。これが西条吉良氏で、東條吉良氏の祖でもある。因みに、吉良上野介は西条吉良である。
  東條・西條とは吉良荘の中央に矢作川が流れ、東岸・西岸の吉良家を分けて称したことによる。
  そして、四代貞家が奥州探題を命ぜられ、奥州吉良と呼ばれる。その後、世田谷の地を与えられてから、武藏吉良または世田谷吉良と称せられたが、同書系譜では誰の時代に世田谷を領したかは諸説がある。   
  『世田谷私記』(穂積隆彦・編、文化九年以降の成立)は、東条吉良六代治家が「足利持氏に従ひ世田谷郷を賜はり始めて茲に住む」と記し、一説に「十一代成高(頼康の父)が世田谷及び武州久良岐郡蒔田(横浜市南区蒔田町)を領す」ともある。世田谷吉良氏は主に世田谷と蒔田を所領としていた。
  前記『薬師佛縁起』が記す「蒔田付近三千石の持参金」も、穂積隆彦のいう「偽作」が正しいのであろう。
  その後、小田原合戦で篠曲輪を守備した氏朝と嫡子頼久は、小田原開城後直ちに徳川家康に拝謁して上総国長柄郡寺崎村(千葉県長生郡睦沢町寺崎)に 1,125石を与えられ、世田谷は上地(あげち、幕府に召し上げられた土地)となるが、頼久は旗本に登用、母鶴松院と共に移居している。氏朝は世田谷に戻り勝光院末寺の鶴松山実相院(曹洞宗、世田谷区弦巻)で閑居(世田谷私記)とあるが、吉良屋敷実相院門前が家康より拝領した隠居所(大蔵世田谷喜多見旧事考)ともあり、氏朝は慶長八年(1603)九月六日に他界している。
  後室鶴松院は、慶長十一年六月十七日卒。『新編武藏国風土記稿』に「今境内ニ氏朝夫婦ノ碑アリ、氏朝ノ碑面ニハ実相院殿四位下學翁玄參大居士、慶長八年九月六日ト刻シ、夫人ノ碑ハ鶴松院殿快窓壽慶大姉トアリ」と記しているが、二人の墓は現存しない。寺院名は二人の法名であり、開基は頼久とされているが実際は氏勝とも言われている。嫡子・頼久は家康の命により、吉良姓は西條吉良の一家のみとされ「蒔田」を名乗り、慶長十四年(1609)三月二十七日に享年42歳で他界している(横浜市史稿)。
  宝永七年(1710)世田谷吉良家十七代蒔田義俊の時、赤穂事件により西条吉良家が断絶、蒔田家が実に百余年振りに再び吉良姓を許され、江戸時代を継続して明治維新を迎えている。
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  2、史料が記す「蒔田殿」             
  前掲の表⑥泉澤寺(浄土宗、川崎市中原区上小田中、吉良成高開基)の『阿弥陀仏像札銘』(世田谷区史料第二集)は、北條氏綱の息女(名前不記)が吉良頼康に嫁いだことを記す初見史料で、解読文を右に示した。
  同文書に「源朝臣頼貞妻平氏女」とある。頼貞は後の吉良頼康で妻は平氏、つまり北條氏(氏綱、天文十年死去)の娘と記している。
  文書の損傷が酷く断片的であるが、「…頼康・同嫡男太郎・次男次郎・三男辰房…」が読み取れる。記銘年月は天文十七年(1538)五月で、「施主・沙弥弁誉存隆」とあるが文書の筆者でもあろう。
  沙弥は、僧侶になる前の修行中の男子をいう。(広辞苑)
  ⑦戦記物の『北條記』巻第三「公方御他界之事付御台所御歌之事」は、「マイ田殿(セタカイノ御所)吉良殿ノ御前」と、後述に氏康息女を記しているが、Sagisou_20191028085401
これは幻庵宗哲息女が氏康養女として吉良氏朝に嫁いだ鶴松院のことである。
  このように、崎姫と吉良頼康室と、氏朝室との混同も少なからず見える。
  後述するが山木大方との混同も見え、世田谷区や横浜市は「山木大方の頼
康室説は、蒔田殿と混同されている」として完全否定されているが、インターネッ
トや小田原では、山木大方の再婚説までが言われている。
  ⑧寛永期(1624~1643)成立の『寛永諸家系図傳』は「蒔田御所室」、⑨寛政期(1789~1800)の『寛政重修諸家譜』は「吉良頼康室」、⑩文化九年(1812)間宮士信・著の『小田原編年録』には「吉良頼庸室・蒔田殿」、そして刊行は明治期であるが、⑫塙保己一の『続群書類従系図部』収載の「北條氏系図」にも「蒔田御所室」が、いずれも氏綱息女を記し、「崎姫」とは言っていない。                                                      
  以上、史料は吉良頼康室は「蒔田殿」で、「崎姫」は称していない。Img_20191021_0005
  改めて、前ブログで蒔田殿に崎姫が嫌われていた(史料に見えなかった)ことが分かった。「崎姫」は、伝説的作り話の『薬師佛縁起』から生まれた架
空の人名だったのである。    (右図版、堀越・北條・吉良三家縁戚略系図)
  1項で、鷺草の伝説話3編他と記したが、『名残常盤記』が圧倒的に愛読
され世田谷には常盤橋や常盤塚に、常盤地名も生まれている。
  おそらく、文政期までは「崎姫」は知られることはなかったであろう。
  それが穂積隆彦と斎藤月岑によって、『薬師佛縁起』は酷評はされたが、
「崎姫」の名は一人歩きを始めたのである。時を同じくして、大蔵村(世田谷
大蔵)名主家に生まれた石井至穀作成の「吉良系図」に「崎姫」が記され、
世田谷吉良家二十代当主義房によって『幻庵覚書』に、「修補奥書」として
「高源院崎姫」が加筆されたのである。このことが結果として、それまで殆ど知られていなかった作り話の「まぼろしの崎姫」は、文政期に至って世田谷
関係者が実在の「頼康室」としたことで、明治以降の歴史学者たちによって、「山木大方や蒔田殿の別称」と言われているのが現状である。Img_20191106_0001    
   因みに、右に示す寛政十一年(1799)の『寛政呈書国字分名集』によると、吉良式部義房の役職は「表高家」で、屋敷は浜町蛎殻町(日本橋蛎穀町)で、添屋敷が本所林町(墨田区本所)に、下屋敷が武州荏原郡世田谷とある。吉良家の世田谷屋敷は、小田原合戦後は上地となっていたが、義房の時代には下屋敷があった。おそらく、十七代義俊が吉良姓を許された際に高家となり、世田谷に下屋敷
も許されたのであろう。義房も世田谷の住人とも言えよう。Img_20191105_0001
  そして、石井至穀と間宮士信(ことのぶ)の経歴を右表にまとめた。生年は1歳違いで活動時期が一致する。 
  至穀は国学者・文人とも言われるが、昌平坂学問所(昌平黌)勤番で、74歳で書物奉行を務めた役人である。
  その学問所内に設置された地誌取調所に出仕した間宮は学者で、文化七年から天保元年(1810~30)の『武蔵風土記』編纂に加わり、引き続き天保元年から同十二年(1830~41)の『相模風土記』編纂の際には総裁に就任しており、現在の編集長に相当する立場であった。
  また間宮は、小田原合戦で山中城を守備して戦死した間宮康俊・弟の北條氏照家臣・間宮綱信の子孫で、北條氏に厚恩を感じて文化九年(1812)に、『小田原編年録』を著わしたという。
  因みに、至穀が晩年に就任した書物奉行とは、江戸城内紅葉山文庫の管理者で、通常4・5名で図書の収集・分類・保存等を職務とした。いずれにしても、至穀と間宮の職務上の面識は考えられる。その至穀が「崎姫」を記しているが、間宮は『小田原編年録』で「吉良頼庸室・蒔田殿」を記すが、「崎姫」の記述はない。
  その「崎姫」を至穀が、「高源院=蒔田殿」と記していることを次項で述べる。
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    3、高源院は山木大方か、蒔田殿か?                                                           
  前掲表では、⑪天保十二年(1841)成立の『新編相模国風土記稿』のみ、山木大方
が「高源院殿」を称している。山木大方については前ブログで詳述したが、③「石井家
本吉良系図」と 、④「幻庵覚書修補奥書」に高源院が蒔田殿とあったのは、どういう
ことであろうか? 次の難問が、この「高源院」である。
  先ず『韮山町史』が、山木大方没年を天正十四年八月二十四日と記す発端となっ
た『江戸淨仙・呂顕連署奉書』(世田谷区史料第二集)を右に示した。
  『世田谷区史料』の解説は高源寺は高源院の誤記で、「吉良頼康夫人の高源院殿長流泉公大姉(筆者の推定)」の申出によって、寶生寺(真言宗、横浜市南区堀内町)
門前の住民らに、塩場その他一切の公事を免除すると通達したもので、高源院が女Img_20191110_0001
性であるため吉良氏家臣の江戸淨仙と景福軒呂顕が代わって発給したという。
  しかし、文書発給年の天文十一年(1542)は、山木大方(崎姫と仮定して)は堀越
六郎に嫁いで嫡子頼貞(後、氏朝)が生まれた年で、法名・高源院を称していたとは
思えない。山木大方が文書で領地差配を行っていたことは前ブログで記している。
  また、同日付けの寶生寺宛『北條家寺領寄進状』(戦国遺文)を右に示した。
  「好玄寺」とある。前文書の高源寺とこの好玄寺ともに現存せず、どちらが正しいかは判明しないが、高源院(山木大方)ではないことは明かである。 
  そして、驚かされたのが右下に示す③「石井家本吉良系図」の吉良頼康の記述で、「室ハ北条氏綱娘サキ姫ト云、世ニ蒔田御前ト称ス、是ハ天正十四戌年八月廿四
日卒、高源院殿長流泉公大姉」
とある。法名が、高源院から大姉まで10文字すべImg_20191011_0006
てが山木大方と蒔田殿が全く同じとは思えない。この記述を荻野三七彦は山木大方の没年とし、多くの学者先生方は山木大方=崎姫を言われているのであろう。        
  この「石井家本吉良系図」とは、『続世田谷徴古録』に収載(蒔田の吉良氏)され、
幕府の御書物奉行を務めた石井至穀(安政六年(1859)82歳で死去)の著作(吉良
氏の研究)で、文政元年(1818)以降の成立(蒔田の吉良氏)という。 
  この没年と法名は、何から記したのであろうか?
    さらに驚かされたのが、④『幻庵覚書』の文政六年(1823)九月十六日付「修補奥書」(『蒔田の吉良氏』収載)で右に示した。             
  冒頭に「此一巻ハ高源院殿(崎姫君御方)」とある。高源院殿を崎姫と記している
ことは既述したが、「此一巻」は前記吉良系図の「文章一巻」や、幻庵宗哲の記述などが良く似ている。筆者「源義房」とは、前掲「略系図」の二十代吉良義房で、北條氏照に清水正次や笠原秀範など北條家を良く調べているが、崎姫と高源院を同一人物Img_20191011_0007
としたことは、『薬師佛縁起』に惑わされたのであろうか?              
  私の調査で「高源院殿」法名を記すのは、文政元年以降成立の『続世田谷徴古録』収載「石井家本吉良系図」か、この文政六年の『幻庵覚書修補奥書』が初見であろう。他には前述した天保十二年(1841)成立の『風土記稿』の3件である。
  因みに天保元年(1830)成立の『新篇武蔵風土記稿』は、「勝光院」の記述に吉良頼康は記しているが、蒔田殿も崎姫も高源院の記述もない。
  「石井家本吉良系図」と『幻庵覚書修補奥書』は、「高源院殿」法名を何から知ったのであろうか? また、高源院没年月日も、何から知ったのであろうか?
  石井至穀は、学問所勤番中の文政期に「室はサキ姫で蒔田御前と云い、天正十四戌年八月廿四日卒、高源院殿長流泉公大姉」を記しながら、地誌取調所の間宮士信らに報告していなかったのであろうか?  知らせていれば『相模風土記』に記された筈…  それとも、地誌取調所では問題にされなかったのであろうか?
  あるいは、「吉良系図」「修補奥書」両書は、当時は公表されなかったのであろうか? Sagisou_2_20191110155301
  両書が記す法名は「高源院=蒔田殿」の史料が見えないだけに、「高源院=山木大方」が正しい。「高源院」名の寺院が伊豆に建立され、後、小田原に再建(現・小田原少年院跡地)され、山木大方がそこで他界したであろうことは前ブログ(その43)1項で記している。
  「石井家本吉良系図」と『幻庵覚書修補奥書』は、「薬師佛縁起」から「崎姫」を記し、山木大方との法名が混同している。現に「石井家本吉良系図」の没年月日は、「蒔田御前」
とある。しかし学者先生方は山木大方の没年として、蒔田殿の没年と法名は不明とされている。蒔田殿の法名は高源院ではなく、山木大方の没年も別ではないだろうか? 
  『相模風土記稿』の高源院「慶長十七年六月Img_20191022_0004_20191110152301
十四日逝す」は、「天正十四年六月十四日」の誤植ではないだろうか? 
  以上、確定していることを右表に整理した。
  現在、『韮山町史』を始め学者先生方は「石井家本吉良系図」から、山木大方没年を「天正十四年八月二十四日」とされているが、同没年月日の出典は不明である。山木大方の没年と断定することは控えたい。

  おわりにMaitanokirasi
  平成26年刊行の『蒔田の吉良氏』が、私の直感と同じようなことを記しています。
   
    (前略)吉良頼康の妻と吉良氏朝の妻・鶴松院、その義母の高源院、吉良家をめぐ
     る三人の女性は、それぞれ「崎姫」の名前を冠されて、伝説や物語のなかで渾然
     一体となって伝わってきたようです。(中略)
     実体のわからない北条の姫君・崎姫は、あるいは世田谷の鷺草にまつわる物語
     のなかから名付けられているのかもしれません。(後略)      (蒔田の吉良氏)
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  「渾然一体」は、伝説や物語の中から歴史上にも及ぼされているのが実情で、現状で
もあります。そして「鷺草にまつわる崎姫」が、私と同感です。
  さらに、『まぼろしのさき姫』(岩崎京子・著、昭和53年・刊)にも出会いました。
  当初、崎姫は「まぼろし」ではない!と、批判する論考になろうかと考えていましたが、
まさに崎姫は「まぼろし」(架空の人名)でした。同書は「児童文学創作シリーズ」と銘打
たれていますが、大人にも十分読み応えのある名著です。
  残念ながら絶版で購入は叶わず、神奈川県立図書館から借用して読ませて頂きました。是非、皆さまにもご一読をお勧めしたいと思います。
  本ブログのタイトルを、「新説・まぼろしの崎姫」とさせていただきました。
  とは言え、北條家の女性で最も親しまれている崎姫を否定することになり、忸怩たる思いです。史実は史実としてのご理解を伏してお願い申し上げます。それにしても、偽作・拙文から誕生した崎姫に、限りなくロマンを感じさせられているのは何故(なにゆえ)でしょうか… 
                                                               郷土士                                                           
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  なお、ご許可いただければ、その時点で公開とさせていただきます。

参考文献
 吉良氏の研究             荻野三七彦               名著出版             S50.
 世田谷区史料第二集                              東京都世田谷区         S34.3
 勝光院文化財綜合調査報告                          世田谷区立郷土資料館    S45.9
 せたかい第六0号収載「勝光院薬師佛縁起について」  下山照夫   世田谷区誌研究会          H21.7
 江戸幕府旗本人名事典第1巻(寛政呈書国字分名集・収載) 
                  監修・石井良助/編著者・小川恭一    原書房              H元.6
 戦国遺文「後北条氏編」第一巻   杉山博・下山治久/編       ㈱東京堂出版           H元.9
  蒔田の吉良氏        編集・横浜市歴史博物館  公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団   H26.7
 まぼろしのさき姫          岩崎京子/絵・田代三善       ㈱講談社                  S.53.11

(その44)新説・まぼろしの崎姫
  初  稿 2019.10.21
  更新1  2019.11.10 3項、北條家寺領寄進状写(堀之内村並木氏文書)追記

郷土士の歴史探究記事
その1 江戸の遊廓「吉原」7を開いた庄司甚右衛門の謎  その2 良正院督姫の誤伝を糺す
その3 浄光院お静の生涯と保科正之             その4 日本最古の水道「小田原早川上水」
その5 北條氏康室・瑞渓院と今川氏真室・早川殿     その6 『明良帯録』を書いた山形彦左衛門
その7 北條氏政室・黄梅院と武田勝頼継室・桂林院    その8 贈答品・進上品等にみる北條家の文化財
その9 北條家と世田谷吉良家(付、崎姫と香沼姫)     その10 北條五代を支えた女性たち(改訂)
その11 北条五代を支えた男性たち               その12 西国で存続した北條氏と伊勢氏
その13 早雲庵宗瑞の小田原入城、その秋は明応9年    その14 三浦義意を祀った北條氏綱と居神明神社
その15 幻の大森氏小田原城と大森時代の小田原宿    その16 北條氏綱と居神神社の「勝って兜」碑
その17 北條氏綱の小田原城と小田原の町づくり      その18 北條氏綱の三嶋大社と鶴岡八幡宮再造営
その19 小田原北條家と浅草寺の再興             その20 北條二代氏綱の江戸制覇と弁財天の勧請
その21 宗瑞継室狩野氏女と氏綱正室横江氏女の出自  その22 伊勢弥次郎(早雲庵宗瑞・弟)の生涯
その23 虎朱印「禄壽応穏」と北條氏の印判          その24 福良と小田原の居神明神社名の由来
その25 下堀方形居館跡の謎                  その26 北條幻庵宗哲の生涯
その27 北條氏の花押と家紋                   その28 歴博の中世文書展と小田原開府五百年?
その29 新編・早雲庵宗瑞の生涯               その30 北條氏綱、「贈従三位」を叙位される
その31 「初見虎の印判状」発給者と氏綱の家督継承    その32 大久保忠眞の「贈従三位」叙位
その33 九嶋から北條姓を許された玉縄北條綱成家    その34 玉縄甘糟氏は、北條氏家臣か ?
その35 居神明神社と三浦氏関係の新史料         その36 検証、居神明神社名の由来
その37 北條家の縁、徳川家康の側室たち          その38 高潔の武将・北條氏照と室・大石比佐
その39 もう一人の伊勢宗瑞・弟?             その40 北條五代「去る者は追わず、来る者は拒まず」
その41 能楽・宝生流家元の小田原来住            その42 「戦記物」の虚構と史実 
その43 崎姫と香沼姫、そして山木大方                          その44 新説・まぼろしの崎姫





2019年8月20日 (火)

郷土士の歴史探究記事 その43

   

                    崎姫と香沼姫、そして山木大方
 
  二代北條氏綱息女崎姫は、堀越六郎に嫁ぎ嫡子貞朝(後、吉良氏朝)に恵まれ、山木大方を称していたとされてきた。詳細は「本ブログ(その9)北條家と世田谷吉良家(付、崎姫と香沼姫)」を参照されたい。
  ところが、崎姫=山木大方ではない、とマリコ・ポーロのブログ・小田原北条見聞録「北条五代の娘たち⑦」で指摘されている。
  また、崎姫の妹とされる香沼姫については、終生独身であったこともあり確定史料が見えず、伝承的話に頼らざるを得ないが、香沼姫は山木大方と堀越六郎の娘とする一部学者の説
から、ネット上にもそうした論調も見え、改めて検証してみた。
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  1、堀越六郎後室・山木大方関係文書
  2、堀越六郎とは
  3、独身を通した香沼姫          (右写真、韮山市山木の香山寺山門)   
  4、崎姫は、吉良頼康室・蒔田殿  (写真・図版はクリックすると拡大します)
  5、修禅寺奥の院正覚院を訪ねる
  6、高山寺も訪ねる            
  7、香沼姫、崎姫と堀越六郎の息女説         Img_20190820_0004_20190916080501
   おわりに

  1、堀越六郎後室・山木大方関係文書
  後室とは、身分ある家の未亡人の称(広辞苑)とある。『神奈川県史』に、後室となった山木大方発給文書が2通収載されている。右に長文であるが『巳の修禅寺文書』の解読文を示した。 (右、山木大方寺領寄進状)
  「巳」年は弘治三年(1557)に比定され、山木大方が亡夫堀越六郎の菩提を弔うため、正覺院(曹洞宗、修禅寺奥之院)を菩提寺とし、兄(弟か、氏康と呼捨て)氏康に嘆願して賀古・岩崎(いずれも三島市)十五貫文の地を寺領に寄進し、この両郷の代官を清水惣兵衛に申しつけたことを報告、氏康の印判を添付して、修禅寺住職明山憐察に懇請している。Img_20190915_0001
  差出人に「山き」とあるのは夫君六郎他界後、山木(伊豆国市韮山山木)に仮寓していたか、自らを「山木」と称していたことが推定される。そして堀越六郎が、この2・3年の内に他界したことも窺わせている。
  それにしても、亡夫の供養をしたいという後室の気持ちが切々と伝わってくる。Img_20190820_0005_20190916081901
  後述するが、山木大方の法名は高源院殿である。山木大方と高源院が関係する文書が8件確認できる。右上表にそうした関係文書をまとめた。
   次に示す②水口文書は、『韮山町史』の解読を引用した。 (右、山木大方印判状)
  「午」年は、前文書の翌永禄元年(1558)に比定されている。韮山城の普請人足の徴発を滝山(山木の東方山中にあった村)にあたっているが、滝山が散作で以前にも人夫を出していないこともあり、人夫の徴集を心配したもので、前文書とは一転して用務上の文章であるが、女性らしい配慮が感じられる。(『韮山町史』)
  差出人に「おだ原大くらより」とある。『神奈川県史』は「大くら」を「大くほ」と解読している。大窪(小田原市板橋)ならば、氏綱正室養珠院(?)開基と伝えられる香林寺があり、後述する高源院再建までは大方が同寺に身を寄せていたことを窺わせる。小和田哲男は、荻野三七彦の読みとして「大かた」としている。
  山木大方が堀越六郎亡き後の領地差配をしていたことも窺わせている。なお、①②2通の文書に「山き」「おだ原」「大くら」と漢字と平仮名が半々になっているのは、女性が手紙を書く際の署名は、半分平仮名にすることが慣例だったようである。
  そして、特筆されるのがこれら2通の文書共に、「軍勝」朱印が押されていることである。「軍勝」は、堀越六郎の印判とも言われている。
  参考までに、北條氏の「禄寿応穏」は虎朱印であるが、「軍勝」は「疾走する猪」である。Gunnsyou_20190916083001
大きさは「軍勝」が縦7.5㌢、横6.8㌢で、虎朱印は方形部分が縦7.4㌢、横7.3㌢ で、虎の部分を含めた高さは9.2㌢である。若干、虎朱印の方が大きいが、猪を用いたことが虎朱印に倣ったようにも思える。         (右、山木大方使用の「軍勝」印判)
  この印判については、多くの学者に注目されている。女性の印章では、今川氏親夫人の
寿桂尼が「帰」という印判を用いたのが最初である(本ブログその23参照)が、この今川氏の伝統を山木大方も継承したのであろう。堀越貞基(山木大方夫君として)の印章と断言はImg_20190822_0001_20191024132901
できないが、山木大方が当時印判状を発給できたことは注目せねばならず、同じ永録元年の水口文書にも「軍勝」印判を捺印していることから、吉良頼康夫人(山木大方再婚説)でありながら、前夫堀越家の印判をもって伊豆の修禅寺に印判状を出したことになる(『吉良氏の研究』荻野三七彦)。ただ、氏綱息女で山木大方とは姉妹の古河公方足利晴氏・室芳春院の印判は「日本王天下光」である。「軍勝」は山木大方の印判かも知れない。
  そして『韮山町史』に、右に示す前述の山木大方の嘆願に対する氏康の回答ともいうべき③「修禅寺文書」が収載されている。                (右、北條氏康寺領寄進状)
  永禄元年(1558)は、前述の嘆願文の弘治三年(1557)の翌年である。
  氏康が姉(妹か)の嘆願に応じて「堀越六郎の為」として、日牌領を三島の内の賀子と岩崎の十五貫文を寄進している。日牌領とは死者の菩提を毎日弔って貰うために寄進した
寺領のことである(『韮山町史』)。後述するが、天正十六年(1588)にも氏直家Img_20190820_0007_20190916085501
臣山角孫十郎が、この日牌領を再確認している。 
  次に示す④『香山寺寺領安堵状』が貴重な史料である。
  『神奈川県史』の訳文で、「かうせんじの寺領」とあり、香山寺(臨済宗、伊豆国市韮山山木)の「寺領安堵状」とも言われている。   (右、山木大方印判状)
  差出人に「山木大ほう」とあるが、末文に「香沼殿が筆にて書かせ」とあり、
この文書は香沼姫の代筆と言われている。つまり、山木大方の病重く代筆させたというのである。①文書で「氏康」が呼び捨てであったのに、「香沼殿」と敬称である。香沼姫が姉であろうか…
  年代が酉年とあるが次の史料で大方の他界が知れ、天正十三年の酉年と判明する。
  なお、大方(たいほう・おおかた)の呼び名について、幻庵宗哲が息女鶴松院に与えた『幻庵覚書』の3項目で、次のように教えている。「一、大かた殿をハ御たいはうと申されへく候、たゝしこなたかたへの御文にハ、大かたとのとやわらけ御かき候てよく候、心ハ一つにて候、大方これハひつきやう
(畢竟)してハおなし事也、大上様とも申物也」。(幻庵覚書) Img_20190916_0001_20191010094601
  次いで、右に示したのが高源院に対する寺領寄進状2通で、『韮山町史』の訳文である。1通(右)⑤は北條氏直の高源院に対する寺領寄進状であり、冒頭に「山木御大方の御菩提のため」とあり、大方の他界を知らされる。
  日付が天正十四年九月十九日とある。   (右、高源院へ寺領寄進状2通)
  あと1通(左)⑥も同日付で、年期が明けても寺領の寄進は更新するという、氏直家臣板部岡融成発給の朱印状である。
  従って、前記④『香山寺寺領安堵状』の酉年は「天正十三年で、八月廿一日から翌十四年九月十九日」の1年余の間に高源院の他界が判明する。
  こうしたことから『韮山町史』は、山木大方の他界を4項で記す「天正十四年八月二十四Img_20190822_0001_20191010095101
日」(世田谷区史料第二集)としている。とすると五代北條氏直は、大方他界の一ヶ月も経たない内に高源院に寺領を寄進していることになる。
  その後の右に示す⑧修禅寺文書は、天正十六年に氏直家臣山角孫十郎が、前記高源院の日牌領を再確認しているもので『韮山町史』の解読文である。 (右、北條氏虎印判状)
  これらの他にあと1通、天正十五年の⑦龍健寺掟書が相州文書に、高源院文書として収載されているが山木大方との直接の関係はないので省略する。
  以上7件の文書から、山木大方の山木差配と他界等が判明するのであるが、『風土記稿』は◎谷津村○高源院の項で、山木大方が高源院を開基したことを記している。

  ○高源院 曹洞宗、(武蔵國入間郡越生龍穏寺末)栖龍山と號す、開山梅叟林呑(本寺十三世、北條氏直
    の伯父と傳ふ、天正十八年五月廿九日卒)開基高源院長流泉香大姉は北條氏康の妹にて山木御大方
    と稱す、(慶長十七年六月十四日逝す。荻窪村大長院傳には慶長七年となし、氏直姉とあり、按ずるに
    山木は豆州田方郡の属山木村なるべし。蓋彼地に湯沐邑などありしを以て、かく呼びし歟、由來詳なら
    ず)初は豆州に起立すと云、高源院より寺領一町五反を寄附あり、其寄附状今に蔵す、曰(中略)
    高源院及香沼女(法名天桂院梅林祐香大姉、元和三年四月廿日逝)の位牌を安ず、
                                                (新編相模国風土記稿第二巻)
  山木大方は「慶長十七年六月十四日逝す」とあるが、位牌の写し間違いであろうか…。誤記である。
  というのも、「其寄附状今に蔵す、曰」とした後の(中略)の部分で、既述した高源院文書④~⑦の4件を収載し、同文書は「高源院文書」として『相州古文書』にも収載されている。
  特に④⑤⑥文書から、風土記稿編者は高源院没年が天保13年から翌14年の間と分かっていた筈である。明らかに誤記と分かる「氏直姉」を記す『大長院傳』の、慶長七年説をも記しているのも、「慶長十七年没」を疑問に思ったからではないだろうか…。あるいは、位牌か過去帳が誤記していたのであろうか…。それとも『風土記稿』の誤植は考えられないだろうか…
  大長院(曹洞宗、小田原市扇町)と高源院は同宗であるが、山木大方(高源院)に関して特別な関係があったのであろうか。『風土記稿』が記す大長院は、「正保四年(1647)建」を記した後、「されど鬼簿には、北條氏の臣大藤長門守開闢の地なり、故に其姓名の文字を採用して院號とすとあれば、正保四年中興せしなるべし」と、北條氏との関係を記している。
  そして高源院は当初、山木大方が伊豆に建立し小田原Img_20191114_0001
で再建とある。右『文久図』(1861~63)に井細田口から西
側に法授寺(城山に移転)・新光明寺・高源院・長吉寺・大
稲荷神社・福泉寺・宗圓寺が並立している。
  この内、高源院が現・小田原少年院跡地で、長吉寺が現・高長寺、大稲荷神社と福泉寺は現存と変わらない。現・高長寺(曹洞宗・小田原市城山)は、明治35年に隣接する長吉寺と高源院が合併しての改称という。因みに、小田原少年院は、明治36年の設立で平成21年に閉院している。
  また、高源院開山の梅叟林呑は「氏直伯父」とある。
  父方氏政の兄氏親は16歳で他界している。母方黄梅院(武田信玄息女)か、それとも継母鳳翔院の兄であろうか…
  なお、割愛したが「香沼女は、氏康の妹なりと傳ふ、然ば高源院の姉なり」との記述にも注目したい。
  山木大方は永禄元年(1558)?に次男貞朝を連れて小田原に帰ったとある(伊豆大事典)が根拠の明示はない。晩年は小田原高源院に住んだのであろう、夫君他界後の山木近辺の堀越家領地差配に関与していたことは間違いない。そして高源院で香沼姫を始めとして、氏政や氏直らに看取られて他界したのであろう。
  結婚前であろうが、「崎姫」を称した資・史料は全く見えず、その片鱗も窺えない。
  堀越六郎との結婚は天文九年(1540)頃が推定されているが、氏綱の勧めであろう。とすると、氏綱は山木大方をどう説得したのであろうか。また、嫡子氏朝(次男説あり)を吉良家の養子にしたのは、堀越の名跡を継ぐよりはより良いと考えたのではないだろうか。
  それにしても、政略結婚の典型的事例と思える夫君を追悼する嘆願状には感動させられる。
  
  2、堀越六郎とは
  これまで山木大方は、崎姫を称して掘越貞基に嫁いだとされていた。
  貞基は遠江今川氏六代目で、同家初代今川貞世了俊は『難太平記』を著している。五代貞延の長男一秀が瀬名郷(静岡市葵区瀬名)を与えられて瀬名氏を名乗り(徳川家康正室瀬名姫の先祖)、次男貞基が遠州堀越城(袋井市堀越)を本拠として堀越に改姓しているが、駿河今川本家とは行動を共にしていた。
  そして、貞基は天文六年(1537)に死去している。山木大方の嫡子貞朝
(後、吉良氏朝)は同十一年生まれであるから、貞基との結婚説は成立し Img_20190918_0001
ないのである。山木大方は貞基の孫堀越六郎との結婚が判明している。
  当時の堀越家について、小和田哲男著『中世の伊豆国』を要約して記しておく。                     ,(右、堀越・北條・吉良三家略系図)
  貞基の子氏延の名は、大永二年(1522)から天文七年(1538)に見えるので、今川氏親や北條氏綱と同世代と言える。
  この氏延が何故今川氏と不和になったかは不明であるが、天文五年の「花倉の乱」で今川氏に背いたのであろう、翌天文六年に見付端城(磐田市見付宿町)を今川義元に攻められ落城している。この後、河東一乱の頃、北條氏綱と同盟したのでは…、と推定している。
  河東一乱とは、天文六年から同二十三年にかけて、断続的に続いた今川家と北條家との抗争である。
  その発端は天文六年二月、甲斐の武田信虎の娘(晴信の姉)を今川義元が正室に迎えたことであった。この結婚は甲駿同盟であり、それまでの相駿同盟を破棄することを意味している。おそらく、この前後に氏綱は堀越氏延に働きかけ、相遠同盟に動き出したと推定している。
  そして氏延がいつまで堀越城に留まっていたかは判明せず、氏延の名が見えるのは天文七年までである。
  氏延は子六郎を連れて小田原に落ちてきた可能性がある、と記しながら、『土佐国蠧簡集残篇』所収「今川家系図」の氏延注記に「有造意生害」とあり、「殺された」とも記している。
  こうした経緯を知れば、堀越六郎に何も事績らしきものがないことも分かるし、氏綱の庇護の元で山木の地を与えられていたのであろう。ただ、山木大方との婚姻が小田原に来てからか、堀越在城の相遠同盟の際かは判明しない。また堀越城退去年も判明していないが、堀越六郎と山木大方の伊豆山木在住は前記文書で間違いはない。略系図は、こうした近年の研究(黒田基樹・小和田哲男等)によるものである。
  なお、この堀越氏は、鎌倉時代に足利政知が称した堀越公方とは関係はなく、堀越御所(伊豆の国市四日町)とも全く関係ないことを記しておく。
  
  3、独身を通した香沼姫      
  徳川家康に関係する相模国の遺跡と名勝を記した、天保十年(1839)成立とされる『相中留恩記略』(福原高峯著、長谷川雪堤画、以下『相中記略』と略す)に、次の記述がある。
                                                                                       
  ○浪士山本庄左衛門  山本庄左衛門は小田原谷津村に住居す。代々浪士なり。家傳に據に先祖は渡邊
    外記と称し小田原北條家に仕ふ。左京大夫氏政の命により伯母香沼女(氏康の妹なり)附人となれり。   
    香沼女乃所生は山本氏なり。同氏の女をも幼より側仕に給仕せしが長ずるの後、外記に妻せ山本の苗   
    跡を継しむ。よりて山本氏となれり。
    大神君様乃姫君、左京大夫氏直主へ御入輿あらせられし後、香沼女ことに御懇意浅からず、和歌乃御贈
    答なと有しと也。小田原落去の時、香沼女所持の書類、器物等多く散乱せしかと、定家卿の筆玉葉集所
    持の趣、上聞に達し、其頃は姫君池田少将輝政殿へ御再嫁ありしか、兼て香沼女と御懇ありしをしろし
    めされ、姫君の方より此ことを仰遣ハされしに、御所望に任せしかは、その御褒美に知行賜ハるへきよ
    し仰出されしを辞退ありて、願ハくハ住居屋敷永代諸役御免の旨、願上られしかハ、其望みにまかせ、
    大神君様より御印書を下されしとなり。其文中に「香沼入念候之旨尤ニ被為思召候。我外ニ人有間敷心
    易存可致住居」なと御認下されしとそ。香沼女は元和三巳年四月廿四日卒す。法名天桂院殿梅林祐香
    大姉と諡し、村内高源院の住僧導師となり、遺言に任せ屋敷の内、山腹に葬し、石碑乃覆屋に在世乃
    時乃輿を用ひしとなり。今も其所に石碑あり。上屋を置。同四午年正月、回禄にかゝり香沼女傳來の什
    器等まて多く焼失し、漸く御書及ひ長刀一振・鑓一筋・具足一領を持出たるのみなり。其後、稲葉丹後守
    殿小田原城主たるの時、屋敷内、年貢上納すへきよしを命せしに、先々の由緒を申立しかと取上なく、
    押て年貢を催促ありしかは、是非なく貢賦を収めしに、寛永十酉年、江戸へ願出しにより御吟味ありて、
    同十二亥年、先規のことく屋敷免除すへきの旨仰付られ、是まて上納乃年貢永も差戻し仰付られしとな
    り。(後略)                       (相中留恩記略)
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  女とあるのは、姫・娘のことである。
  同書挿絵に、長谷川雪堤描くところの「谷津村 山本庄左衛門宅と妙光院」がある(右写真)。左端手前に「天桂院墓」とある。
  現在は宅地化されているが、墓は香沼姫屋敷跡(小田原市城山)に、妙光院や慈眼寺(左端奥)なども現存し、現地をこの絵と歩けば当時を偲ぶことはできる。また、『風土記稿』も、ほぼ同様のことを記しているが、若干異なる部分を示す。
                                                                                      
  ○舊家山本庄左衛門 累代浪士なり。家乘に據に今住する宅地は、北條氏綱の女香沼女の邸蹟なり。
    この人終身處女にて當所に居住あり。其頃庄左衛門の祖、渡邊外記なるもの北條氏の命により傳と
    なれり。爰に香沼女の側に給仕する山本氏(香沼女の外戚と云)の女あり。後年媒酌して外記に嫁せし
    む。因て外記山本姓を冒すと云。香沼女は氏直の内室(東照宮の姫君、督姫君と稱す)と懇交なり、常
    に和歌の贈答などありしとなり、香沼女定家の眞蹟歌集を傳來せし事北條氏没落の後、東照宮の御聞
    に達し、姫君より舊好の因をもて、御所望ありしかば、即ち是を献ず(後略)  (新編相模国風土記稿)

  両書ともに「山本庄左衛門」の説明である。『風土記稿』は香沼姫の独身を記している。
  『相中記略』は、香沼姫の所生(生んだ親・父母、生まれた所・生まれ)は山本家であるという。
  山木大方・香沼姫ともに母親は未詳である。これによると、香沼姫は氏綱が山本氏の娘(香沼姫の実母)に生ませたことになる。また、外記が氏政の命令で浪人(傳役)となって山本家に来て、同家の娘と結婚し山本姓となったことは両書ともに記している。
  そして、香沼姫が家康息女督姫と昵懇で、玉葉集(相中記略)又は定家真筆歌集(風土記稿)を家康が譲り受けたという。このことは、戦国大名の姫たちの生活の一端が窺え貴重である。
  いずれも「家伝」を元にしての記述と思われるが、前述の「玉葉集」は『玉葉和歌集』であろう。とすると、同歌集は京極為兼の編纂で正和二年(1313)十月の成立である。藤原定家はそれより70年程前の仁治二年(1242)八月に死去しており、定家自筆の玉葉集はあり得ない。
  『留恩記略』の「玉葉集」は、何かの間違いではないだろうか。
  いずれにしても、香沼姫は定家真筆歌集を持っていたのであろう。この時の家康との約束で香沼屋敷の年貢が免除されている。それにしても、小田原はすでに大久保忠世が新城主として治めており、家康は忠世に指示すれば済むこと…、相手が女性であるからか…、あの家康が督姫を介して香沼姫に依頼していることが、何とも微笑ましい。年月の記載がなかったが『留恩記略』に「其頃は姫君池田少将輝政殿へ御再嫁あり」から、督姫再婚後と判明し余計、家康の女性に対する配慮が面白い。
  後段の稲葉家の年貢上納は両書ともに同様に記している。小田原における稲葉家の年貢徴収の厳しさを窺わせる記述でもある。香沼姫についての史料は、この両書の記述のみである。
  ところが、小田原での山木大方は香沼姫の世話とか、高源院小田原再興は香沼姫によるとか、裏付け史料を示さない推察論が散見される。傳役を付けられて小田原城を出た香沼姫に、そうした財力は考え難い。知行を辞退して、住居屋敷永代諸役御免を願ったことからも察せられる。
  また、香沼姫は氏綱娘ではなく、氏康の娘とする説も聞かれる。これも元和三年(1617)没が、崎姫の天正十四年死去より31年も遅く、長命過ぎるのではないかとする推察論である。氏綱の他界は天文十年(1541)で、満54歳(1487年生まれ)とされている。仮に氏綱四十歳の時(1527年)に香沼姫誕生として姫の年齢は90歳である。氏綱50歳ならば80歳である。当時としては長命ではあるがあり得ない話ではないだろう。
  北條五代で成人したと推定される26名の女性で、宗瑞息女の青松院と、氏康息女円妙院の経歴未詳と、香沼姫独身を除いた23名は結婚して北條家を支えている。
  香沼姫独身の理由は何であろうか… この事実が解明できない限り香沼姫の評
価は難かしい。

  4、崎姫は、吉良頼康室・蒔田殿
  「崎姫」について、世田谷吉良家菩提寺勝光院(世田谷区桜一丁目)の「愛縁薬師如来」由縁が、『江戸名所図会』に記されている。
  崎君(崎姫)を氏康息女として「天文六年(1537)の春、此尊像の霊示により永禄元年(1558)」に吉良頼康に嫁いだとしながら、中興の拙文で疑いがあるとして、文末では崎君は氏綱息女と訂正している。
  「吉良頼康と崎君結婚」の永禄元年は、1項②水口文書で三月二十一日時点で山木大方の小田原在住が確認でき、その後も山木大方は山木または小田原に居住していた。従って、この崎君は山木大方ではない。
  さらに文化九年(1812)、この像を実見した(現存しない)穂積隆彦が『世田谷私記』で、崎姫の結婚が尊像崇信の20年後などを理由に、「此愛縁佛の縁起ハ中興の偽作なり」と、縁起が偽作であると断じている。
  ただ、後段の「小田原家臣宗哲云々」は、吉良氏朝に嫁いだ宗哲娘の鶴松院が持参した『幻庵覚書』を、崎姫が持参したと混同している。(穂積隆彦・著『世田谷私記』)
  しかし、戦記物の『北條記巻第三「公方御他界之事付御台所御歌之事」』は、「マイ田殿(セタカイノ御所)吉良殿ノ御前」と、氏康息女と記している(北条史料集)が、これは幻庵宗哲息女が氏康養女として吉良氏朝に嫁いだ鶴松院のことで誤記である。ただ、「崎姫」は記していない。
  このように、崎姫と吉良頼康室と、氏朝室との混同は少なからずある。
  後述するが山木大方との混同も見え、世田谷区や横浜市は「山木大方の頼康室説は、蒔田殿と混同されている」として完全否定されているが、インターネットや小田原では、山木大方の再婚説までが言われている。
  頼康・室「蒔田殿」については、江戸時代成立の『寛永諸家系図傳』に「蒔田御所室」が、『寛政重修諸家譜』に「吉良頼康室」、『小田原編年録』には「吉良頼庸室・蒔田殿」、そして『続群書類従系図部』収載の「北條氏系図」にも「蒔田御所室」が、いずれも氏綱息女と記されている。
  また、『快元僧都記』の天文八年(1539)六月の条に、「七日癸卯、洪水、吉殿之御曹子御産、平安為祈念之護摩造修之、(快元御頼間人参勤之、廿一座)」と、頼康の安産祈願を記している。この頃は蒔田殿は吉良頼康と結婚していたとされる。
  この頃、山木大方も堀越六郎に嫁いでいる。   
  しかし、蒔田殿は没年も法名も判明していない。そこで、これまで頼康室とも記されていた崎姫は、蒔田殿ではないかと考えてみた。
  先ず1項で『韮山町史』が、山木大方没年を天正十四年八月二十四日と記す発端となった『江戸淨仙・呂顕連署奉書』(世田谷区史料第二集)の解説は、高源寺は高源院の誤記で、吉良頼康夫人の高源院殿長流泉公大姉の申出によって寶生寺(真言宗、横浜市南区堀内町)門前の住民らに、塩場その他一切の公事を免除すると通達したもので、高源院が女性であるため、江戸淨仙と景福軒呂顕が代わって発給しとものという。
  しかし、文書発給年の天文十一年(1542)は、山木大方(崎姫として)は堀越六郎に嫁いで、嫡子頼貞(後、氏朝)が生まれた年で、未だ高源院は称していないであろう。
  そして最も注目されるのが、『続世田谷徴古録』収載の「石井家本吉良系図」(吉良氏の研究)で、「室ハ北条氏綱娘サキ姫ト云、世ニ蒔田御前ト称ス」とあり、さらに「天正十四年八月廿四日卒」「高源院殿長流泉公大姉」を記している。この法名は、何から記したのであろうか。ただ、幻庵覚書の混同は前述の『世田谷私記』と同じである。
  それにしても法名高源院殿は兎も角、大姉までの10文字全部が山木大方と蒔田殿が全く同じとは思えない。この法名を記すのは私の調査では『風土記稿』の小田原高源院と、石井家本の「吉良系図」である。どちらかが混同しているのであろう。
  この没年月日は高源院(山木大方)ではなく、蒔田殿ではないだろうか。
  なお「石井家本吉良系図」とは、『続世田谷徴古録』収載(蒔田の吉良氏)で、幕府の御書物奉行を務めた石井至穀(安政六年(1859)82歳で死去)の著作(吉良氏の研究)で、文政元年(1818)以降の成立(蒔田の吉良氏)という。
  また横浜市歴史博物館編集の『蒔田の吉良氏』収載の、幻庵宗哲息女・鶴松院が氏康養女として吉良氏朝に嫁いだ際に持参した『幻庵覚書』の、文政六年(1823)九月十六日付修補奥書を収載している。「高源院殿(崎姫君御方)世田谷へ御入輿之時」とある。
  高源院を崎姫と記している。筆者「源義房」は吉良義房で、2項で示した略系図の十七代義俊の後継十八代義所、十九代義豊の後、二十代の義房である。義房は北條氏照や北條氏家臣の清水正次と笠原秀範など、北條家を良く調べているが崎姫と高源院を混同していることは、これまでと同様である。
  ただ私の調査では「高源院殿」法名を記すのは、この文政六年の『幻庵覚書・修補奥書』が初見である。次いで『続世田谷徴古録』(文政元年以降の成立)収載の前記「吉良系図」に、天保十二年(1841)成立の『相模風土記稿』の3件になった。因みに『武蔵国風土記稿』には「勝光院」の記述に吉良頼康は記しているが、蒔田殿も崎姫の記述はない。
  『幻庵覚書・修補奥書』と『続世田谷徴古録』は、「高源院殿」法名を何から知ったのであろうか…。また、『続世田谷徴古録』の高源院没年月日も何から知ったのであろうか…
  そして『続世田谷徴古録』の法名は、「蒔田殿=高源院」の史料が見えないだけに、「山木大方=高源院」が正しい。『幻庵覚書・修補奥書』同様、崎姫と山木大方を同一人物と見ていた混同によるものであろう。
  それにしても、何故「崎姫=蒔田殿」が、これ程まで嫌われた(記述がない)のであろうか…
  発端は『江戸名所図絵』と『世田谷私記』の誤記指摘であろう。改めて両書を精読すれば、崎姫は氏康息女ではなく氏綱息女と指摘しているのであって正しい。また『世田谷私記』は、「愛縁薬師如来由縁」の崎姫20年も前の結婚約束を否定しているのであって 、崎姫=頼康室・蒔田殿を否定しているわけではない。こうした誤解(早合点)が、『幻庵覚書・修補奥書』や『続世田谷徴古録』にまで及んでいたのであろう。
  おそらく、崎姫(後、蒔田殿)の法名は高源院ではなく、山木大方の没年も別ではないだろうか?
  蒔田殿の法名と、山木大方の没年月日を知りたい。
 
  5、修禅寺奥の院を訪ねるP1000860     
  北條氏綱の息女で山木大方と呼ばれた高源院が、修禅寺奥の院正覚院を亡夫堀越六郎の菩提寺としたことは記してきた。        (右写真、修禅寺奥院正覚院)
  その山木大方の嘆願に対する氏康の回答ともいうべき「修禅寺文書」も示した。嘆願文の弘治三年の翌年である。氏康が姉(妹か)の嘆願に応じて、堀越六郎の日牌領として「修禅寺衣鉢閣下」宛に、三島の内の賀子と岩崎P1000861の十五貫文を寄進している。
  日牌領とは死者の菩提を毎日弔って貰うために寄進した寺領のことである(韮山町史)。氏康が、山木大方の要望に応じたことも分かった。
  その後の天正十六年(1588)、北條氏直家臣の山角孫十郎が、この日牌領を再確
認している修禅寺文書も『韮山町史』は収載していた。     (右写真、いろは石2葉)
  平成28年5月、六郎の菩提寺とした正覚院(曹洞宗、伊豆市修善寺)を訪ねた。P1000862
  修禅寺からは、ほぼ5㌔ほどの道のりであるが、「いろは石」と呼ばれる奥の院へ
の道標が「いろは」48本も現存しており、往時に想いを馳せることができる。 
  奥の院の正覚院に到着すると、延暦十年(791)18歳の空海(弘法大師)が修行した所と説明され、「駆篭の窟(かりごめのいわや)」と言われる岩の洞があり、岩壁にかかる阿吽(あうん)ノ瀧の下で修行したと言われている。                                P1000859_20190823105501
  ただ空海は延暦十年、大学明経科に入学し、岡田博士らについて「毛詩」「尚書」「春秋左氏傳」等を学び、一人の沙門(僧侶)に虚空蔵求聞持法を授けられ、以後、阿波国大瀧ヶ嶽や土佐国室戸崎などで勤行修行をしていたと言われ、伊豆へ来たという史実は確認されていない。一般的にこうした空海の伝説は、北海道を除く全国各地に存在しているが、弟子たちによる普及活動によるものと言われている。        (右写真、駆篭の窟と阿吽の滝)
  残念ながら、六郎の菩提寺とする関連遺構等は全く見えないが、静寂とした雰囲気の中、瀟々として落ちる瀧の水音に往昔が偲ばれた。

  6、香山寺も訪ねる                      
  山木大方が景雲山香山寺(臨済宗、伊豆の国市韮山山木)宛に出した書状があった。「かうせんじの寺領」とあり、香山寺の寺領安堵状と言われている。
  差出人は「山木大ほう(方)」とあるが、香沼姫の代筆と言われる貴重な文書であった。P1000850_20190823073401
  年代が酉年のみであるが、天正十三年(1585)と判明し、翌年に山木大方は他界したようである。同寺は興廃を繰り返していたが、この文書にあるように小田原北條氏の支援もあり現在に至っている。                              ,(右写真、香山寺山門)
  山木大方は、自らの菩提寺高源院を豆州に創建しているが、焼失したのであろう小田原に再建している。この間、高山寺に居住したとも言われている。
  平成28年5月、香山寺も訪ねた。
  韮山の江川邸からは、伊豆国の目代・山木兼隆邸跡を経て600㍍ほどの距離でP1000851_20190823110301
徒歩で行ける。山木兼隆の開基とあり、兼隆の供養墓もあるが近年の建立である。
  山門は、江川邸に置かれていた韮山代官所が、明治初期に韮山県庁として使わ
れた際の石造りの門を移築再建したと説明されており、特異な雰囲気を醸し出して
いる。山門から参道を歩いて正門に至る。            (右写真、香山寺正門)
  庭園を巡ると、1項で述べた「巳」の修禅寺文書の差出人に「山き」とあった。「山木P1000852_20190823110701
大方」と呼ばれた高源院が、香山寺に住んでいたとの推定が思い浮かぶ。
                        (右写真、山木大方の居室か? 静寂そのもの)
  また、宗瑞が京から以天宗清を招き、早雲寺建立の構想を話し合った際も、宗清
を香山寺に住まわせたとも言われている。              

  7、香沼姫、崎姫と堀越六郎の息女説
  黒田基樹は『戦国北条家一族事典』で、崎姫(山木大方の誤記)に関して3件の新説を言っている。最近、これに添ったと思えるネット記述も散見される。3説は、論考としても不自然に思えることから検証してみた。

   ①堀越六郎の死去年は不明だが、(中略)菩提寺は正覚院といったことがみえているが、これは早雲寺山
     内に存在した正覚院にあたるとみられる。同寺開基の正覚院殿大円宗忠大禅定門というのが、すなわ
     ち六郎の法名と考えられる。                               (戦国北条家一族事典)

  このことは箱根叢書『早雲寺』が、早雲寺山内にあった塔頭7ヶ寺院を記した後に、「早雲寺記録によると早雲寺山内には三玄院・正覚院(開基正覚院
殿大円宗忠大禅定門)・栖徳庵・椎枕軒(大 Img_20190915_0001
室宗碩之寮舎)などがあった」との記述からであろう。
  右に1項で示した山木大方関係文書の表を再掲した。修禅寺文書の①③⑧が、修禅寺奥の院正覚院への寺領寄進関係を記している。早雲寺正覚院は、全く関係はない。単なる同名寺院である。
  次いで、次のようにも記している。

   ②高源院(崎姫)は、天正十四年(1586)八月二十四日に死去し(*)、法名は高源院長流泉香大姉といっ
     た。菩提寺として小田原谷津に高源院が建立された(*)。同地は宗哲の所領でもあったから、彼女は
     その庇護下にあったのだろう。                              (戦国北条家一族事典)

  『風土記稿』は高源院は当初、伊豆に建立され小田原は再建と記していた。(*)印は脚注で、いずれも『新編相模国風土記稿』を記している。『風土記稿』を記しながら、その記述は無視している。
  そして最も問題となるのが、次の記述である。

   ③(崎姫の)子は氏朝と娘香沼姫の二人であり、氏朝は永禄三年(1560)には吉良氏の養子になった。香
     沼姫は未婚のまま過ごし、北条氏滅亡後も谷津村に居住し、元和三年(1617)四月二十日に死去。法
     名は天桂院殿梅林祐香大姉といった(*)。なお、早雲寺所蔵の「平姓北条氏系図」には天正十五年生
     まれと後注されているが、これは誤りである。しかし、「天正」が「天文」の誤記で、天文十五年生まれの
     ことであるならば、その可能性は十分にある。その場合、享年は七十二となる。
                                                     (戦国北条家一族事典)
  香沼姫は崎姫の姉か妹とされていた。それが突然「娘」だという。(*)印は前記同様『風土記稿』である。
  この文章は可能性を言っているが、略系図を示して「崎姫娘で享年72才」を断定している。
  その出典は、早雲寺所蔵「平姓北条氏系図」であろうか。記述が曖昧でよく分からない。
  黒田氏は『北条氏康の子供たち』で、戦国大名北条氏(中略)に関する比較的詳しい記載がある系図として(中略)「平姓北条氏系図」(旧狭山藩主北条家文書)を引用している。同書では、崎姫の子供は氏朝のみである。どういうことであろうか。仮に、堀越六郎と山木大方の娘として、谷津に屋敷を構えていたことは、どのような理由であろうか。
  箱根町立郷土資料館は同館文書目録に、早雲寺所蔵「平姓北条氏系図」は見えないという。
  結局、出典が不明瞭である。余りに杜撰な新説と思うが、読者はどう思われますか。
  新説を主張されるならば、旧説との比較は元より、何よりも出典を明示していただきたい。これまで黒田氏本を愛読してきただけに裏切られた思いを否めない。残念である。

  おわりに
  「歴史探究は難しい」と改めて実感させられた。特に、崎姫・香沼姫ともに史料があまりに少ない。にも関わらず伝承話は少なくはない。伝承話が史実ならば苦労はしない。今回のテーマは、歴史論考が往々にして既存の論説を借用することが多いが、真偽を確かめる必要性を痛感させられた。崎姫=山木大方は、500年近く言われ続けられていたことになる。その点、マリコ・ポーロ氏のご指摘に敬意を表したい。
  それにしても、山木大方関係8件の文書は貴重である。それらの文書が、夫君堀越六郎他界から大方他界前後までを伝えている。堀越六郎存命中が知れる文書が出て来ないものだろうか。願わずにはいられない。
  本ブログでは「香沼姫、崎姫の息女説」について、著名な学者先生の著作を批判してしまった。間違っているであろうか。読者のご意見を是非是非、お知らせいただきたい。
  令和元年10月、本ブログ(その44)で「新説・まぼろしの崎姫」を記した。蒔田殿に「崎姫」の史料は見えない、と記してきたが、結局、蒔田殿も「崎姫」ではなく、崎姫は架空の人名ということが分かった。
  合わせて本ブログ(その44)をご笑覧いただきたく、お願い申し上げます。

                                                           郷土士

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  なお、ご許可いただければ、その時点で公開とさせていただきます。

参考文献
   神奈川県史資料編3古代・中世        神奈川県民部県史編纂会 神奈川県                 S54.3
    韮山町史第三巻(中)古代・中世編    韮山町史編纂委員会  韮山町史刊行委員会       S61.3
    韮山町史第三巻(下)古代・中世編    韮山町史編纂委員会  韮山町史刊行委員会       S62.3
    新編相模国風土記稿第二巻      編集・校訂、蘆田伊人  雄山閣             S45.9
   小和田哲男著作集第5巻「中世の伊豆国」   小和田哲男   清文堂出版         H14.1 
   相中留恩記略 天保十年(1839)    福原高峯・著、長谷川雪堤・画 ㈱有隣堂           S42.11
   吉良氏の研究               荻野三七彦        名著出版           S50.
   世田谷区史料第二集                         世田谷区           S34.3
   勝光院文化財綜合調査報告                    世田谷区立郷土資料館    S45.9
    蒔田の吉良氏      編集・横浜市歴史博物館 公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団   H26.7
   戦国北条家一族事典           黒田基樹         戎光祥出版㈱         H30.6
    北条氏康の子供たち           黒田基樹・浅倉直美  ㈱宮帯出版社         H27.12
    箱根叢書『早雲寺』             早雲寺史研究会     神奈川新聞社         H2.3

(その43)崎姫と香沼姫、そして山木大方
  初  稿 2019. 8.23
  更新1  2019.  9.15 改訂、タイトル変更。元「北條氏綱息女、崎姫と香沼姫」

郷土士の歴史探究記事
その1 江戸の遊廓「吉原」7を開いた庄司甚右衛門の謎  その2 良正院督姫の誤伝を糺す
その3 浄光院お静の生涯と保科正之             その4 日本最古の水道「小田原早川上水」
その5 北條氏康室・瑞渓院と今川氏真室・早川殿     その6 『明良帯録』を書いた山形彦左衛門
その7 北條氏政室・黄梅院と武田勝頼継室・桂林院    その8 贈答品・進上品等にみる北條家の文化財
その9 北條家と世田谷吉良家(付、崎姫と香沼姫)     その10 北條五代を支えた女性たち(改訂)
その11 北条五代を支えた男性たち               その12 西国で存続した北條氏と伊勢氏
その13 早雲庵宗瑞の小田原入城、その秋は明応9年    その14 三浦義意を祀った北條氏綱と居神明神社
その15 幻の大森氏小田原城と大森時代の小田原宿    その16 北條氏綱と居神神社の「勝って兜」碑
その17 北條氏綱の小田原城と小田原の町づくり      その18 北條氏綱の三嶋大社と鶴岡八幡宮再造営
その19 小田原北條家と浅草寺の再興             その20 北條二代氏綱の江戸制覇と弁財天の勧請
その21 宗瑞継室狩野氏女と氏綱正室横江氏女の出自  その22 伊勢弥次郎(早雲庵宗瑞・弟)の生涯
その23 虎朱印「禄壽応穏」と北條氏の印判          その24 福良と小田原の居神明神社名の由来
その25 下堀方形居館跡の謎                  その26 北條幻庵宗哲の生涯
その27 北條氏の花押と家紋                   その28 歴博の中世文書展と小田原開府五百年?
その29 新編・早雲庵宗瑞の生涯               その30 北條氏綱、「贈従三位」を叙位される
その31 「初見虎の印判状」発給者と氏綱の家督継承    その32 大久保忠眞の「贈従三位」叙位
その33 九嶋から北條姓を許された玉縄北條綱成家    その34 玉縄甘糟氏は、北條氏家臣か ?
その35 居神明神社と三浦氏関係の新史料         その36 検証、居神明神社名の由来
その37 北條家の縁、徳川家康の側室たち          その38 高潔の武将・北條氏照と室・大石比佐
その39 もう一人の伊勢宗瑞・弟?             その40 北條五代「去る者は追わず、来る者は拒まず」
その41 能楽・宝生流家元の小田原来住            その42 「戦記物」の虚構と史実 
その43 崎姫と香沼姫、そして山木大方            その44 新説・まぼろしの崎姫






 

2019年8月17日 (土)

郷土士の歴史探究記事 その42

                                 「戦記物」の虚構と史実

  平成29年12月5日(水)NHKの「歴史秘話ヒストリア」最新研究「早雲の実像」で、副題の「北條早雲の間違えだらけの履歴書」が放映された。その放映では5件の間違いが指摘され、私は最新情報を含めた5件を加えた10件を本ブログ(その29)で、「新編・早雲庵宗瑞の生涯」としてまとめた。
  最近、伊勢宗瑞・氏綱父子が三浦義同・義意父子を自刃せしめた場所は三浦三崎城で、「戦記物」が記し多くの「自治体史」にも当然のように記されている新井城は、一部、歴史学者に実在が疑問視されている。
  というのも「新井城」は「戦記物」には記されているが、一次史料には見えないのである。
  こうした「戦記物」は物語本であり、現代でいう時代小説と言って良いであろう。従って一部記述は誤記ではなく創作であり、「虚構」と言って良いであろう。ただ、何故か北條五代関連の「戦記物」、それも伊勢宗瑞の記述に非常に多いことから、戦記物と史実との主な相違点10項目を検討してみた。

   1、伊勢宗瑞の姓名と出自説Img_20190920_0004
   2、伊勢宗瑞の伊豆国制覇
   3、伊勢宗瑞の小田原入城
    ※要害と城
   4、伊勢宗瑞の相模国制覇
   5、三浦新井城は存在したか?
         おわりに
 
  1、伊勢宗瑞の姓名と出自説
  上表に示した10件の虚構と史実を、表の○数字に従って順次説明する。

  ①姓名の「北條早雲」は「戦記物」に記されているが、「北條姓」は二代氏綱からと言われている。
  『北條記』は、伊勢新九郎入道宗瑞で、「後、早雲を称した」として北條姓は記していない。
  『小田原北條記』も伊勢新九郎長氏または氏茂が、早雲庵宗瑞を称したとして正しい。                                
  『北條五代記』が「伊勢新九郎氏茂が[後、北條早雲宗瑞を称した]として、北條姓は伊豆北條の地名からと、鎌倉北條氏由縁説に三島明神霊夢説の3説を記しており面白い。
  「戦記物」の北條早雲は意外に少ない。ということは、「北條早雲」は明治・大正・昭和の学者先生たちによって定説化されたように思えるが、どうであろうか。
  伊勢宗瑞は、右表に示すように康Img_20181230_0004
正二年(1456)伊勢盛定の次男として生まれ、新九郎と名付けられる。
  文明三年(1471)16歳で平盛時、明応四年(1495)40歳で伊勢宗瑞、明応八年(1499)44歳で早雲庵宗瑞を称したことが、史料からは正しいとされている。

  ②出自については、「戦記物」ではImg_20190818_0001_20191007151001
右表に示す4説が言われているが、この他に「京都伊勢氏」説が江戸時代の『寛政重修諸家譜』や系図類に見え、五説が知られていた。
  特に伊勢国出自説を記す『相州兵乱記』は、「伊勢國住人新九郎宗瑞(伊澤ト云所ノ人也)。明應ノ比(頃)相州ニ來テ旗ヲ擧(後略)」とある。この伊勢国伊澤を「射和(いざわ)」(松阪市射和町)とする「松阪市射和出自」説を、同町の清水勝也氏から教えられた。
  しかし、史料が『相州兵乱記』の1件のみでは、「説」とするにも説得力に乏しい。
  他にも「伊勢之住人」(北條記)説や伊勢から京への「移住」(今川記)説もあった。
  こうした伊勢国出自説が発展して明治時代に「伊勢素浪人」説が一部学者から言われ、定説化していたことは筆者の年代では記憶に残っているが、現在では「備中伊勢氏」が定説とされている。
  なお、宗瑞の生・没年と享年は、江戸時代初期の戦記物にはない。
  享保十一年(1726)成立とされる槙島昭武・著『関八州古戦録』を「戦記物」として扱うのは躊躇われるが、「永正十六年八月十五日八十八歳にて韮山の城に終われり」とある。ただ、同書以前の『続群書類従』系図部所収の寛文頃(1661~72)の成立とされる「伊勢系図」に、「寿八十八歳、永享四年(1432)誕生」が記されており、同書は「伊勢系図」からの引用と思われることは本ブログ(その29)で記した。
  伊勢宗瑞は、文明十五年(1483)28歳の時から幕府申次衆が確認でき、明応元年(1492)には37歳で奉公衆一番衆に就任していたことも本ブログ(その29) で記しているので参照されたい。

  2、伊勢宗瑞の伊豆国制覇
  ③宗瑞の城主就任は、『北條記』と『今川記』が、長享元年(1487)宗瑞が今川家家督争いに介入して小鹿範満を敗り、その恩賞として龍王丸(後、今川氏親)から興国寺城を与えられた、とされていた。
  しかし、宗瑞興国寺城主の史料は皆無で、天文十八年(1549)今川義元が善得寺(冨士市今泉)の末寺である興国寺(沼津市根古屋)を移転させて、その場所を城地とする文書が興国寺城の初見である(沼津市史)。従って、宗瑞の「興国寺城主」は、あり得なかったことは本ブログ(その29)で記した。

  ④足利茶々丸の滅亡も、『北條記』等が明応二年(1493)に韮山城で茶々丸滅亡を記しているが、史実は同年は韮山城からの追放で、同五年には茶々丸は武田氏を頼り甲斐吉田の正覚庵に逃れ、同七年の明応地震後に甲斐国での他界(自殺とも)に改められている。
  『王代記』明応七年八月の条に、「伊豆ノ御所腹切玉ヘり、伊勢早雲御敵ニテ」と記され、甲斐での死去(小田原市史史料編)が判明している。切腹とあるが理由は病苦カ、その死去経緯の記述はない。

  ⑤病人に薬投与と⑥関戸吉信滅亡の善悪2説は、『北條五代記』が「伊勢新九郎伊豆相模を治る事」で、延徳三年(1491)宗瑞が伊豆松崎・西奈・多子・阿羅連に上陸した際、村中が病人であったため薬を投与したという美談を記している。そして、その直後に⑥深根城(下田市稲梓字堀之内)へ逃げた茶々丸以下、関戸一族を「女房・童子・法師まで」皆殺しにしたと記すが、そうした史料はない。
  善悪話を対照的に記す物語本特有の作り話である。

  3、伊勢宗瑞の小田原入城Img_20171016_0003 
  ⑦伊勢宗瑞の小田原入城時期であるが、右表に示すように多くの戦記物が明応3・4年を記している。右表で『鎌倉大日記』が、明応四年(1495)九月を記している。

  ⑧入城方法は、『北條記』等の戦記物が「鹿狩り」にこと寄せて、中国の司馬遷・著『史記』にある故事「火牛の計」による侵略を記したことが、ほぼ定説のように言われていた。特に『相州兵乱記』は、年号の記載はないが「火牛の計」が詳しく描かれ、『北條記』をはじめ、右表の「鹿狩り」を記した戦記物は、同書に倣ったようにも思える。                                
  この「火牛の計」も、寿永二年(1183)五月の源(木曽)義仲と平惟盛との「倶利伽羅峠の合戦」を描いた『源平盛衰記』(鎌倉時代の成立)が知られており、『相州兵乱記』や『北條記』等は、同書を模倣した「二番煎じ」の記述が否めなImg_20190920_0003
い。著作権などない当時の物語本の象徴とも言えよう。
  なお、『豆相記』は、北條氏が材木伐採を理由に大森氏から山入りの許可を得た後に「火牛の計」を記している。また『喜連川判鑑』や『鎌倉大日記』・『寛政重修諸家譜』・『大森葛山系図』等は物語本ではなく、さすがに「火牛の計」の記述はない。
  以上、表に示した資料は後世の編纂物で、一次史料は皆無である。
  そして、注目されるのが右に示す明応五年(1496)と推定される七月二十四日付長尾能景(越後守護代)宛、山内上杉顕定書状写である。 (右、解読文)
  山内上杉方(長尾景春ら)軍勢が、扇谷上杉方が守る要害(小田原城カ)に
攻め入った時の記述である。ここに「伊勢弥次郎ら数多(あまた)討捕」(小田原市史史料編Ⅰ308)とあり、『勝山記』も同じ明応五年の條で「此年、伊勢入道ノヲトヽ(弟)弥二郎、七月、ラウトウ(郎党)太敷共ニ打死」と、弥次郎の戦死を記している。(小田原市史史料編Ⅰ309)
  しかし、翌明応六年十二月五日付、宗瑞の「大見三人衆」宛、長年の籠城を賞する書状に、弥次郎の名が記され存命が確認できる(小田原市史通史編別冊附録捕遺3)。また、重傷ではあったが死は免れていた史料も発見され、弥次郎は大永Img_20190816_0005
二年(1522)58才死去が確認されている。(駿河大宅高橋家過去帳)
  そして『会津坂下(ばんげ)町史』(昭和54年刊)に収載の『異本塔寺長帳』が、明応九年小田原入城を記している。

   (明應九庚申年) 北條氏茂入道宗雲小田原城ヲ攻取テ入城ス   (異本塔寺長帳)
                   
  明応九年に「氏茂入道宗雲」が、小田原入城とある。
  大森氏当主は小田原城にいて真田城(平塚市真田)に逃げたとされている(異論もある)。これも小田原城を落とされたとすれば、大森氏支城の岩原城(南足柄市岩原)か沼田城(南足柄市沼田)辺りに逃げるのが自然であろう。
  ただ、大森氏小田原城が何処にあったかも判明していない。
  『風土記稿』足柄上郡巻之七◎塚原村○長泉院(曹洞宗、南足柄市塚原)の説明に『岩原郷古城略記』の記述がある。当時(天保時代)、岩原村里正(庄屋・名主に相当)所蔵とあるが、現在は(写)が長泉院の所蔵である。  
  小田原落城を記す本文8行から10行までの解読を右に示した。
  明応九年に北條氏茂(早雲庵宗瑞)の為に、「岩原・川村(河村)・内山(浜居場城と春日山城)等が一時に落城、家臣たち悉く戦死、後に実頼父子は三浦新井城で自刃」とある。
  ここに小田原城の記述はない。既に占拠されているということであろうか。

  ※要害と城
  既述の山内上杉顕定に弥次郎らが攻められた文書に「要害(小田原寿カ)自落」と「要害実田(真田城カ)」(平塚市真田)とあった。この「要害」が後に「城」と呼ばれることが、一次史料から判明する。
  語源辞典等によると、「城」は古代から中世初期までは「柵」と記され「き」と呼ばれていた。山形県の「出羽柵」は「いではのき」で、太宰府近くの大野城は「おおのき」である。こうした城(き)が室町末期以降「しろ」とも読まれはじめ、北條氏や織田信長等の中世城郭が「○○城」と
称されるようになったという。Img_20191007_0001
  この語源辞典等からの解釈で、大森氏時代の「城(しろ)」もそうだが、「小田原城」の固有名詞はどうであったろうか。『小田原市史史料編』から、「要害」と「城」の記述を抜粋した。右表1が戦記物(二次資料)で、表2に一次史料をまとめた。 
  「資料欄」のⅠは『市史史料編中世Ⅰ』で、Ⅱが同『中世Ⅱ』である。表1は、明応二年のみ「要害」を記しているが、他は全て「城」である。これに『市史』が採録しなかった『相州兵乱記』や『北條五代記』・『異本小田原記』に、『関八州古戦録』等も「小田原城」を記し、大森頼春・氏頼・実頼・藤頼四代との関わImg_20191007_0002
りを言っているが俄には信じ難い。
  次に注目されるのが右表2である。
  明応六年までの殆どが「要害」である。
  同三年の『石川忠総留書』のみ、「関戸要害・玉縄要害」を記しながら「川越の城」とある。石川忠総は大久保忠隣の三男で天正十年(1582)生まれ、忠隣室の実家石川家養子に入っている。石川忠総・著のこの『留書』は、一次史料ではあるが著者の知り得ない「中世」の記述は二次史料で、「川越の城」も江戸時代の用語であろう。
  次いで永正三年の宗瑞書状は「今橋要害」としながら、「本城・端城」とある。本城は今橋要害、端城は今橋要害近くの支城であろうから、あるいは「ほんき・はき」と読んだのではないだろうか。いずれにしても「城」の言葉が用いられ始めている。
  そして、永正七年の道寸書状の「小田原城涯」が『市史』一次史料の「小田原城」初出(初見)である。これは、固有名詞「小田原城」の涯か…、あるいは「小田原の城の涯」であろうか…
  この後、在城や城中・籠城など今と変わらない言葉が見えることから、多くは北條時代になって「城(しろ)」が称されるようになったことが分かる。ただ、「要害」が思った以上に多い。北條時代も初期は多くは「城」とは言わずに「要害」と称していたのであろう。
  「要害」とは「地勢が険しく、敵を防ぎ味方を守るのに便利な地。砦・城塞」(広辞苑)とある。
  当然、設備小規模な城塞・砦は「要害」と称されたであろう。それにしても「要害」が多い。語源辞典等には固有名詞「○○要害」の説明はない。あるいは、関東地域特有の呼称であった可能性も否定できない。
  以上、戦記物が「城」を記しているのは虚構ではない。戦記物の多くは江戸時代の成立で、当時は既に「要害」は死語になり「城」と称していたからである。

  4、伊勢宗瑞の相模国制覇
  永正九年(1512)八月、伊勢宗瑞に岡崎城(平塚市岡崎)を追われた三浦道寸(義同)が、嫡子義意が守る三浦新井城に逃げると、宗瑞は初めて鎌倉に入り十月には玉縄城を築き(小田原市史年表)、翌十年四月に三浦城を攻めたのが三浦合戦の始まりである。
  その間の経緯を前記『異本塔寺長帳』が、次のように記している。

   永 正 九年壬申、三浦時高子陸奥守義同入道道寸ト北條氏茂入道宗雲ト於岡崎合戦陥城
     同 十三年丙子、北條宗雲并氏綱三浦道寸ヲ攻(七月十四日ニ荒井城落ト云誤也、道寸父子討死ハ
               十五年戊寅也)
      同 十五年戊寅、七月十一日(三浦道寸并荒次郎義基、北條宗雲攻荒井城岡Img_20190816_0004
               崎也)陥城、父子討死              (異本塔寺長帳)                                      

  永正九年に岡崎城を陥落させ、同十三年に荒井(新井)城で道寸父子討死を起しながら、同十五年の誤りとして同年に改めて記している。
  これは、⑨新井落城を戦記物の殆ど全てが永正十五年七月と記していることから、史実を記しながら、その後の戦記物に惑わされたのである。
  ところが、右に示す『建芳書状写』(秋田県公文書館・蔵)が、2年前の同十三年七月、三浦父子は「三崎城中で自刃」を記している。
  建芳(扇谷上杉朝良)が、普門寺(鎌倉長建寺住持、用林顕材)に永正十四年三月に宛てた手紙である。「去年七月三崎落居、道寸父子於城中討死」とあり、永正十三年七月に三崎城で道寸父子討死が史実と改められている。
  そして文書史料は大森氏時代までは「○○要害」で、北條時代に入ってから「○○城」が用いられ始めていることは既述の通りである。
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  5、新井城は存在したか?
  ⑩「新井城」が近年、注目されている。新井城(要害)は文書史料に見えないことから、新井城(要害)は存在しなかったのではないか、と言われている。
  真鍋淳哉は著書『三浦道寸』で「三崎城(新井城)」と表記している。
  しかし、これでは「三崎城=新井城」である。どうであろうか。真鍋は、その理由を「三浦道寸は伊勢宗瑞に岡崎要害を追われ住吉要害に逃れるが、同要害は弟の道香に任せ、自身は本拠の三崎要害に移っている。
  右に示す文書から、北條方が三崎要害に迫っていることが分かる。三崎要害の戦闘で疵を負った僧の智宗に、古河公方足利政氏が感状を出したものである。この合戦が三浦氏・扇谷上杉氏のみならず、足利政氏の命の元に行われていることも分かる。
    そして、この三崎要害が一般的には「新井城」と呼ばれ現在、三浦市小網代に所在する「新井城跡」と同一の地を指すことは間違いなかろう。「新井城」の名は江戸時代に成立した軍記物に多く見え、地元でもこの呼称が用いられることが通例であるという(真鍋淳哉)。
  新井城跡は、三浦義同・義意父子の墓で知られ、三浦義意を祀る居神神社でも毎年、墓参しており、私も同行させていただいている。Img_20191007_0009
  右に示す『風土記稿』が、◎小網代村○新井古城を記している。新井城は、「小名・荒井(新井)にあり、北は網代湊で南は油壺の入江に突き出している」とあるから、現在の新井城跡を言っていることに間違いはない。                  
  大手門と思われる所に引橋と称する名称が残っている、とある。他には「千駄矢倉」が本丸の崖下の洞で兵粮を貯えていたとある。
  そして現存している「三浦陸奥守義同入道道寸墓」の説明があり、天明二年(1782)に道寸開基の永昌寺(臨済宗、三浦市三崎町小網代)九世正機の建立とある。同様に三浦道寸が開基した海蔵寺(曹洞宗、三浦市三崎町小網代)住職が建立したという三浦義意の墓についても記している。Img_20191007_0004
  両墓は江戸時代の天明二年に建立された供養墓である。
  また「義士塚」の説明がある。この義士塚は『風土記稿』の記述のみで「戦記物」にもない。4名の名を記さず、北條家にも全く関連史料は見えない。
  以上、新井城遺構の説明は「引橋」と「千駄矢倉」に「義士塚」の3件のみで、『風土記稿』の4頁に亘る記述は「小田原記」と「北條五代記」の引用がほとんどである。小網代村の小名にしても△西△東△荒井△高山の4箇所で、新井城が想定できるのは小名「荒井」のみである。「引橋」にしても「小名」にはない。
  三崎城についての『風土記稿』の説明を右に示した。三浦道寸の持城とあるが、北條氏が修築して横井氏に守備させていた。現在は、三浦市役所になっている。
  過日、三浦市図書館を訪ね『三浦市埋蔵文化財調査報告書』を閲覧してきた。
  平成3年の第1集から同28年の第29集まで29冊が発刊されている。その内の12集(冊)に新井城跡の調査報告がある。いずれも宅地開発による断片的な発掘調査であるが、遺構・遺物は全く検出されていない。また、第24集には「義士塚」近くの調査報告もあるが、遺構・遺物は全く検出されていないとある。
  こうしてみると、現時点で一次史料に新井城(要害)が見えず、確たる遺構も見
えないとなると、存在自体が疑問視されても仕方がない。だからと言って新井城Misakizyouzu
(要害)はなかったと断言できないところが難しい。
  時代は若干下るが、小田原合戦直前の天正十八年二月、北條氏政が三崎城主で弟の氏規に宛てた書状に、「また三浦油つほニも掛けなさるべく候」(大竹文書)とあり、三浦油壺に水軍を配置するよう指示している。
  また、豊臣方毛利氏の『関八州諸城覚書』(毛利家文書)にも、北條氏規の守備する城に「相州油壺」がある。さらに、同様毛利氏の『北條家人数覚書』(毛利 Zyutokuannmiuraboti
家文書)には氏規の守備する城に「相州三浦城」(三崎城)と「伊豆にら山」を挙げている。いずれも三浦氏滅亡後で北條氏の活用が窺えるが、当時「油壺」(新井)が城(要害)であったかどうかは難しい。地元の人たちは、三崎城の中に新井城があったのではないか、とも言われている。
  既述してきたように、大森氏小田原城(要害)も判明していない。北條氏以前の要害(城)は、現在我々が想定するような城(要害)ではないのだろう。Img_20190817_0001_20191007114901
  今後の史料発見と発掘成果に期待したい。
  なお、『風土記稿第五巻』は、鎌倉山之内村(三)圓覺寺(下)の項で「○壽徳菴 開祖月潭、中興大旦那三浦介義同入道道寸」と、壽徳菴は道寸の中興開基と道寸父子の墓を記している。
 平成30年秋、円覚寺壽徳庵の三浦家墓所を訪ねた。宝篋印塔など数基の墓碑のいずれにも記銘がなく、道寸も義意の墓も判明しない。
 右に示す明治期成立の『大日本國誌』寿徳庵「三浦義同墓」の記述が興味深い。やはり、文字の記銘はないとあるが「此処に葬る」とある。道寸の埋葬墓であろうか。

 おわりに
 「戦記物」10項の虚構を検討してきた。
  特に③宗瑞の興国寺城主と⑩新井城の在否は、最近言われていることである。読者のご見解は如何であろうか。また、⑤宗瑞の薬投与と⑥関戸吉信一族皆殺しは、一対をなすもので、戦記物特有の記述と言ってよいであろう。
 そして、⑩三浦新井城の在否は難しい。500余年も語り継がれ記され続けてきたことは兎も角、一次史料が「ない」と断定できないことである。
  「ない」ということは証明できないのである。                     郷土士                           
                   
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  なお、ご許可いただければ、その時点で公開とさせていただきます。

参考文献
 群書類従巻第384(合戦部16)収載『相州兵乱記』    塙保己一                                
 北条史料集(北條記・北條五代記収載)       校注者 萩原龍夫  ㈱人物往来社        S41.3
 小田原市史史料編原始・古代・中世Ⅰ                    小田原市               H7.3
 会津坂下町史3歴史編収載「異本塔寺長帳」    会津坂下町史編纂委員会 
                                          福島県河沼郡会津坂下町   S54.3
 新編相模国風土記稿第四巻           編集・校訂 蘆田伊人        雄山閣        S45.10
 新編相模国風土記稿第五巻           編集・校訂 蘆田伊人        雄山閣        S45.11
 大日本國誌「横浜・鎌倉」第2巻        原本東京大学史料編纂所所蔵版  ㈱ゆまに書房      S63.7
 岩原郷古城略記写               長泉院蔵          南足柄市郷土資料館蔵
 中世武士選書・三浦道寸             真鍋淳哉         戎光祥出版㈱            H29.1
   三浦市埋蔵文化財調査報告書                                                三浦市

(その42)「戦記物」の虚構と史実
  初  稿 2019. 8.18
  二  稿 2019. 8.25 三浦市埋蔵文化財調査報告を追記

郷土士の歴史探究記事
その1 江戸の遊廓「吉原」7を開いた庄司甚右衛門の謎  その2 良正院督姫の誤伝を糺す
その3 浄光院お静の生涯と保科正之             その4 日本最古の水道「小田原早川上水」
その5 北條氏康室・瑞渓院と今川氏真室・早川殿     その6 『明良帯録』を書いた山形彦左衛門
その7 北條氏政室・黄梅院と武田勝頼継室・桂林院    その8 贈答品・進上品等にみる北條家の文化財
その9 北條家と世田谷吉良家(付、崎姫と香沼姫)     その10 北條五代を支えた女性たち(改訂)
その11 北条五代を支えた男性たち               その12 西国で存続した北條氏と伊勢氏
その13 早雲庵宗瑞の小田原入城、その秋は明応9年    その14 三浦義意を祀った北條氏綱と居神明神社
その15 幻の大森氏小田原城と大森時代の小田原宿    その16 北條氏綱と居神神社の「勝って兜」碑
その17 北條氏綱の小田原城と小田原の町づくり      その18 北條氏綱の三嶋大社と鶴岡八幡宮再造営
その19 小田原北條家と浅草寺の再興             その20 北條二代氏綱の江戸制覇と弁財天の勧請
その21 宗瑞継室狩野氏女と氏綱正室横江氏女の出自  その22 伊勢弥次郎(早雲庵宗瑞・弟)の生涯
その23 虎朱印「禄壽応穏」と北條氏の印判          その24 福良と小田原の居神明神社名の由来
その25 下堀方形居館跡の謎                  その26 北條幻庵宗哲の生涯
その27 北條氏の花押と家紋                   その28 歴博の中世文書展と小田原開府五百年?
その29 新編・早雲庵宗瑞の生涯               その30 北條氏綱、「贈従三位」を叙位される
その31 「初見虎の印判状」発給者と氏綱の家督継承    その32 大久保忠眞の「贈従三位」叙位
その33 九嶋から北條姓を許された玉縄北條綱成家    その34 玉縄甘糟氏は、北條氏家臣か ?
その35 居神明神社と三浦氏関係の新史料         その36 検証、居神明神社名の由来
その37 北條家の縁、徳川家康の側室たち          その38 高潔の武将・北條氏照と室・大石比佐
その39 もう一人の伊勢宗瑞・弟?             その40 北條五代「去る者は追わず、来る者は拒まず」
その41 能楽・宝生流家元の小田原来住            その42 「戦記物」の虚構と史実 
その43 北條氏綱息女、崎姫と香沼姫             その44 新説・まぼろしの崎姫





2019年7月 3日 (水)

郷土士の歴史探究記事 その41

                    能楽・宝生流家元の小田原来住
              
  小田原城では数年前まで、初秋に本丸跡広場で薪能が行われていました。
  その能楽家元の一つ、宝生流の家元が北條時代の小田原に来住していたことを調べて欲しいと知人から依頼されていました。本ブログ1項で記す宝生流家元の来住は、小田原でも一部知られてはいましたが家伝に近く、それ程話題になることもありませんでした。
  そこで他の史料を探していたところ、数点の史料に出会えたことをお知らせします。
  なお能楽は、猿楽(申楽)が江戸時代に発展したもので、能楽としての確立は江戸末期とあります。織田信長や豊臣秀吉が愛好したのも猿楽で、よく間違えられるのが信長が好んだという「敦盛」で、幸若舞と言われています。こうしたことから本ブログでも史料により猿楽または能楽と記していることをご承知ください。

   1、宝生流の歴史 Takiginou_20190728211501
   2、『大乗院寺社雑事記』が記す小田原来住
   3、北條氏綱と能(猿楽)
   4、国指定重要文化財『阿弥陀来迎図』の裏書
   5、宝生重吉と裏書の謎
     おわりに                         (右写真、小田原城薪能)

  1、宝生流の歴史
  ネット検索であるが能楽の「宝生流の歴史」が、宝生流家元四・五代が、北條時代の小田原に来住したことを記している。

   四代宝生一閑は三代養阿弥の子で、鼻が高く、面の裏を削って合わせたという逸話から「鼻高宝生」
   と呼ばれた。代々室町将軍家に仕える宝生家でしたが、室町幕府衰退に伴い、一閑は小田原の北條
   早雲(伊勢宗瑞)の元に身を寄せた。
その一閑は技芸で名手と評された上、系図傍書(後筆)には
   武芸にも秀でていたと記され、後に服部四郎左衛門勝政と名乗ったという。
   生年未詳、永禄十一年(1568)没。                              (「宝生流の歴史」要約)

  「北條早雲の元に身を寄せた」とあるが、後述の諸資・史料から二代氏綱の時代で、『能楽源流考』では、「観世・金春・金剛に比して、寶生大夫(一閑)の参勤が著しく少く、代役の多い事は注意すべき事実である」として、一閑の活動年代を大永以後天文八年(1539)以前と記している。
  とすると小田原在住は天文八年以降であろうか。没年も系図には「永禄元戊午年(1558)八月没」とある。
  また、服部勝政について、三代氏康時代の永禄二年(1559)成立とされ、北條氏家臣名簿的な『小田原衆所領役帳』に「服部」姓は見えないが、成立年未詳の『小田原旧記』には「服部小三郎」(御馬廻衆)がいる。

   宝生流五代重勝(宝山)は、観世流第六代観世大夫道見元広の子で、宝生家に養子に入り五代を嗣
   ぐ。「小宝生(古宝生)」とも呼ばれ乱拍子を得意とし、視る者を感嘆させたというエピソードは多い。
   晩年は一閑同様小田原北條氏に仕えたが、系図傍書には北條家小田原開城後、大和国へ帰ったと記
   されている。重勝の子元盛(元尚)は、重勝の兄・七代観世大夫宗節の養嗣子となり観世大夫を継いで
   いる。宝生家と観世家は、室町時代から縁戚関係にあり芸の系統、芸風も近く「上掛り」と呼ばれている。
   宝生流六代は、金剛大夫氏正の子で勝吉(九郎、忠勝、道喜)が養子に入り継いでいる。 
   重勝の生年は未詳、天文十三年(1544)又は元亀三年(1572)没とある。     (「宝生流の歴史」要約)

  重勝の没年は諸説あるが、元亀三年は小田原合戦以前であり「小田原開城後、大和国に帰った」とする話は合わない。『能楽全書』第二巻が、「観氏家譜」の記述を収載している。

   ある年、北條氏直能の師範にとて、寶生大夫を招かるゝに就いて、重勝持病に因て隠居すと申し立て、
   小田原に下りて氏直に能を指南せり。元亀三年(1572)の頃、重勝彼の地にて卒せりとなん。重勝常に
   云ひけるは、吾が花傳書は今春七郎喜勝なりと云へりとなん。かれ重勝は七郎喜勝の能を似せたりと
   ぞ。喜勝は後に宗瑞と云へり。                                (『能楽全書』第二巻)

  重勝は北條五代氏直に招かれ、隠居してから氏直に能の指南をして、元亀三年の頃小田原で亡くなったとある。また、重勝は金春喜勝を尊敬しており、喜勝は後年「宗瑞」を称したという。 
  重勝の没年について『能楽源流考』は、「四座役者目録寶生大夫代々の次第」の記事を収載している。

   寶生ノ家ノ掛リハ小寶生マデ有。其仔細ハ小寶生卒シテ娘バカリ有。観世宗金、此女ノ兄タルニヨリ親分
   ニナリ、道喜ト夫婦ニナシ、寶生ノ家ヲ令相續。道叱ト道喜ト同年ナル故、具ニ被語ル。小寶生ハ小田原
   北條殿懇ニテ下リ、小田原ニテ小寶生ハ卒シタルト也。宗金ハ宗節ヨリ七年已前ニ卒。(中略)
   小寶生ハ宗金ヨリ以前ニ果ル。                                        (能楽源流考)

  寶生重勝の死後、重勝の実子で観世宗節の養子となっていた観世宗金が、重勝の跡をImg_20190901_0003
継ぐべき男子がいないため、金剛大夫久次の弟・四郎左衛門勝政を実家の妹の婿に迎え、宝生道喜を称させたという。
  そして、観世宗金は天正五年(1577)に42歳で他界しているから、重勝の死去は同年以
前として『多門院日記』の右に示す記述を示している。
  金剛大夫の弟が宝生家の養子に入ったことから、新宝生大夫披露の法楽能があったという。この記述と前記「四座役者目録」から、宝生重勝の没年は天正四年以前と言えるという。                                          ,(右、『多門院日記』解読文)
  当初、宝生流家元の小田原在住史料を探していたところ、マリコ・ポーロのブログ「小田原北条見聞録」の、「小田原北条家と猿楽の宝生大夫」に、教えられた。

  2、『大乗院寺社雑事記』が記す小田原来住
  大和(奈良)興福寺大乗院の室町時代三代門跡(尋尊・政覚・経尋)の日記である『大乗院寺社雑事記』(国・重要文化財)は、一つ書きであるが、尋尊の次の記述が貴重である。

   文明十五年(1483)六月十一日 (前略)
   一宝生大夫之若王男、去月廿六日死去、於美乃國也、父大夫ハ在中國大内之館
    
云々                                   (大乗院寺社雑事記)

  宝生大夫は中国の大内館に行き、その子「若王男」は去月の26日に、美濃国で他界したという。この「大内之館云々」について「宝生流の歴史」は、「二代宗阿弥は、文明十五年には周防の大内氏の館に滞在、演能や指導を行った記録もあり、地方にも勢力を伸ばしていたことが窺える」とある。また三代養阿弥は、「系図傍書には晩年、関東の上杉氏に仕えたと記され、没年は大永四年(1524)」とある。
  二代宗阿弥が、大内氏館に滞在したことは間違いないであろう。
  ただ、「三代養阿弥」と「若王男」は別人であろう。
  そして、宝生家六代勝吉と七代について、「宝生流の歴史」は次のように記している。

   六代勝吉(九郎、忠勝、道奇[道喜])は、養子(七代金剛大夫氏正の子)である。朝鮮の役では秀吉に
   肥前名護屋城に召し出され、後に九百六十石を賜っている。武勇の誉れ高く大坂の陣では小笠原秀政
   に従って活躍し、家康に恩賞を受けている。生年未詳。寛永七年(1630)没。
   七代重房(九郎、日休)は、勝吉の子。元和二年(1616)、父勝吉の隠居を受けて大夫を継ぎ、寛永八年
   (1631)に浅草で4日間の勧進能を興行している。                     (「宝生流の歴史」要約)

  3、北條氏綱と能(猿楽)Img_20190901_0001
  北條氏綱は、「能」(猿楽)への関心は高かったようである。嫡子氏康への遺訓とした『北條氏綱置文』で、適材適所の人材登用を能に例えて、右に示すように記している。
  「例えば、能を興行するのに大夫に笛を吹かせ、鼓打ちに舞を舞わせては能にはならない。役者が各々の役を演じてこそ能は成立するのである。大将が家臣を遣うのも同じことである」と、説いている。                          ,(右、『北條氏綱置文』既読文)
  また戦記物であるが、『北條五代記』巻之三「神田明神ノ由來竝神事能三年ニ一度宛有事」も記している。

    (前略)大永四甲申年(1524)北條氏綱、江戸城を攻略し、武州を治め給ふと雖も、合
    戦の砌にて其年神事能なく次の年に有り、氏綱是を吉例とし、其後上方より暮松と云
    ふ舞楽者を召して、中一年宛隔てゝ神事能を勤めける。   (『北條五代記』巻之三)                          

  大永四年の北條氏綱の江戸入城を記し、神田明神社の「神事能」は氏綱が定めたという。
  さらに『新編相模国風土記稿』は、氏綱が小田原の守護神と定めた松原明神社に、氏康が参詣して「社前にて法楽能興行あり」と記している。
  それは、『北條五代記』巻之三に記す「大亀上于小田原浦事、附氏綱公釣船御見物之事」の記述である。

   天文十二年(1543)三月廿日に、大なる亀一つ小田原の濱へ這上る、浦人怪しみ捕へて松原明神の
   池の辺に置く、人数八人して持來る、氏康聞召し亀陸へ上る事、類無く目出度き瑞相也、凡て鳥獣甲類
   出現するに、往古に吉例多しとて、即ち明神の前へ御出有て亀を御覧じ仰せけるは、去る天文六年の
   夏、此浦へ釣船集り鰹を釣る由、亡父春松院聞召し、海士の業見物とし御遊有り、(中略)
   今又亀の此浦へ上る事、當家平安の奇瑞を兼て神明の示し給ふ所也とて、御鏡を取寄せ、亀の甲の上
   に乗せ亀鏡と御祝ひ成され御感斜ならず、御一門悉く列坐して盃酒数刻に及んで、萬歳の祝詞を述べ、
   彼の亀を海中へ放し給ふ、此亀小田原の浦を離れず浮み見ゆる。翌日松原明神の御前にて、御法楽の
   能、七番仰付けられ、納に太平楽を舞納めける、果して又氏康公、川越の夜軍に打勝ち給ふ。  
                                                                                   (「北條五代記」巻之三)
  「亡父春松院」は氏綱で、(中略)としたが、氏綱の釣り船に鰹が飛び入ったことがあり、その後の上杉朝定戦や上杉朝成戦に勝利したと記している。このことは、『観世家譜』にも三月廿二日「氏康、松原明神社で法楽の能七番を催す」とある(小田原市史年表)。そして、『北條五代記』巻之六「小田原繁盛附四坐之猿楽由來」では、小田原に来た猿楽の大夫らが住み着いたことを記している。
 
    永禄八年(1565)五月、(中略)其頃小田原繁盛にて、名を得たる諸職人、其外藝者普く小田原に集る、
    四坐の大夫は申すに及ばず、脇役者には今春源七・寶生新左衛門、大鼓は三谷大蔵・仁助・威徳三郎
    四郎、小鼓は美濃意楽・宮増彌右衛門・今春権助、太鼓は奈良新八・五野井、笛は彦兵衛・助三郎、
    狂言は鷺太夫、此者共小田原に留る、
    扨又佐藤は大鼓、山室は小鼓、霞齋は太鼓、此三人は三浦に居て其藝を教ふ、島屋父子は武州八王子
    に居て近國を廻り勧進能をす、渋谷は武州品川に居て謡を教ふ、暮松は江戸を栖とし、神田明神の祭、
    三年に一度の神事能を勤めける、此者共は都人にて隠れ無き天下無双の名人、鄙の住居さこそと思ひ
    知られたり、(後略)                                                      (『北條五代記』巻之六)

  三代氏康の時代で、小田原は繁昌し多くの名を得た職人や芸達者が集住していImg_20190717_0001
る。猿楽四座の大夫や脇役者は、北條氏の庇護を求めてきたのであろうか。
  その内の一人に、「宝生新左衛門」の名がある。
  さらに、北條家支領に在住し、勧進能や神事能を勤めた役者たちも記している。
  なお、『北條五代記』巻之六は(後略)としたが、この後、早雲寺住持の大隆禅師が小田原城に氏康を訪れ、江雪入道(板部岡融成江雪斎)を交えての、「猿楽・能楽の由来談義」を記している。
  そして、こうした「戦記物」が記す猿楽役者の小田原来住を裏付けるのが、右に示
す前項でも記した『多門院日記』の天正十八年(1590)小田原合戦後、京都で氏政と氏照が晒し首にされたという七月二十六日の条である。   (右解読文、多門院日記)
  氏直は別儀なかったが、氏政と氏照は自刃して京で晒された。人々は偽物と噂し
たが、猿楽の役者衆が「必定々々」(確かなこと、確かなこと)と、言ったという。
  彼らは、氏政・氏照の前で猿楽を披露したことがあったのであろう。
  こうした記述を読む限り、北條家に能(猿楽)はかなり浸透していたことが窺える。Img_20190705_0002
    
  4、国指定重要文化財『阿弥陀来迎図』の裏書      
  寛正四年(1463)開山と伝えられる報身寺(浄土宗、小田原市南町)が小田原にある。
  寺には鎌倉時代制作とされる掛軸『阿弥陀来迎図』(絹本着色)が寺宝として所蔵されている。阿弥陀如来が真正面を向き、来迎する様子が描かれた独尊像であることを『戦国武将と能』(曽我孝司・著)で知った。      (右写真、阿弥陀来迎図。『戦国武将と能』より )
  この画像について、次に示す『小田原市史通史編』のコラム記事が興味深い。
                            
   コラムⅨ 小田原北条氏と能の宝生流
     市内南町の浄土宗報身寺に伝わる「阿弥陀来迎図」(絹本著色。同宗潮音寺旧蔵
   [第七章第二節参照])は、その制作が鎌倉時代前期(一三世紀前半)にまで遡ると推
   察され、市内に伝来する絵画のなかでは、唯一国の重要文化財に指定されている作品である。
     この画像の裏書によると、同画像は能のシテ方の一流である宝生新次郎が、天正七年(1579)に
   潮音寺へ寄進
したことが分かる(Ⅰ銘33)。
     『北条五代記』(寛永版)の「京の芸者あづまへ下る事」は、永禄年間(1558~70)頃、関西諸国から戦
   火を避けて多くの芸能者たちが小田原に来住したことを伝えている。宝生流は、世阿弥の弟・連阿弥を
   流祖とする一流であるが、『四座役者目録』には「小宝生ニハ、小田原北条殿懇ニテ下リ」と、小宝生と
   呼ばれた宝生大夫が小田原に下ったことが記されている。この小宝生は元亀三年(1572)に死去して
   いることが知られるので、裏書に見える宝生新次郎とは別人だが、やはり、小田原での宝生流の活動を
   物語っている。
     能は多くの芸能者たちによって成り立つ集団芸能である。小田原には宝生新次郎や小宝生だけでは
   なく、『北条五代記』が伝えているように、多くの芸能者が来住したことであろう。
     戦国時代、小田原において、このような芸能者の存在が確認されることは、北条文化の奥行の広さと
   深さとを物語るものとして注目されるであろう。           (小田原市史通史編、原始・古代・中世)
 
  小田原市唯一の「国指定重要文化財」とある。Img_20190721_0006
  参照とある第七章第二節は、同図寸法は137.2×57.0㎝を記し、「本図には元禄五年(1692)の宝生重吉が記した裏書(Ⅰ銘33)があり、天正七年(1579)に重吉の曾祖父新次郎(コラムⅨ参照)が潮音寺に寄進したとあるが、小田原との地縁性については云々できない」という。                    (右図版、「裏書墨書」解読文)
  この裏書を書いた寶生九郎重吉と、「阿弥陀来迎図」を寄進した寶生新次郎とは、どのような人物であろうか。これまでの史・資料には二人の名は見えていない。
  コラムでは裏書の写真版を掲載しており、訳文に間違いはない。2項で記したように、宝生五代重勝(小宝生)の後は勝吉(九郎、忠勝、道奇[道喜])で、新次郎の記載はない。
  宝生新次郎については、ワキ方宝生に「三世・新次郎薫通」がいる。ワキ方宝生二世新之丞正俊(松平采女正家臣の子で、一世春藤権七の婿養子)の嫡子とある。(能楽大辞典)
  しかし、このワキ方宝生家は一世春藤権七による江戸初期の創設であり、その三世では時代が合わない。
  では、「宝生流の歴史」から、宝生家八代と九代を見てみよう。

   八代重友(九郎、将監、日証)は七代重房の子。寛永十三年(1636)、重房の隠居を受けて大夫を
   継ぎ、徳川将軍四代家綱・五代綱吉に仕えた。貞享二年(1685)六十七歳没。
   九代友香(九郎、将監、日楽)は八代重友の子。将軍家には綱吉から家宣・家継・吉宗と四代に仕える。
   特に五代綱吉からは手厚い支援を受け、流勢を拡大している。享保十三年(1728)七十五歳没。
                                                    (「宝生流の歴史」要約)
  「裏書墨書」にある宝生九郎重吉も、「宝生流の歴史」に見えない。
  ただ、六代以降は「九郎」が共通している。元禄五年(1692)に墨書した
九郎重吉は、没年からは九代友香が相当する。Img_20190705_0001
  『阿弥陀来迎図』の寄進は、小田原に来た宝生一閑と宝生重勝が、潮音寺の世話になっていたからではないだろうか。『風土記稿』は潮音寺の説明で、「當寺は城域方八町ありし云」と、記している。
  「城域方」の「城域」は「寺域」、の誤植で、「方」は方形(正方形)のこと、つまり「寺域は方形八町あり」と解釈でき、格別に「寺域が広い」と言
っているのであろう。宝生一閑と宝生重勝が潮音寺に間借り(?)か、世話になっていたことから宝生新次郎が、その御礼に『阿弥陀来迎図』を
寄進したと推定してみた。
  潮音寺と報身寺は浄土宗で、芝増上寺末であるから兄弟寺と思われ、場所も道を隔てた斜向かいにあった。   
              (右図版、文化四年(1807)『東海道分間延絵図』)
  右絵図は江戸時代中期の小田原宿山角町で、上方が東海道、下方が相模湾。南北の通りが天神小路、その小路の海岸に近い左側(西側)に報身寺、斜向かいの右側(東側)に潮音寺とある。
  潮音寺と報身寺の合併は明治41年で、既述の『阿弥陀来迎図』等の史料は報身寺が引き継いでいたのであろう。現在『阿弥陀来迎図』(「阿弥陀如来画像」とも)は国の重要文化財に指定され、東京国立博物館に寄託されているという。

  5、宝生重吉と裏書の謎
  これまで述べてきたように、『阿弥陀来迎図』を寄進した宝生新次郎が、宝生大夫との史料は見えず、その裏書を記した宝生重吉も判明しない。
  「宝生流の歴史」は、宝生一閑・宝生重勝ともに晩年(隠居後カ)の小田原来住を記している。
  宝生新次郎が判明せず、小田原に来住した宝生家四代宝生一閑と五代宝生重勝に、新次郎と何らかの縁があり、新次郎が潮音寺に御礼のために来訪し『阿弥陀来迎図』を寄進した、と推定してみた。
  謎解きの鍵は、宝生新次郎と宝生重吉の人物像を知ることと思っていたところ、宝生新次郎に出会った。
  これまでも記してきた『能楽源流考』である。同書は宝生六代勝吉を次のように記している。

   勝吉(新次郎・四郎左衛門忠勝) 寶金剛孫太郎之弟、抽于楽舞継養父之業、又秀武事。従養父寶山
     居南都、高畠信州之太守小笠原兵部大輔秀政召之、乃就本州□俸四百石安堵。(中略)  
      後業嗣子付重房剃髪、而號道奇寛永庚午年(七年)八月卒。                (能楽源流考)

  漢文であるが文意は読み取れる。長文のため(中略)としたが、「宝生流の歴史」の六代勝吉にもあった、秀吉に呼ばれた名護屋城や家康との関ヶ原での活躍を記している。特に小笠原秀政のことが多く記されているが、六代勝吉が新次郎とある。昔の人は種々の名前を称しているから紛らわしい。
  また、筆者重吉は「曽祖父が新次郎(勝吉)」とあるから、4項で想定した九代・友香(九郎、将監、日楽)が、重吉とも称していたのであろう。
  そして重吉は、曽祖父新次郎が天正七年(1579)に寄進したことを裏書するために、百十余年後の元禄五年(1692)に小田原の潮音寺に来たのであろうか。本論からは余談になろうが、興味深い課題である。
  偶々、『能楽全書第一巻』所収の「宝生家系図」でも、六代勝吉・新次郎に出会った。

   宝生家(シテ方宝生流宗家・分家嘉内家)
   初世 蓮阿弥 応仁二(1468)没
   二世 宗阿弥 明応八(1499)没
   三世 養阿弥 大永四(1524)没
   四世 一閑 (服部四郎左衛門勝政・鼻高宝生)永禄元(1558)没
   五世 宝山 (重勝・小宝生・宗金、養子[観世元広子])元亀三(1503)没(天正十三トモ)
   六世 勝吉 (道奇[道喜]・新次郎・忠勝、養子[金剛孫太郎弟])寛永七(1630)没
   七世 重房 (休清・日休・九郎左衛門)寛文五(1665)没
   八世 重友 (古将監・日証・九郎・重政・重保)貞享二(1685)没
   九世 友春 (日楽・九郎・将監・良重・長次郎・新次郎)享保十三(1728)没   
                                                                                                                      (能楽全書第一巻)
  ほぼ、「宝生流の歴史」と変わらないが、六世勝吉に「新次郎」が確認できる。
  ただ、九世は「友春」とある。そして、その友春も「新次郎」を称している。六世勝吉と九世友春(重吉)に特別な関係があったのであろうか。宝生友春は、加賀金沢城主前田綱紀の愛護を受け、「加賀宝生流」の基礎を築いたとして知られている。それにしても九世は友香・友春で、未だ裏書筆者「重吉」には出会わない。
  九世が裏書墨書をした元禄五年(1692)は、六世新次郎勝吉他界の62年後で、九世が六世を見知っていたと考えるのも難しい。何か、宝生家に記録があったのではないだろうか。
  解き明かしたい謎は、新たな課題として探求を続けている。

  おわりに
  前ブログ(その40)で「去る者は追わず、来る者は拒まず」を記したが、大内氏にも土岐氏(?)にも頼れなかった人を、北條氏は家元大夫二代を庇護したと諸史・資料にある。
  北條五代の「人となり」と言ったら良いのであろうか…
  また、氏綱と北條家の能(猿楽)への関心の高さも余り知られていない。
  こうした北條五代を知っていただきたい。
  そして、宝生流家元の来住を裏付けるとも言える報身寺所蔵の国重要文化財『阿弥陀来迎図』の裏書には脱帽である。このことを「戦国武将と能」で記した曽我孝司氏に敬意を表したい。
                                                        郷土士

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参考文献
  宝生流の歴史                         公益社団法人「宝生会」        INT
  能楽全書第二巻(能の歴史)                 野上豊一郎・編         創元社    S28.                 
  能楽源流考                          能勢朝次            岩波書店   S13.11
  マリコ・ポーロのブログ「小田原北条見聞録」      小澤真里                  INT
  大乗院寺社雑事記(続史料大成33巻収載) 大乗院門跡・尋尊の日記  宝徳二(1450)~大永七(1527)
  戦国武将と能                         曽我孝司        雄山閣           H18.7
  北條氏綱置文(宇留島常造氏・蔵)韮山町史史料編 韮山町史編纂委員会 韮山町史刊行委員会 S62.3
  北條五代記(通俗日本全史・収載)             早稲田大学編輯部  早稲田大学出版部  T2.5
  多門院日記第4巻                      編者・辻善之助   三教書院          S13.5
  新編相模国風土記稿第二巻                編集・校訂、蘆田伊人     雄山閣    S45.9
  東海道分間延絵図                      児玉幸多           東京美術     S53.7
    小田原市史通史編「原始・古代・中世」                                             小田原市          H10.3
  能楽全書第一巻(能の理論と文学)              野上豊一郎・編         創元社    S27.

(その41)能楽・宝生流家元の小田原来住
  初  稿 2019. 7. 3
  更新1 2019. 7.10 『能楽全書』第二巻及び『能楽源流考』記事、加筆 
  更新2 2019. 7.21 5項、『小田原市史通史編』コラム加筆
  更新3 2019. 7.25 『戦国武将と能』の誤記抹消

郷土士の歴史探究記事
その1 江戸の遊廓「吉原」7を開いた庄司甚右衛門の謎  その2 良正院督姫の誤伝を糺す
その3 浄光院お静の生涯と保科正之             その4 日本最古の水道「小田原早川上水」
その5 北條氏康室・瑞渓院と今川氏真室・早川殿     その6 『明良帯録』を書いた山形彦左衛門
その7 北條氏政室・黄梅院と武田勝頼継室・桂林院    その8 贈答品・進上品等にみる北條家の文化財
その9 北條家と世田谷吉良家(付、崎姫と香沼姫)     その10 北條五代を支えた女性たち(改訂)
その11 北条五代を支えた男性たち               その12 西国で存続した北條氏と伊勢氏
その13 早雲庵宗瑞の小田原入城、その秋は明応9年    その14 三浦義意を祀った北條氏綱と居神明神社
その15 幻の大森氏小田原城と大森時代の小田原宿    その16 北條氏綱と居神神社の「勝って兜」碑
その17 北條氏綱の小田原城と小田原の町づくり      その18 北條氏綱の三嶋大社と鶴岡八幡宮再造営
その19 小田原北條家と浅草寺の再興             その20 北條二代氏綱の江戸制覇と弁財天の勧請
その21 宗瑞継室狩野氏女と氏綱正室横江氏女の出自  その22 伊勢弥次郎(早雲庵宗瑞・弟)の生涯
その23 虎朱印「禄壽応穏」と北條氏の印判          その24 福良と小田原の居神明神社名の由来
その25 下堀方形居館跡の謎                  その26 北條幻庵宗哲の生涯
その27 北條氏の花押と家紋                   その28 歴博の中世文書展と小田原開府五百年?
その29 新編・早雲庵宗瑞の生涯               その30 北條氏綱、「贈従三位」を叙位される
その31 「初見虎の印判状」発給者と氏綱の家督継承    その32 大久保忠眞の「贈従三位」叙位
その33 九嶋から北條姓を許された玉縄北條綱成家    その34 玉縄甘糟氏は、北條氏家臣か ?
その35 居神明神社と三浦氏関係の新史料         その36 検証、居神明神社名の由来
その37 北條家の縁、徳川家康の側室たち          その38 高潔の武将・北條氏照と室・大石比佐
その39 もう一人の伊勢宗瑞・弟?             その40 北條五代「去る者は追わず、来る者は拒まず」
その41 能楽・宝生流家元の小田原来住            その42 「戦記物」の虚構と史実 
その43 北條氏綱息女、崎姫と香沼姫             その44 新説・まぼろしの崎姫




2019年7月 2日 (火)

郷土士の歴史探究記事 その40

                  北條五代「去る者は追わず、来る者は拒まず」

  北條氏綱公が、居神明神社に敵将・三浦義意公を祀ったことの理由を知りたく、探求を続けている。
  そこで北條五代が外交上、敵方武将に対してどのような姿勢であったかを調べてみた。
  その調査過程で、北條氏は「去る者は追わず、来る者は拒まず」であった史料が思った以上に多く、そのことについてまとめてみた。
Hara_toratane 
   1、北條五代と敵将の首
   2、北條五代「去る者は追わず」
   3、小田原の町づくりに来住した人              (右画像、原美濃守虎胤)
   4、北條五代「来る者は拒まず」       (写真・図版等はクリックで拡大します)
   5、伊勢宗瑞の伊勢出自説と江戸の豪商「大黒屋」
     おわりに

  1、北條五代と敵将の首
  戦国時代に限らず合戦の勝利は、敵将の首を獲ることと言っても過言ではないだろう。
  玉縄北條二代氏繁が「当家之秘傳也」として書き残した戦国時代の武家故実書にも相当する『出陣次第』(国立歴史博物館・蔵)については、本ブログ(その27)で触れたが、一つ書きの全88項(条に相当)中、25項(28%)で獲った首の運び方や見せ方、首実検の仕来りに切腹させる時の作法等を記している。
  ところが、伊勢宗瑞・氏綱父子が永正十三年(1516)に三浦三崎城で三浦義同・義意父子を自刃させているが、戦死は別にして北條五代で敵将を死に至らしめたのは、この三浦父子の他には確定史料が見えない。
  佐脇栄智は理由は記していないが、「早雲は三浦氏が服従さえすれば、或いは滅ぼさなかったのではないかとも考えられる。小田原城主であった大森藤頼も追い払ってはいるものの、討ち滅ぼしてはいないのである」(北条早雲の思想と宗教)と言っている。こうしたことから宗瑞と氏綱に、「三浦父子自刃」の後悔があったのではないか? あるいは宗瑞が大徳寺で学んだであろう「人命尊重」の哲学があっ
たのではないだろうか? と考えてみた。Chachamaru1
  以下に示す北條五代の合戦で、敵将を死に至らしめた史料は見えない。
              (右、願成就院(真言宗、伊豆の国市寺家)の足利茶々丸供養墓)
  ①足利茶々丸(堀越公方) 
  明応二年(1493)伊勢宗瑞に攻められた足利茶々丸は、韮山城での死去を戦記物が記しているが、史実は『王代記』明応七年八月の条に「伊豆ノ御所腹切玉ヘり、伊勢Simoda_chachamaru
早雲御敵ニテ」とあり、甲斐での死去が判明している(小田原市史史料編)。自刃とあるが病死カ、その死去経緯の記述はない。『王代記』とは、窪八幡神社(山梨市北)の別当上之坊普兼寺(廃寺)に伝来した同寺住僧が書き継いできた年代記とある。
                       (右、深根城跡(下田市堀之内)の茶々丸供養墓)
  ②足利義明(小弓公方)Koyumikubou
  天文七年(1538)古河公方足利晴氏を支援した北條氏綱と、小弓公方を名乗る足利義明援軍の里見氏との第一次国府台合戦(市川市)で、足利義明と弟・基頼に息子・義純は、兵士と一緒の戦死である。
            (右、満徳寺(真言宗)管理の御墓堂墓地(市原市八幡)の供養墓)
③扇谷上杉朝定Kawagoeyasenn
  古河公方足利晴氏は天文九年(1540)十一月、父高基の勧めで氏綱息女(養女カ)芳春院(葛西様)を正室として継室に迎えるが、翌同十年七月に氏綱が他界する。                   ,(右、東明寺(時宗、河越市志多町)の川越夜戦碑)
  4年後の同十四年十月、晴氏は氏康に敵対して扇谷上杉朝定や山内上杉憲政と
同盟、河越城に侵攻する。翌同十五年四月、上杉朝定戦死。扇谷上杉氏Kawagoeyasennzu_20190825080501 Ougigayatuhi
は途絶える。いわゆる河越夜戦の奇襲で連合軍の大敗に終わる。 
                      (右、断絶した鎌倉の扇谷上杉邸蹟碑)
  この時、朝定を誰が討ち取ったかなど状況記録は見えず、病死の可能性も指摘されている。
  特に連合軍敗戦は、奇襲等ではなく朝定急死によるとの説もある。
 
  ④足利晴氏(古河公方)Haruuzi_haka
  前記河越合戦の翌天文十六年十二月、北條氏康は太田康資を岩付城に囲み翌年一月
に和睦している。同二十一年一月、氏康は上杉憲政を上野国平井城(群馬県藤岡市)に攻めて越後に追い、足利晴氏は公方の座を次男義氏(長男藤氏は先妻の子)に譲ることを余儀なくされる。所謂、傀儡政権と称される由縁である。
                   (右、宗英寺(曹洞宗、野田市関宿台町)の足利晴氏供養墓)
  この頃から、晴氏室・芳春院は嫡男義氏と共に古河城から葛西城に入り、葛西様と呼ばれている。同二十三年十一月、氏康は再度反旗を翻した晴氏を攻略する。『北條記』Asikaga_yosiuzibosyo
に「則公方を補奉り相州波多野(秦野市)へ押籠申ける」、『異本小田原記』には「相州波多野の中、曽谷」とある。              ,(右、古河公方御所跡の足利義氏墓所)
  また、石井家本『吉良系図』で〔頼康〕の説明に、「(前略)頼康相州蒔田ニ居ス、因テ蒔田御所ト云、亦世田谷ニ居シメハ世田谷御所ト云、古河ノ晴氏ハ相州波田埜ニ住シテ波田埜ノ御所ト云、共ニ関東ノ武士崇敬ノ称ナリ(後略)」とある。P1000833
  弘治三年(1557)七月、晴氏は古河復帰を許されるが九月になると廃嫡されていた前室の子・藤氏と組み、再び義氏打倒を計画して拘束され、今度は栗橋城主野田氏に預けられる。               ,(右、足利義氏宝篋印塔と古河公方墓碑)
  そして、永禄二年(1559)の暮頃から晴氏は病床につき、翌同三年五月二十七日、
下総国栗橋島(茨城県五霞町)で死去している。Tatuwakamaru_setumei
  氏康は、再三の敵対にも人命を尊重していることが知れる。
                            (右、上杉神社(小田原市東町)説明板) 
  ⑤上杉龍若丸(山内上杉憲政嫡男)
  天文二十一年(1552)に平井城を追われた上杉憲政は越後の長尾輝虎(謙信)を頼り、山内上杉の養子として家督と関東管領職をも譲っている。Tatuwakamaruhaka
  平井落城の時、憲政嫡子龍若丸は捕らえられ(異説あり)小田原へ護送中、付添い家臣の裏切りにより小田原城下で氏康に処刑されたと戦記物に記され、龍若丸と家臣の墓もある。                       ,(右、上杉神社内龍若丸と家臣供養墓)
  また、伊豆に逃亡して自刃した(山口博)との説もあり、妙高山最勝禅院(曹洞宗、伊豆市宮上)にも立派な五輪塔(龍若丸墓)がある。     ,(右、最勝院の龍若丸供養墓)Tatuwakamaruhaka_2
  龍若丸の最期も確たる経緯が判明していない。
 
  ⑥上杉憲政(関東管領)
  上杉憲政は、本来嫡子龍若丸に譲るべき関東管領職を、上杉謙信に譲り越後に安住の地を求めたが謙信が急死する。
  天正七年(1579)「御館の乱」が起こると、憲政は謙信の養子に入った北條氏康六男Uesugi_norimasahaka
の三郎景虎に味方し、館を提供している。その後、景虎嫡男道満丸を伴って和睦交渉のため上杉景勝の許に向かうが、道満丸とともに景勝方武士に討たれている。
                   (右、照陽寺(曹洞宗米沢市城南)の上杉憲政供養墓)
  ⑦太田資正(武蔵岩付城主)
  初代岩付(さいたま市岩槻区)城主太田資家は、太田道灌の甥(異説あり)で道灌Outasukamasa_bosyo
の養子になる。天文十六年(1547)その三代資顕の死去により弟の資正が岩付城主を継ぐ。資正には同十一年生まれの嫡男氏資がおり初名を資房といった。
  (右、片野城跡と浄瑠璃光寺(真言宗、石岡市根小屋)共同墓地太田資正供養墓)
  資正は扇谷上杉氏の立場をとっていたが河越夜戦後は北條氏康に従い、氏政の妹長林院と嫡子資房との婚姻が成される。その後、資正は長尾景虎に呼応して北條Outauzisuke_haka
氏に敵対し、資房弟の梶原政景に家督を譲ろうとしたため、資房は永禄六年(1563)出家して「道也」と名乗る。   (右、芳林寺(曹洞宗、さいたま市岩槻区)太田氏資墓)
  翌同七年、資正は江戸城代の太田康資を誘い、第二次国府台合戦を起こすが氏康に敗退。資房は秘かに還俗して父と弟を岩付城から追放して家督を継ぎ、以後、北條氏に仕え氏康の一字「氏」を賜り「氏資」と改名している。資正は佐竹氏に身を寄せ越後上杉氏との同盟等も画策するが、天正十九年に病死している。Img_20180512_0017_20190825150101
                 (右、北條家と江戸太田・岩付太田三家略系図)
  ⑧太田康資(武蔵江戸城代)
  太田道灌の孫で初代江戸城主資康の次男資高に、氏綱息女淨心院が嫁いでいる。資高も初めは扇谷上杉朝興に仕えていたが、祖父道灌(暗殺者は扇谷上杉定正)の恨みか、北條氏綱に通じて大永四年(1524)に氏綱と共に上杉朝興が入っていた江戸城を奪回している。
  氏綱は同城本丸には自らの家臣富永政辰を、二之丸には遠山直景(初代)を入れ、資高は香月亭(三之丸)に配置し三人城代制をとった。
  天文十六年(1547)資高が他界して嫡子康資が跡を継ぐ。康資は同じ城代の遠山綱景の娘法性院を氏康の養女として室に迎えている。
  武勇にも優れていたと言われ、同二十三年の北條氏と甲斐武田氏戦では、原虎胤隊を撃退する活躍を見せている。氏康も家臣では第六位の約二千貫の所領を与え、かなり高い地位に置いている。
  しかし、恩賞の不満かそれとも江戸城主ではないことの不満か、永禄五年(1562)前述した同族の太田資正にP1000969通じて上杉家への寝返りを画策して失敗、翌年十
月、資正の元に逃亡している。その翌年、氏康は武藏松山城を攻略し、資正・康資の攻撃を計画する。上杉謙信は両名を助けるべく房総の里見氏に支援を要請、里見義堯は嫡男義弘を総大将に大軍を派遣、義弘は国府台城に入り永禄七年初頭、第二次国府台合戦に発展し遠山綱景父子が戦死している。          (右、誕生寺の太田新六郎康資供養墓)
  しかし、結果は里見・太田連合軍が北條氏に大敗、康資は安房に逃亡し里見氏の庇護に頼る。その後、康資は里見氏の内紛に巻き込まれ自害したとも、里見氏の本拠久留里城(君津市)に居住、後、大多喜城(夷隅郡大多喜町)に移り天正九年(1581) P1000970     P1000971
十月十二日、51歳で自害とも言われている。(黒田基樹)
  太田康資室・法性院は、この離反で父と共に兄・景久とも死別した。この時、法性院は幼児・2人(?)を連れて康資の元に逃げ、北條氏は敢えて追わなかったと伝えられている。法性院は、康資死去後も里見氏両国内に居住し、安房小湊の誕生寺(日蓮宗、鴨川市小湊)で死去。
  (右、(右)右側面「法林院武庵日高居士、天正九辛巳年十月十有二日」、
          (左)左側面「法性院宗覚日悟大姉、天正十六戊子年六月十有四日」)
  法性院の享年は47歳。天文十年生まれであろうか。なお、家康側室の英勝院お勝は、太田康資と法性院の娘説と江戸重通の子で康資の養子説が言われているが本ブログ(その37)で述べている。
  以上、不明な点も少なくないが、北條氏が敵将を殺害した確定史料は見えない。
  敵将を殺害していないことが史実とすれば、三浦義意を自領の居神明神社に祭神として祀ったことが、氏綱以後の氏康・氏政・氏直に意識されていたのではないだろうか。
  そう考えるのは、贔屓目が過ぎるのであろうか…
  あるいは、単なる「去る者は追わず」の姿勢に過ぎないのであろうか。
                            
  2、北條五代「去る者は追わず」Img_20181205_0001
  今川家の衰退は氏真家臣の裏切り、武田家の滅亡は勝頼家臣に限らず、親族までが戦わずして敵に下ったことが最大要因と言えるであろう。
  北條氏の豊臣秀吉との小田原合戦では、「去る者は追わず」の姿勢が北條氏に散見される。                     ,(右、北條家と安房里見家縁戚略系図)
  安房里見氏は代々北條氏とは敵対関係にあったことは、玉縄城攻めで鶴岡八幡宮が全焼したことに象徴される。六代義弘も父義堯同様悉く敵対していたが、北條と上杉の同盟もあり他界する前年の天正五年(1577)に和睦して後継義頼に氏政息女鶴姫(龍寿院)を迎えている。さらに義弘は家印として「鷲印」を用いている。
  虎の印判に似て、動物を用いていることは本ブログ(その28)で述べている。
  残念ながら鶴姫は嫁いで2年後の同七年三月二十一日に他界している。
  義頼も同十五年に他界し嫡子義康が家督を継ぐが翌同十六年には秀吉に通じ、小田原合戦には直ちには態度を表明せず、結局、豊臣には遅れて参陣するが秀吉の怒りを買っている。
  この時、北條氏は「去る者は追わず」のように思える。          
  また、徳川家康の側室お万の方養珠院は、実父が安房里見氏家臣の上総勝浦城主正木頼忠(別名、邦時)で、母智光院は『寛政家譜』に北條氏隆(氏堯の誤り)の娘とある。                               Img_20190517_0002
  ただ、『南紀徳川氏』には、北條氏家臣田中越中守素行の娘で氏堯の養女とある。田中素行の子・江雪斎融成が重臣板部岡の養子になり家老に列していることから、江雪斎の姪説も有力視されている。(右、北條家と正木家縁戚略系図)  
  正木時忠(頼忠実父)は、永禄七年(1564)の第二次国府台合戦に主君里見氏が北條氏に敗れ、次子頼忠を人質として小田原に預けた。その人質中に頼忠は氏堯息女智光院と結婚し二男一女を授かった。 
  しかし、天正三年(1575)に頼忠の実兄時通が急死し、翌年には実父も死去した。頼忠は勝浦城に帰ったが妻子は人質の意味もあったのであろう小田原城に残された。その後、頼忠は男子の帰郷を希望し、北條氏は2人の男子も帰している。まさに、北條氏は自然体「去る者は追わず」である。ちなみに、頼忠も里見義堯の娘を後添に迎え、智光院も伊豆河津城主蔭山氏広と再婚している。
  また『寛政家譜』の「皆川系図」によると、徳川家康の仲介により公家中御門Img_20180512_0015_20190825205901
宜綱の息女が氏政の養女として下野皆川城(栃木市皆川城内町)を本拠とする国衆の皆川山城守広照に嫁いでいる。中御門宜綱の伯母(父宜秀の妹)が今川氏親室寿桂尼であり、その娘で瑞渓院の姉妹が中御門宜綱の室である。  
  こうした縁からであろう皆川氏は天正十四年(1588)五月に北條氏政に従っている。同十六年二月、北條氏政父子は家康と皆川広照に秀吉と和睦することを模索している。(栃木県史、黒田基樹『北条氏年表』)
  そして広照は小田原合戦では籠城に加わるが、いち早く四月八日には家康に投降している。                 (北條家と皆川家縁戚略系図)
  この時、北條氏との悶着史料は見えない。「去る者は追わず」であったろう。
  小田原合戦での北條家離脱者は、この2名の他には思い当らない。両者ともに北條家との縁は浅く、離脱も想定内と言っても良いであろう。「去る者は追わず」も分かるのである。

  3、小田原の町づくりに来住した人々
  北條時代、小田原の町づくりに来住したと思われる人たちを『風土記稿』から抜粋すると、次の人たちが挙げられる。同書以外は史料名を記す。

  ①明応3年(1494)以前、京紺屋津田氏祖・織部忠正、大森氏頼に属し板橋居住。宗瑞も認める
  ②明応年間(1492~1500)大森氏の時、石屋善左衛門祖甲州浪士・田中善左衛門板橋来住、宗瑞、認める
  ③永正16年(1519)以前、須藤資光、宗瑞に仕える(寛政家譜)。須藤惣左衛門(都匠)須藤町居住
  ④    〃          畳刺棟梁仁左衛門、宗瑞に山角町に居住を許され都匠として仕える
  ⑤永正年間(1504~1520)江戸時代本陣久保田甚四郎祖・次郎兵衛(中島村永昌院開基)本町来住
  ⑥    〃          久保田甚四郎弟蘆川半左衛門(祖先右近紀貫之末葉)天正6年代官小路に移住
  ⑦永正18年(1521)、刀工小田原住義助・信定。大永2年(1522)同泰春銘の刀剣。天文7年(1538)8月2日、
              鎌倉鶴岡八幡宮に島田綱広作の太刀奉納等、刀工島田一門来住(小田原の刀剣)
  ⑧大永3年(1523)、氏綱の招請で音曲舞太夫大橋家の祖・桑原光政・嘉高が小田原来住
             後、大橋四郎次と桐尾上も来住。天文九年、鶴岡八幡宮再興落成で舞を奉納。
  ⑨大永8年(1528)ウ9月、新宿町の神事舞太夫天十郎太夫、宗瑞より姓名を賜い氏綱より豆州四日町に
                屋敷を与えられ職掌の掟を出せり、これより松原明神社の神事舞を勤める
  ⑩享禄中(1528~1531)、臺宿町旧家祖・伊豆の浪人渡辺利右衛門重政潜居す、林學小路と称す
  ⑪天文3年(1534)、鋳工治郎右衛門の祖、山田次郎右衛門、北條氏の命により新宿鍋町に住す
  ⑫天文5年(1536)、氏綱、透頂香外郎賣薬明神前に屋敷を与える(異本塔寺長帳)。後今宿
  ⑬天文中(1532~1554).山角町名主十兵衛の祖來住す。この地を肝煎屋鋪とも称す
  ⑭天正中(1573~1591).炮術師範與助の祖與助(初佐野八郎左衛門)鎌倉から府内渋取に蟄居す

  この他、年代は判明しないが宮前町の本陣清水金左衛門祖先は、北條氏に仕え天正18年までは豆州下田城主であった。また、安斎小路名の由来(風土記稿)となった丹波出身の田村安栖は、宗瑞が京都より招き(寛永系図伝)氏政・氏照の切腹場所の提供で知られ、『皇國名醫傳』が記している。(『日本人名大事典』)

   田村長元 室町時代の醫家。丹波氏と宗を同じくし世々丹波に居る。長元始めて京師千本に移り御醫に
     擢んでらる。世に千本典藥と稱す。子孫世々業を承け宗仙最も聲譽あり。北條早雲の召に應じて相州
     に赴く。その子長榮、安栖軒と稱し北條氏に仕ふ。徳川家康その子長傳を召して醫官となし長傳の子
     長頤、長頤の子長祇いづれも法印に敍せられ安栖を以て通稱とす、(後略)        (皇國名醫傳)

  ここに、『皇国名医傳』とあるが、同書は淺田宗伯・著、寛政12年(1800)刊行で漢文で書かれており、この『日本人名大事典』の記述は、その訳文に相当する。この田村家は代々「安栖」を名乗ることが多く、徳川幕府にも仕えている。従って、小田原の「安斎小路」は本来は「安栖小路」が転訛したものと推定できる。
  そして、『風土記稿』が記す町名や小名からも来住者が推定できる。
  小名の鎌倉屋鋪は鎌倉屋四郎衛門(高梨町)が、野澤横町は町人野澤氏(宮前町)、諸白小路は白酒醸造者が、狩野小路は狩野氏屋敷跡、山上横町は北條氏家臣山上久忠の居住地、唐人町は北條氏が唐人を居住させたと伝えられる。林學小路は町人利右衛門の祖先が来住と伝承されている。
  鎌倉屋四郎衛門については本ブログ(その35)で記した。
  以上、主な来住者を記したが注目されるのが大森時代に来住し、宗瑞が追認したと伝えられる板橋の津田藤兵衛と石屋善左衛門の先祖が、板橋に定住したことである。大森時代の小田原は町場化しておらず、寧ろ板橋の方が村として発展していたことを物語っている。
  「上杉禅秀の乱」、の記述にしても、小田原は記さず早川尻や成田、風祭の地名が見える。
  伊勢宗瑞が大森氏を追った時、重臣付きであろうが氏綱は13才で小田原を任されている。我が子を(韮山から)手放し、全く未開の地(?)で町づくりをさせたのである。前記来住者に宗瑞の招請も多く、自らは韮山に住みながら小田原在住を勧めたのは、氏綱の町作りを全面支援していたからと言えよう。。
  宗瑞の教育方針か? 評価されてしかるべきであろう。宗瑞他界の時、氏綱は32才になっていた。この時には、二の丸までの小田原城と町づくりもほぼ終っていたであろう。
  こうした武家地を町屋の背後に配置し、東海道・甲州道両側を町人地に定めたことも、二代氏綱の基本理念であったろう。城下町でありながら、江戸時代に本陣四軒・脇本陣四軒という東海道屈指の宿場町発展に繋がったのも、氏綱の商業発展を願っていたであろう「先見の明」と言えようか。

  4、北條五代「来る者は拒まず」
  「来る者は拒まず、去る者は追わず」は、孟子の「それ予の科を設くるや、往る者は追わず来る者は拒まず」からであるという。
  そこで「来る者は拒まず」について、先ず箱根宿の『本陣由緒書上』(神奈川県史収載)から見てみよう。
  箱根宿は、元和四年(1618)に関所開設と同時に開かれ、小田原宿と三島宿から各々50家を移転させてできた新宿で、当初は小田原町に5軒の本陣と三島
町の脇本陣1軒の6軒で構成されていた。Img_20190702_0001
  その内の本陣1軒は由緒不明で、判明する5軒の由緒を右表にまとめた。
  この表で際立つのが5軒中4軒が武田氏家臣
の移住である。おそらく、彼らの移住は天正十年三月の武田勝頼滅亡後であろう。
  ⑤弥平太のみ先祖が相州三浦家三浦清元とあり、三浦氏一族で享禄四年(1531)に鎌倉荏柄から小田原に移住したことは本ブログ(その35)で記しているので参照されたい。
  また、武田家臣の移住については『風土記稿』の旧家を調べると、下表の人たちが記されている。
  ①庄左衛門先祖剣持宗般は、現宗
繁寺(小田原市曽比、曹洞宗)開基者Img_20190702_0002
であるが、永禄中に甲州から逃走して
きたとするのは、どのような事情だったのであろうか。
  ②泉平も安和元年(968)に土肥宮上村に土着しながら、天文中に信玄に仕
えたとは、どういうことであろうか。
  ③新助の先祖原美濃守虎胤については、愛甲郡飯山村の本禅寺(日蓮宗、厚木市飯山)にもあるように諸書に記され整合性がとれている。特に天文二十二年(1553)武田晴信(信玄)に追われ北條氏康に身を寄せ、3年後の弘治二年(1556)甲州に帰る際の氏康との別離の様子も特筆されている。永禄七年(1564)没。
  ただ、この史料的裏付けは次に示す『甲陽軍艦巻十六』のみである。

    一、原美濃守、父能登ト関東下総より信虎公御若き時、甲州へ参り原美濃十七歳より走廻、一代に手
   きずをかうむる事五十三ヶ所也、武辺数度之走廻り仕、御父子の御せうもん三拾八取て持ツ、小田原へ
   牢人いたす六年の間に、武辺てがらのせうもん、氏康より九つ取て持。氏政、信玄公むこになり給ひて
   より、種々所望被成、甲州へ原美濃帰参仕、此科ハ、法花衆・浄土宗としゅうろんのぎに付而、原美濃
   法花衆のゆへ右之通に候。(後略)                              (甲陽軍艦巻十六)

  また、文化十一年(1814)成立の『甲斐国志巻之九十六』も同様のことを記した後、次の記述がある。

   (前略)在リ小田原三年ニシテ、得テ証文九章ヲ還ル、北條氏康嘗テ目シテ虎胤ヲ云、古ヘ渡辺ノ綱
   アリ、如キ是ノ人ナランカト、褒美セシトナリ、先キ是ヨリ除髪シテ曰清岸ト、(後略)     (甲斐国志)

  この2書から、天文二十二年(1553)十二月、甲斐で浄土宗と日蓮宗の間でHaratoratane_gazou Ujiyasu_hojo
法論(仏教論争)が起こった。      (右、北條氏康(左)・原虎胤(右)画像) 
   武田晴信(信玄)は、既に同十六年に「甲州法度之次第」を制定し、法論を禁じていた。この時、虎胤が甲府法華寺を見舞ったことから信玄が激怒して虎胤を追放したという。その虎胤を氏康は、「渡辺之綱に匹敵する武士」と賞讃して迎え、小田原在任中に九通の感状を与えている。
  永禄七年(1564)一月二十八日に病死。享年68歳とある。
  武田晴信は「原虎胤は幾多の合戦に限りなき武功を表した真の剛の者なり、世人、虎胤を畏敬して[鬼美濃]と畏れし我が忠臣なり。虎胤の他に[美濃]を称する者なし」と、その死を惜しんで嘆息したという。しかし晴信は虎胤他界後、「美濃守」を馬場信春(信房とも)に与えている。そのため、信春も鬼美濃と言われている。
  氏康は、まさに「来る者は拒まず、去る者は追わず」を実践している。
  なお、箱根宿本陣②弥五左衛門が先祖は「原美濃守」とあるが、どうであろうか。中里村名主家の原次郎右衛門家も、『風土記稿』の③新助家の分家と聞いたことがあるが、文献資料は見えない。
  ④作右衛門の先祖も、武田氏家臣山本勘助の孫とあるが、文禄二年(1593)は小田原開城後である。
  以上、小田原北條五代に「来る者は拒まず」の姿勢は窺えるが、家伝・寺伝によるものが少なからずある。

  5、伊勢宗瑞の伊勢出自説と江戸の豪商「大黒屋」
  『相州兵乱記』に、「伊勢國住人新九郎宗瑞(伊澤ト云所ノ人也)。明應ノ比(頃)相州ニ來テ旗ヲ擧」とある。宗瑞の伊勢出自説は、この戦記物の『相州兵乱記』のみである。この伊勢の伊澤を「射和(いざわ)」(松阪市射和町)とする「伊勢射和出自説」が、同町の清水勝也氏から郵送されてきた。しかし、史料が1件のみでは「説」とするには説得力に乏しい。この詳細は本ブログ(その42)を参照されたい。
  また『冨山家譜』によると、伊勢の呉服商「大黒屋」の冨山栄弘は、天正十三Img_20190826_0001
年(1585)に小田原に来て呉服商を開業し、同十八年の小田原開城後は江戸に去り、伊勢商人として江戸で豪商になったという。さらに、この栄弘は「北條氏政幕下安藤備前守与力市村トイフ者ノ娘」を嫁に迎えた、とある。
  以上のことは「家伝」であり、小田原北條家に裏付け史料は見えない。
  なお、能楽の宝生流家元が小田原に在住していたことは「宝生流の歴史」に記され、以前、行われていた小田原城薪能でも宝生流を指名することもあった。   (明治期の冨山家)
  この宝生流家元の小田原在住については、次のブログ(その41)で記すが、
能楽四座の大夫を始めとして、脇役者や大鼓・小鼓に太鼓や笛、狂言役者までが小田原に在住したという。
  これまで見てきて、『風土記稿』の次の記述も決して誇張した表現とは思えない。

    【小田原記】曰、去程に相州小田原守護の政道私なく民を撫しかば、近國他國の人民、懐恵移家して、
   津々浦々の町人職人、西國北國より群來る、昔の鎌倉もいかで是程あらんやと覚ゆる計に見えにけり、
   東は一色より板橋に至るまで、其間一里の程に棚をはり、賣買数を盡しける、山海の珍物、琴碁書画
   の細工に至るまで、不盡と云事なし、異國唐物未だ目に不見、まして聞も不及、器物を幾等と云ことなく
   積置たり、交易賣買の利潤は、四條五條の辻にも過たり、民の竈豊饒にして、東西の業繁昌せり、
                                               (新編相模国風土記稿第二巻)

   小田原の政治が正しく行われ住民を慈しんでいるため、近国他国の住民、津々浦々の町人や職人が移り住んでいる。昔の鎌倉以上にも見える。東海道は東の一色村から西の板橋村までの一里の間には、山海の珍味や琴棋書画、細工物等の売買の店が尽きることはない、京の四條・五條通りにも劣らず繁盛している、とある。

  おわりに
  「北條五代と敵将の首」は、贔屓目であろうか。いずれも確定史料が見えないことは確かである。
  北條五代を通じて「去る者は追わず」の姿勢は充分窺えよう。また、小田原の町づくりに来住した人々は呼ばれたか、自発的かは判明しないが、この人たちによって町づくりが進んだことも間違いないであろう。
  そして、「来る者は拒まず」に武田関係者が多いのには驚かされた。なかでも原美濃守虎胤と氏康の関係は出色である。
  なお、戦国時代に「人命尊重」は、常識的には過大表現と言われても弁解の余地はない。ただ、史実を探求して行くと、そうした可能性は否定できない、と確信している。
  これまでの「戦記物」に倣った歴史ではなく、確定史料を積み上げた歴史を願っている。       郷土士

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  なお、ご許可いただければ、その時点で公開とさせていただきます。

参考文献
 国立歴博HP情報リポジトリ『出陣次第』  小島道裕 マルクス・リュッターマン  INT H23.3
 北条早雲の思想と宗教             佐脇栄智
 北条氏康と東国の戦国世界          山口 博         夢工房          H21.11
 新編相模国風土記稿第二巻        編集・校訂、蘆田伊人     雄山閣    S45.9            
 日本人名大事典第四巻収載「皇國名醫傳」 淺田宗伯・著、下中邦彦・編  ㈱平凡社    S12.12
 神奈川県史資料編9収載『本陣由緒書上』 神奈川県企画調査部県史編集室 神奈川県        S49.3
 相州兵乱記 『群書類従第二十一輯合戦部』収載 塙保己一       続群書類従完成会  S6.12

(その40)北條五代「去る者は追わず、来る者は拒まず」
  初  稿 2019. 7. 2
    二  稿 2019. 8.25

郷土士の歴史探究記事
その1 江戸の遊廓「吉原」を開いた庄司甚右衛門の謎  その2 良正院督姫の誤伝を糺す
その3 浄光院お静の生涯と保科正之             その4 日本最古の水道「小田原早川上水」
その5 北條氏康室・瑞渓院と今川氏真室・早川殿     その6 『明良帯録』を書いた山形彦左衛門
その7 北條氏政室・黄梅院と武田勝頼継室・桂林院    その8 贈答品・進上品等にみる北條家の文化財
その9 北條家と世田谷吉良家(付、崎姫と香沼姫)     その10 北條五代を支えた女性たち(改訂)
その11 北条五代を支えた男性たち               その12 西国で存続した北條氏と伊勢氏
その13 早雲庵宗瑞の小田原入城、その秋は明応9年    その14 三浦義意を祀った北條氏綱と居神明神社
その15 幻の大森氏小田原城と大森時代の小田原宿    その16 北條氏綱と居神神社の「勝って兜」碑
その17 北條氏綱の小田原城と小田原の町づくり      その18 北條氏綱の三嶋大社と鶴岡八幡宮再造営
その19 小田原北條家と浅草寺の再興             その20 北條二代氏綱の江戸制覇と弁財天の勧請
その21 宗瑞継室狩野氏女と氏綱正室横江氏女の出自  その22 伊勢弥次郎(早雲庵宗瑞・弟)の生涯
その23 虎朱印「禄壽応穏」と北條氏の印判          その24 福良と小田原の居神明神社名の由来
その25 下堀方形居館跡の謎                  その26 北條幻庵宗哲の生涯
その27 北條氏の花押と家紋                   その28 歴博の中世文書展と小田原開府五百年?
その29 新編・早雲庵宗瑞の生涯               その30 北條氏綱、「贈従三位」を叙位される
その31 「初見虎の印判状」発給者と氏綱の家督継承    その32 大久保忠眞の「贈従三位」叙位
その33 九嶋から北條姓を許された玉縄北條綱成家    その34 玉縄甘糟氏は、北條氏家臣か ?
その35 居神明神社と三浦氏関係の新史料         その36 検証、居神明神社名の由来
その37 北條家の縁、徳川家康の側室たち          その38 高潔の武将・北條氏照と室・大石比佐
その39 もう一人の伊勢宗瑞・弟?             その40 北條五代「去る者は追わず、来る者は拒まず」
その41 能楽・宝生流家元の小田原来住            その42 「戦記物」の虚構と史実 
その43 北條氏綱息女、崎姫と香沼姫             その44 新説・まぼろしの崎姫






 

2019年6月 8日 (土)

郷土士の歴史探究記事 その39

                      もう一人の伊勢宗瑞・弟?

  伊勢宗瑞の弟については、本ブログ(その22)「伊勢弥次郎の生涯」で記した。
  知人から、焼津市の林叟院住持「賢仲繁哲」という人は、「伊勢宗瑞の弟と言われているが調べて欲しい」とメールで問われた。ネット検索すると「宗瑞弟」とするブログが数件見え、駿河の3ヶ寺院に関係していることが分かる。ただ、当該寺院を検索すると「宗瑞・弟」とする記述は見えない。意外である。
  寺院は、歴史上の人物が関係していれば、そのことは公表する筈…
  どういうことであろうか。
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   1、「宗瑞・弟?」が関係する3寺院
   2、『日本洞上聯燈録』が記す賢仲繁哲
   3、伊豆修禅寺は宗瑞叔父(?)が中興、曹洞宗に改宗 
     おわりに                            (右写真、林叟院)
                          
  1、「宗瑞・弟?」が関係する3寺院
  ネット情報であるが、「宗瑞・弟?」が関係する3寺院の要点をまとめた。

   ①龍門山石雲院(曹洞宗)牧之原市坂口 康正元年(1455)崇芝性岱開山 勝間田城主勝間田氏開基。
                    その後の輪住七哲の一人に賢仲繁哲
   ②高草山林叟院(曹洞宗)焼津市坂本  文明三年(1471)崇芝性岱開山  地頭の開基長谷川次郎左衛
                    門正宣。石雲院七哲の一人・賢仲繁哲大和尚を招き、二世草創開山。賢仲繁
                    哲は備中岡山生まれで、能登総持寺の住持も務めていた。永正五年(1508)ま
                    での38年間、林叟院住持を務め、島田愚鶏寺で閑居。後、靜居寺住持。
                    永正九年(1512)没、75才
   ③青原山靜居寺(曹洞宗)島田市旗指  永正七年(1510)賢仲繁哲の開山。詳細は林叟院の記述参照

  康正元年(1455)、崇芝性岱(すうししょうたい)開山の石雲院(せきうんいん)Souzui_sekiunin_01
の輪住七哲の一人・賢仲繁哲を、 文明三年(1471)、同じ崇芝性岱開山の林叟院に招き、同院二世草創開山とした。 、           (右写真、石雲院山門)
  「輪住」とは、禅宗寺院の住持職を数人の僧侶が交代で務めることで輪住制
といい、対して一人の僧侶が務めることを独住制という。
  賢仲繁哲は、備中岡山生まれで能登総持寺の住持も務めていたとあるが、ネット検索では能登総持寺に賢仲繁哲の記述は見えない。Souzui_zyoukozisannmonn
  高齢となった賢仲繁哲は、永正五年(1508)に島田の愚鶏寺で閑居、同七年、
靜居寺(じょうこじ)を開山するが同九年(1512)同寺で没、享年75才とあるから単純計算では永享十年(1438)前後の生まれになる。   (右写真、靜居寺総門)
  とすると、康正二年(1456)生まれの宗瑞の(兄弟と仮定すると)17才上の兄
ということになる。「宗瑞・弟」とするのは、宗瑞88才説が言われていた頃の永
享四年(1432)生まれから言っているのであろう。
  以上、賢仲繁哲が関係する3寺院に、「宗瑞・弟」とする記述は見えない。唯一「備中岡山生まれ」が、「宗瑞・弟」を窺わせている。全く関係はないと思うが、宗瑞・弟、伊勢弥次郎も「石雲斎」を称していた。
  さらに「賢仲繁哲」の検索を続けていると、「小田原北條見聞録・伊豆修禅寺」にアクセスされた。
  私が日頃、愛読しているマリコ・ポーロ女史のブログで、既述の「賢仲繁哲」とともに、伊勢宗瑞の叔父(?)で曹洞宗の「隆渓繁紹」が、宗瑞の招きで衰退している修禅寺(伊豆市修善寺)を中興開山したという。
  しかも同寺は臨済宗であったが、曹洞宗に改めたという。このことは3項で記すが、恥ずかしながら私は修禅寺は臨済宗とばかり思っていた。確認すると、現在は曹洞宗とある。
  そして、マリコ・ポーロ女史のブログは、「隆渓繁紹」のことは『日本洞上聯燈録』が記している、とある。

  2、『日本洞上聯燈録』が記す賢仲繁哲Img_20191014_0002
  『日本洞上聯燈録』は、寛保二年(1742)刊で嶺南秀恕・著、いわゆる曹洞宗の僧伝で以前、当市立図書館で閲覧したことがあり、再見してきた。
  同書は「賢仲繁哲」について右のように記している。
  浅学非才の私には難解な漢文である。賢明な読者は、前述の3ヶ所の寺院に記されていることと、ほぼ同様のこととご理解いただけると思う。
  新たに判明することは「備中平氏の出」である。
  このことから、林叟院では伊勢宗瑞を想定し「岡山生まれ」とされたのであろう。12才で出家。林叟院に入ったのは文明六年であろうか。
  そして、靜居寺で永正九年六月廿四日、75才の他界も林叟院が記していた。しかし、ここにも伊勢宗瑞との縁故の記述がないことに注目していただきたい。「備中平氏」出自が、その可能性を窺わせているが宗瑞との関係は記していない。
  前掲3寺院は写真で見る限り古刹・名刹と言って良いだろう。そうした寺院が「宗瑞・弟」を記していないのである。往々にして歴史上の関係を誇張して記す寺院が散見する昨今、前記3寺院には敬意を表したい。
  ところが、数件のブログは「宗瑞・弟」を断定しているのである。出典史料も示さずに、どういうことであろうか。私の知人も、こうしたブログを見ての問い合わせであった。
  では何故、前記3寺院はブログが記す「宗瑞・弟」を言わないのであろうか。
  3寺院は曹洞宗である。当然、前記『日本洞上聯燈録』(曹洞宗の僧伝)は熟知し、「宗瑞・弟」など記していないことを承知しているからであろう。
  特に林叟院は賢仲繁哲を二世草創開山大和尚として、200回忌(正徳元年)から250(宝暦14年)・350(文久3年)・400(明治44年)・450(昭和39年)・500回忌(平成23年)を修業している。
  こうしたことからも、林叟院は不確かな「宗瑞・弟」は、記したくはないのではないだろうか。
  また、「宗瑞・弟」を記す北條氏関係本にも私は出会っていない。学者先生方にも、賢仲繁哲は知られていないのであろうか。
Souzui_syuzennzi
  3、伊豆修善寺は宗瑞叔父(?)が中興、曹洞宗に改宗
  「賢仲繁哲」の調査から、伊豆修禅寺が宗瑞の叔父(?)によって中興されたというブログに出会ったことは既述した。その宗瑞叔父とされる「隆渓繁紹」に
ついても、前記『日本洞上聯燈録』が記していた。
  「隆渓繁紹」についての全文を右に示した。その要点を記す。Img_20190608_0003
  「豆州修善寺隆渓繁紹禅師世居北條紀姓。幼而沈靜寡言。従紫野一休
禅師下髪。自覚已事不明」とある。「世居北條。紀姓」は、どう読めば良いので
あろうか。「北條に住居し、姓を改めた」ということであろうか。「北條」地名は修禅寺近くに現存する。続いて紫野(大徳寺)の一休禅師の元で剃髪したが、それ以前の事は不明としている。紫野大徳寺は、宗瑞も修行していた。
  その後、「参石雲崇芝清苦参究。逾十八年」とあり、既述の「賢仲繁哲」と同
じ石雲院開山の「崇芝性岱」の元で十八年修行したと読み取れる。
  再度、石雲院について調べると、輪住の一人に「隆渓繁紹」が記され、遠州華厳院(掛川市上土方落合)住持とある。
  そして、「創華厳院豆州太守請興修善古刹。明應八年住石雲。期年歸修善。永正元年甲子八月七日唱滅。世算五十六。出無號哉。虚菴充二人」と結
んでいる。確かに華厳院を創建し、豆州太守(伊勢宗瑞)から古刹修善寺再興の要請を受け、「石雲院に住んでいたが明應八年(1499)に修善寺に帰り、永
正元年(1504)に56才で没した」とある。
  生年は単純計算で宝徳元年(1449)前後になり、「賢仲繁哲」より10才年下である。
  勿論、叔父・叔母が甥・姪より年下の例は少なくないが、宗瑞・弟や叔父、と断定することはできないであろう。おそらく弟・叔父としたのは、宗瑞の享年88才説によるものであろうが、現在は宗瑞64才が定説である。
  改めて3者と宗瑞弟・弥次郎の生没年を示すが、生年は、没年から享年令を引いた単純計算である。

        名前        生年                 没年       享年       記事        ブログ風説
   賢仲  繁哲  永享10年(1438)   永正9年(1512)   75才     出備中伊勢氏   伊勢宗瑞・弟?
    隆渓  繁紹  宝徳元年(1449)   永正元年(1504)  56才   世居北條。紀姓  伊勢宗瑞・叔父?
   伊勢  宗瑞  康正2年(1456)   永正16年(1519)  64才
   伊勢弥次郎  寛正5年(1464)   大永2年(1522)  58才

  そして、隆渓繁紹は伊勢宗瑞の要請で修禅寺に入ったとある。宗瑞は今川家に仕え、駿河・遠江との繋がりは深い。二人の僧侶とは縁戚関係を除いても充分考えられることである。修禅寺が臨済宗から曹洞宗に改めている事実から、隆渓繁紹の修禅寺に関する記述の信憑性は高いと言ってよいであろう。
  宗瑞が修禅寺再興を指示していることは、宗瑞自身が鎌倉北條氏を崇敬していたからとも考えられる。
  二代氏綱の「北條改姓」も、宗瑞自身の願いであったことも窺える。
  なお、現在は寺名は修禅寺で、修禅寺境内の地名が修善寺である(伊豆市役所)。ただ、引用した『日本洞上聯燈録』は、寺名も「修善寺」である。従って本ブログもその部分の記述は「修善寺」に倣った。あるいは、当初は「修善寺」だった可能性も考えられよう。
  『歴史史話・伊豆半島』収載の『修禅寺寺伝』には、「(前略)小田原北條氏、隆渓禅師と俗縁あるを以て、修禅寺を重修し禅師を住せしむ、此時より曹洞宗となり、遠州可睡斎に隷す」とある。
  『寺伝』も、「俗縁」は記すが縁戚は記していない。
  同書は修禅寺の「宝物主なもの」として7件を記している。その内、北條氏関係は『北條早雲寄進状』(明應八年三月二十八日付)と、『山木の方寄進状』(弘治三年九月三日付)の2件である。
  以上、隆渓繁紹も賢仲繁哲も石雲院開山の「崇芝性岱」に師事し、石雲院の輪住でもあった。
  両和尚ともに通字か、偏諱のように「繁」を用いていることでも両者の「絆」は深い。ただ、「繁」は石雲院輪住七哲に「界岩繁越」(駿河梅林院)もいる。7人の内、3人が「繁」を用いている。石雲院関係であろうか。また賢仲繁哲は、幻庵宗哲とも「哲」が共通している。「哲」は幻庵が倣ったとも考えられるが、どうであろうか。
  いずれにしても、二人の和尚は伊勢平氏一族の可能性は高い。この時代、僧侶は出家した時点で俗世とは縁を切り、名前・親族等の縁は全て絶ち切ると言われている。こうしたことから、系図にも記されていない可能性は否定できない。宗瑞縁戚かどうかは何とも言えない。関係する史料の発見に期待しよう。
  
   おわりに
  「もう一人の伊勢宗瑞・弟?」は、読者からの依頼であったが、思いもしない内容のテーマとして発展した。
  調査を通じて種々のことを教えていただいた。特に関係寺院が、このことを強調されていないことには、驚きさえ感じている。改めてブログ発表等で歴史を記す私たちは、心して記すべきことを学ぶべきであろう。
  修禅寺を臨済宗と思いこんでいたことは私の最大の反省点である。歴史探求に「先入観」は禁物、と充分承知していた筈が、この始末であった。幻庵宗哲開基の金龍院(伊豆市)も修禅寺末寺であることから、確認もせずに臨済宗と記していた。同寺についても、これまで記した論考全てを訂正している始末である。
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                                                            郷土士

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参考文献
    大日本佛教全書第71巻収載『日本洞上聯燈録』    嶺南秀恕・著  (財)鈴木学術財団   S.47.4
   郷土史話『伊豆半島』                 日本歴史地理学会・編  ㈱歴史図書社     S.53.6
   神奈川県史資料編3古代・中世          神奈川県民部県史編纂会 神奈川県           S54.3
    韮山町史第三巻(下)古代・中世編        韮山町史編纂委員会  韮山町史刊行委員会  S62.3
   新編相模国風土記稿第二巻            編集・校訂/蘆田伊人  雄山閣               S45.9

(その39)もう一人の伊勢宗瑞・弟?
  初  稿 2019. 6. 8
  二  稿 2019. 6.12 「付、能楽の宝生家と伊勢宗瑞」加筆
   三  稿 2019. 7. 3 「付、能楽の宝生家と伊勢宗瑞」(その40)に移記
  四  稿 2019. 8. 8 4項・5項、追記
  五  稿 2019. 9.23 4項・5項、本ブログ(その34)に移行

郷土士の歴史探究記事
その1 江戸の遊廓「吉原」を開いた庄司甚右衛門の謎  その2 良正院督姫の誤伝を糺す
その3 浄光院お静の生涯と保科正之             その4 日本最古の水道「小田原早川上水」
その5 北條氏康室・瑞渓院と今川氏真室・早川殿     その6 『明良帯録』を書いた山形彦左衛門
その7 北條氏政室・黄梅院と武田勝頼継室・桂林院    その8 贈答品・進上品等にみる北條家の文化財
その9 北條家と世田谷吉良家(付、崎姫と香沼姫)     その10 北條五代を支えた女性たち(改訂)
その11 北条五代を支えた男性たち               その12 西国で存続した北條氏と伊勢氏
その13 早雲庵宗瑞の小田原入城、その秋は明応9年    その14 三浦義意を祀った北條氏綱と居神明神社
その15 幻の大森氏小田原城と大森時代の小田原宿    その16 北條氏綱と居神神社の「勝って兜」碑
その17 北條氏綱の小田原城と小田原の町づくり      その18 北條氏綱の三嶋大社と鶴岡八幡宮再造営
その19 小田原北條家と浅草寺の再興             その20 北條二代氏綱の江戸制覇と弁財天の勧請
その21 宗瑞継室狩野氏女と氏綱正室横江氏女の出自  その22 伊勢弥次郎(早雲庵宗瑞・弟)の生涯
その23 虎朱印「禄壽応穏」と北條氏の印判          その24 福良と小田原の居神明神社名の由来
その25 下堀方形居館跡の謎                  その26 北條幻庵宗哲の生涯
その27 北條氏の花押と家紋                   その28 歴博の中世文書展と小田原開府五百年?
その29 新編・早雲庵宗瑞の生涯               その30 北條氏綱、「贈従三位」を叙位される
その31 「初見虎の印判状」発給者と氏綱の家督継承    その32 大久保忠眞の「贈従三位」叙位
その33 九嶋から北條姓を許された玉縄北條綱成家    その34 玉縄甘糟氏は、北條氏家臣か ?
その35 居神明神社と三浦氏関係の新史料         その36 検証、居神明神社名の由来
その37 北條家の縁、徳川家康の側室たち          その38 高潔の武将・北條氏照と室・大石比佐
その39 もう一人の伊勢宗瑞・弟?             その40 北條五代「去る者は追わず、来る者は拒まず」
その41 能楽・宝生流家元の小田原来住            その42 「戦記物」の虚構と史実 
その43 北條氏綱息女、崎姫と香沼姫             その44 新説・まぼろしの崎姫




 

2019年6月 2日 (日)

郷土士の歴史探究記事 その4

                 日本最古の水道「小田原早川上水」
                                                         
  小田原早川上水は、天文十四年(1545)の『東国紀行』に、谷宗牧が氏康館Img_20190603_0001
を訪れ庭水が箱根芦ノ湖を水源としていることを説明され「驚くばかりなり」と記している。従って、これ以前に敷設されていたことが判明し、「日本最古の水道」とされているが、同年が北條氏康の時代であることから「氏康の敷設」と記されることが多い。私は、二代氏綱の町づくりの中心に早川上水の敷設があったと考えている。                        .(右写真、早川上水水門。H13)
  この水道は当初は「小田原用水」と記されていたが、近世になると「小田原
早川上水」と呼ばれ、日本最古の水道とされている。

   1、水道・用水の始まり
   2、水道・用水の始まりベスト五
   3、寛永期までに敷設された水道・用水
   4、北條氏の治水事業と町づくり
     おわりに

  1、水道・用水の始まり
  日本の水道や用水の始まりを断定することは難しい。
  『日本水道史』を繙くと、石橋多門(東京大学)は天正十八年(1590)の小田原合戦で、北條氏直降伏7日後の七月十二日、徳川家康が小田原城で家臣に命じた、「江戸水道のことうけ玉はる」(『天正日記』)に注目して、「これ以前に水道の施設があって水道と呼び慣わしていたのではないか」と言われ、この文書が「水道」の初見(初出)文書とされている。
  こうしたことから、「小田原合戦に参陣した武将が自国に帰り、競って水道・用水を敷設した。徳川家康もその内の一人である」ことは諸書が記し、定説になっている。
  また、同じ小田原合戦の攻囲軍を描いた『小田原陣図』(島原市立図書館蔵)は、板橋村の早川から取水している「早川上水」の説明に、「水道・小田原町中に取用水」と、記している。この絵図は成立年未詳であるが、合戦後に描かれたものと考えられ「水道・用水」の言葉が使われている。
  『日本史大辞典』に、「江戸時代、各地に水道が敷設されると上水・水道の言葉が生まれた」とあるが、こうした史料から、中世には「水道」という言葉はあったと私は推定している。
  「用水」については、弥生時代前半からの環濠集落が各地で発掘されており、この「環濠」が農業用水路の起源ではないか、とも言われている(ウィキペディア)。
  従って、平安時代の京都の公家や上級武家の屋敷Img_20190608_0002
には、個人持か集団所有にしても二・三戸用の水路が設けられ、「○○水道」とは称されてはないが、「水道」
の言葉は生まれていたと考えられよう。
  そこで、都市計画や農業開発等の目的で、計画的に敷設された水道・用水を竣工順に右の表にまとめた。
  ただし、竣工年・施工者等不確定なものは除いた。
   合戦欄の◎印は、小田原合戦に参陣していた大名・武将で、○印は北條氏支城を攻めて小田原に来たかどうかは未詳。(生前)とあるのは合戦時には生まれていない。?は、小田原合戦に参陣したかどうかは判明しない。『日本水道史』や『国史大辞典』、「ウィキペディア」
等を参照して作成した。

  2、水道・用水の始まりベスト五Img_20190603_0001_1
  前掲の表で、小田原北條氏が最初に計画的水道・用水を敷設したこと、それをいち早く応用したのが徳川家康と推定できる。また、3ヶ月余も在陣した小田原合戦で、「早川上水」を知った全国の大名や武将たちが自国に帰り、「競って水道・用水を敷設した」ことも肯ける。              (右写真、『小田原早川上水を考える』表紙。H16)
  平成16年、私は『日本最古の水道「小田原早川上水」を考える』を出版した。
  当時は史料を見い出せなかった③④⑤が前掲の表に加わった。
  ここでは上位五つの水道・用水について、その要点を説明する。

  (1)小田原早川上水Img_20190603_0003
  序文で記したが「小田原早川上水」は、天文十四年(1545)以前の敷設が
判明しており、 「日本最古の水道」とされている。
  では何故、北條氏は水道敷設を思い付いたのであろうか。全くの推定であるが、伊勢宗瑞に随行して小田原に来た重臣の荒木・大道寺・山中各氏に宇治田原出身説がある。            (右写真、水門からの箱根方面遠望。H13)
  この地は、古くから京都と奈良・大津を結ぶ交通の要所で、環濠集落遺跡が数多く発掘されている。彼らは京都の公家や武家屋敷に導かれていたであろう用水路を知っており、これを参考にして氏綱の町づくり(都市計画)の目玉として、
東海道の道の真ん中に水路を設け「水道」とした、ことが考えられる。

  (2)千貫樋用水Img_20190603_0004
  次いで我が国最古の農業用水で、静岡県駿東郡清水町に関東大震災後、コンクリートに改修したが「千貫樋」が現存している。天文24年(1555)の氏康息女と今川氏真との婚約の引出物として千貫樋を北條氏が敷設した(異説もある)と伝承されている。水源も伊豆国の小浜池(三島市楽寿園内)で、当時は北條
氏領内である。                    (右写真、「千貫樋」説明板。H13)
  水源を他国に求めた例は珍しく、北條氏の高度な土木技術と共に将来に亘って水源を提供していたことが特筆される。平成13年春、現地を見学して後述の
神田上水の水道橋も、千貫樋に倣ったのではないか、と思わせられた。

  (3)沼田白澤用水
  『沼田市史』や「城堀用水」の説明板によると、この「用水」は水源を白沢町松ヶ窪(栗生峠下)の白沢川に求めた延長16㌔の用水で、戦国時代から大正14年まで沼田台地を潤し、一町4ヶ村の飲用と田用水として住民の生活を支えてきた、と記している。
  当初は「白澤用水」と言われていた。Img_20190602_0002
  その史料を示すが、左が宝永2年(1705)謄写の 『沼田記事』(上野国沼田庄三光院・蔵)で、右が寛保2年(1742)頃の『平姓沼田氏年譜略』である。
  両文書ともほぼ同様のことを記し、永禄三年(1560)の白澤用水の敷設と町づくりが同時に行われたとしていることが注目される。始めの用水役人に塩野井主水と長谷川主計とある。二人は沼田顕康の家臣である。従って、最初の工事着工の指示は沼田顕康である。全国3番目の用水敷設であるが飲用水にも使用されている。 
  沼田城(沼田市倉内)は、天文元年(1532)に沼田顕康が築城、その後の内紛により沼田氏は上杉氏か北條氏かの選択を迫られたとされ、永禄二年(1559)八月に沼田孫次郎(御府内備考)と見え、上野沼田の在城が確認でき、白澤用水竣工の同三年は小田原北條氏一族で、玉縄城主北條(元九嶋)綱成の次男孫次郎康元(後、沼田康元。氏秀・氏広とも)が治めていた。しかし、同三年九月には長尾景虎(謙信)の来攻を受けて退去している(『歴代古案』黒田)。僅か1年の在城で、その間に白澤用水が竣工しており、北條氏の水道縁を思わせられる。
 なお、その後の白澤用水が確認できるのは慶長六年(1601)の真田信幸が高平住民に与えた朱印状になる。そして寛永五年(1628)、城下の発展に伴い白澤用水のみでは不足を生じ、真田氏により川場用水が開かれ滝田堰で合流させ、城下では城堀川・城堀用水と呼ばれ飲用にも用いられている。
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  (4)野蔦鎧堰用水
  野蔦鎧堰(のづたよろいぜき)用水とは、現町田市野津田を流れる鶴見川に敷設された灌漑用水である。北條氏照は、永禄五年(1562)七月五日付文書で、地元有力者に対し年貢一年間の諸税を免除する代わりに、離村した農民を帰村させ、野蔦用水を引き新田開発するよう命じている。
  その3年後の同八年三月二十日付氏照朱印状を右に示した。野蔦郷の用水の堰が崩れて給水が止まってしまったため新堰を築く願書が届き、それを許可し、新たに鎧堰用水が敷設されたとある。「如意成就」は氏照の印判で、武藤氏は堰の管理者と見られ専正軒は氏照の奉行人である。(下山治久著『八王子城主北條氏照』より) Img_20190602_0004
  前文書ともに、町田市の有形文化財に指定されている。

  (5)日野用水                 
  永禄十年(1567)、滝山城主北條氏照の指示で美濃国から来た上佐藤家の先祖である佐藤隼人が、日野用水を開削した史料がある。日野では日野本郷名主と日野宿問屋を兼ねて勤めた佐藤家(通称上佐藤家)に伝わる元禄十六年(1703)の『挨拶目録』と、延享二年(1745)の『日録』が、日野用水開削の事情を伝えている。
  両書の関係箇所のみを抜粋して右に示した。(『新撰組のふるさと日野』より)
  永禄十年の「日野用水」敷設と、元亀元年(1570)に、氏照が甲州道中の道筋を定め、日野宿の町割りを行っていることも特筆される。
  特に「日野用水」は飲料水にも用いられているが、こうしたことは各地に見られる。その後、450年余の今日も日野用水は同じ場所に流れ続けているという。

  以上、5件の水道・用水の内、4件に北條氏が直接関与していることに驚かされる。この内、早川上水が氏綱と推定され、千貫樋用水が氏康で、野蔦鎧堰用水と日野用水が氏照ということになる。ということは、戦国時代の水道・用水は関東と駿河伊豆地方に限られていたと言えよう。
  では、これらの水道から発展していったであろう全国の水道敷設順20位までの概略を紹介する。

  3、寛永期までに敷設された水道・用水
  既に5位までは記したので、6位からである。

  (6)小石川上水
  1項冒頭に記した『天正日記』の記述である。
  天正十八年七月五日、北條氏直は豊臣秀吉の軍門に下る。その5日後に家康は、今井陣場(小田原市寿町)を出て江戸口(山王口)から小田原府内に入り小田原城の検分を行っている。
  同日記の水道に関するであろう記述3点を抜粋して示す。

   七月 十日 はれる。(中略)殿さま(家康)今日、御城(小田原城)へ御入也
    同 十二日 くもる。藤五郎まゐらる。江戸水道のことうけ玉はる
   十月 四日 くもる。小石川水はきよろしくなり申。藤五郎の引水もよほどかかる   (天正日記)

  七月十日に、今井陣場を出て江戸口から小田原府内に入った家康は、道の真ん中に敷設されている水道を目にしたであろう。この水道により、それまで何処の籠城戦でも見られた籠城者の飢餓状態が、小田原に限って皆無であることを家康は目にしたのである。その2日後に家臣の藤五郎
を呼び、これから入る江戸の水道敷設を命じている。P1000367
  そして、3ヶ月後の十月四日には、僅かな距離ではあるが小石川上水敷設を記している。         (右写真、瑞輪寺の大久保忠行家墓所。H25.5.29)
  この家臣「藤五郎」を大久保藤五郎忠行(小田原城主大久保忠世の叔父)と、「大久保忠行家伝承」にあるとされている。この大久保藤五郎の墓が、瑞輪寺
(日蓮宗、台東区谷中)に現存するが、彼は三河一向一揆の際、鉄砲の弾にあ
たり足が不自由になり菓子作りをして菓子司になったとも記されている。
  とすると、小田原合戦への参陣も水道敷設の命令も何とも肯き難いのであるが…

  (7)甲府御用水(全長1.3キロ)
  浅野長政は、小田原合戦後に甲斐領主になり甲府城を築城している。そして、文禄三年(1594)、城下町の生活用水確保のため、神馬堰からの水を、湯川・相川を経て甲府城内と城下町に導く用水路を整備している。「御用水」とも称され、飲用にも供したとする記述も見える。 

  (8)福井芝原用水
  初代福井城主結城秀康が、北ノ庄城(福井城)大改修の際、家老本多富正に命じて城下の飲料水確保を目的に、九頭竜川の芝原郷(松岡町)から取水した、とある。
  上水奉行は、ゴミの投棄や洗濯など厳しく取り締まり、違反者に科料が課された史料も残されている。
  平成20年「水と緑のネットワーク整備事業」で、親水緑道として551㍍が整備されている。

  (9)酒匂堰用水(全長10キロ)
  相模国小田原領千代村の蓮華寺(小田原市千代)を宿所とし、大久保氏家老天野金太夫と大久保権右衛門の指揮で、足柄上郡金手村(大井町金手)から酒匂川の水を堰分けて、足柄上・下郡13ヶ村を潤した用水路で、享保絵図には「二万石用水」とも記されている。天正十八年(1590)、北條氏開城後の初代小田原城主大久保忠世(4年後に死去)の着工と見られ、10余年を要して慶長十四年(1609)に竣工し、中里村・下新田村等の新田開発に大きな役割を果たしている。北條氏の「早川上水」を参考にしたことであろう。

  (10)駿府用水と「駿府御用水」
  慶長十二年(1607)、徳川家康は将軍職を二代秀忠に譲ると、駿府城に移り駿府の城下町整備に着手している。安倍川から引水し濠を満たし、城下に分水して生活用水に充てている。
  また、『駿府御城御用水鯨池来歴』に、「今川家数世用水ニ引かれ、猶又東照宮御遊ならせられ名水なる事をしる所也…」とあり、家康が城下町整備をした際には既に駿府城の濠には、今川氏が鯨池から引水されており「駿府御用水」と称した。従って、家康はこれとは別に安倍川から引水し、城下の生活用水にあてたのは「駿府用水」と称し、区別しているという。残念ながら、「駿府御用水」は、今川氏が何時・誰が敷設したのかの史料は見えない。ただ、次項で述べる小泉次太夫か一族の者が関わっていることが考えられる。

  (11)二ヶ領用水(全長5.9キロ)
  家康は、江戸近郊の治水と新田開発にも取り組み、慶長二年(1597)に用水奉行小泉次太夫に命じて14年を費やして二ヶ領用水を敷設している。後に小泉は代官になるが、出身は駿河国冨士郡小泉郷(富士宮市小泉)の今川義元家臣植松泰清の長男で、今川氏真に仕えていたという。また植松家は「鷹岡伝法用水」を開削し、樋代官も務めていたと伝承されている。小泉は今川家没落後、多摩川からの用水路建設を家康に建言して認められたも言われている。既述の千貫樋用水を当然知っていての建言であろう。

  (12)米沢御入水堰(全長10キロ)
  直江兼続が指揮して城下町建設の一環として整備した用水で、米沢城内と城下町の生活用水であるが、飲用にも供したとの記述もある。城内に引用したことから「御入水(おいりみず)」と称したという。
  江戸初期の取水(水門)設備を、堰や樋と称する例は少なくない。「小田原早川上水」は、文化四年(1807)には「門樋」(東海道分間絵図)、天保七年(1836)には「水門」(新編相模国風土記稿)とある。

  (13)赤穂水道
  初代赤穂城主池田政綱が入国すると、父池田輝政は家臣の垂水半左衛門勝重を代官として、城下町建設に合わせて水道を敷設させている。慶長十九年(1614)に千種川の上流7㌔から水を引き、2年後の元和二年に竣工している。用水を町の入り口で礫(小石)と砂・炭によって浄水した後、城内と城下町の飲用水として陶管や木管によって各戸に給水され、城内では泉水などにも使われている。
  池田輝政は、家康息女で他界した北條氏直の後室督姫と再婚し、政綱は督姫との子である。督姫は「小田原早川上水」の必要性は熟知していたであろうし、垂水勝重も小田原合戦で同上水を見知っていたであろう。

  (14)鳥取水道
  元和3年(1617)、初代鳥取城主池田光政(輝政・孫)は、城下町整備とともに老臣日置豊前の指揮で、水道谷から引水して「御会所の井」に溜め、諸方に分水する水道を敷設しと言われている。
  また、寛永九年(1632)、将軍家光の命により光政は池田光仲(督姫・孫)と領地替で姫路に移封、水道は正保二年(1645)に竣工し、光仲敷設説も言われている。
  仕組は赤穂水道同様「小田原早川上水」に似ている。

  (15)仙台四谷堰用水(全長44キロ)
  慶長六年(1601)伊達政宗は関ヶ原役後、元毛利輝元家臣で浪人していた川村重吉の土木技術の才を見出し、用水の築造を命じている。川村は廣瀬川に堰を築き19年の歳月を要して完成している。上下水道・農業用水・防火用水に利用されたと言われている。
  現在、石巻市日和山公園に川村重吉の銅像が建てられている。

  (16)中津水道
  細川忠興は関ヶ原役後、豊後国を与えられ初代中津城主に着任し、元和七年(1621)城内の飲料水として水道を敷設したことから「御水道」と称されている。忠興は小田原合戦では「早川上水水門」の真上、冨士山(ふじやま)に陣を布いていた。陣を下って早川上水水門付近で飲料水を求めていたことが容易に考えられる。この水門を合戦中に壊さなかったのは、秀吉の余裕だったのであろうか…
  寛永九年(1632)、新たに城主に就任した小笠原長次が、承応元年(1652)に町中へも給水している。

  (17)彦根の水道
  『日本水道史』は記していないが、彦根では城内および城下町の水道が水道絵図等から判明している。城内の水道は地下水を利用したと推定され、二代城主井伊直孝の時代、元和⑧年(1622)の竣工とされている。竹樋・木樋・石樋や四角形断面の陶管も発見されている。城下町の水道は、井戸を水源とし、井戸組の管理が行われている。(『彦根藩における水道について』神吉和夫・三和啓司論文より)

  (18)福山水道(全長14キロ)
  備後国領主となった水野勝成が、地名を福山と名付けて城と城下町建設の際、飲料水確保のため水道を敷設している。芦田川から蓮池に水を引き、そこで不純物を沈殿させ、町中は道の中央を疎通、木簡や土管で各戸に分水している。蓮池や道の中央に疎通させたことなど「小田原早川上水」に最も近い。

  (19)佐賀水道
  成富茂安の着工で築城と同時期に始まり、城と城下町への給水に万全を期すため特殊な工夫を凝らした取水堰「石井樋(いしいび)」を設けている。
  その仕組みは、「象の鼻」「天狗の鼻」と称される石垣積みの迂回路に導水して不純物を沈殿させ、良質な水を得ると同時に、川の氾濫を防ぐ治水工事でもある。成富は用水のスペシャリストと表され、家老に昇進している。
  近年、「石井樋」が復元され「最古の取水設備」と言われ、石井樋公園内に「さが水ものがたり館」も新設されている。

  (20)山形五堰(全長115キロ)
  創設者鳥井元忠は、小田原参陣と思われるが確定史料に出会えず「不明」とした。「山形五堰」は大雨のたびに洪水を起こす「暴れ川」の流路を改修した五つの用水路(笹堰・御殿堰・八ヶ郷堰・宮町堰・双月堰)の総称で、城濠への引水と生活用水・農業用水の確保も図られている。
  総延長は、我が国最長で、山形の景観に欠かせない疎水と言われている。

  (21)桑名御用水(約2キロ)
  寛永三年(1626)桑名城主松平定行が桑名城内に導いたことから「御用水」と称されている。町屋川から水を引き、城下町に飲用を目的とした水道で、当初は町中の六ヶ所に「通り井」が設けられ、住民の飲料水として使用されていたという。
  明治37年、諸戸清六が私費で水道配管をしたことから「町屋御用水」とも言われている。
  「小田原ゆかりの優れた建造物」に指定されている大正6年建設の「諸戸邸」(小田原市国府津)は、諸戸清六の次男で実業家の諸戸精太の別荘であった。

  (22)金沢辰巳用水(全長12キロ)
  城の辰巳(東南)の方角、犀川上流に水源を求め、約4㎞のトンネルで導水、開水路を経て兼六園の霞ヶ池に貯水する。さらに地下の導水管を使ってサイフォンの原理により、白鳥掘から内掘へと上げ、さらに高所の二の丸まで揚水している。
  三代城主前田利常が町人板屋兵四郎に設計させ造らせた。
  全長12㎞、表向きの目的は防火用水らしいが、城の防御強化、生活用水でもあった。

  (23)神田上水
   小石川上水を拡張整備したとされているが、確定史料は見えない。三代将軍徳川家光の施策と、二代秀忠の指示の2説が言われている。延宝五年(1677)から同八年までの4年間、松尾芭蕉が敷設に従事したことが森川許六・著『風俗文選』や、簑笠庵梨一・著『奥細道管菰抄』等に記されている。

  4、北條氏の治水事業と町づくり
  氏綱の早川上水敷設以降、三代氏康は今川氏真に早川殿を嫁がせる同盟で天文24年(1555)、婿引出物として「千貫樋用水」を敷設したと言われている。先代氏綱時代からの土木技術の継承と考える。
  四代氏政と五代氏直は三ノ丸堀と大外郭と称される総構を築いた。三ノ丸堀は、発掘調査では北條氏の遺構とは確定されていないが、小田原城「最古の絵図」で前期大久保時代とされる『加藤図』に描かれている。
  この図の特徴は、南側の大手門設置と三ノ丸堀外側に半月形の巨大な馬出口が描かれていることである。これは虎口と言われ、城兵の出入りを保護すると共に敵兵の進退を妨げる設備であり、後述の敵兵を攻める出曲輪の要素が強い。
  総構には山王口に篠曲輪という出曲輪が設けられ、結果的に豊臣攻めを防いでいる。
  また、当市史跡に指定されている「早川口遺構」も惣構であり、早川上水から導いた川堀を設けている。総構は勿論、軍事防衛目的ではあるが、一般庶民をも防護する日本で始めての画期的な外郭で、小田原合戦後秀吉他、自国に外郭を構築した武将も少なくない。
  現代でいう都市計画と言えよう。三ノ丸堀が氏政・氏直の構築とすれば、排水路として設けられた「護摩堂川」も北條氏の遺構と考えられる。
  落城後、大久保氏が入城すると「酒匂堰用水」を開削している。

  おわりに
  平成15年4月の「第3回世界水フォーラム」に参加された当時、京都精華大学の嘉田由紀子教授(後、滋賀県知事)は、「かっては隣人が汚れを流さないという顔の見える信頼関係が、川の水を飲み水にするという安心感を持たせていた」と言われている。
  平成4年、ブラジルのロオデジャネイロ市で開かれた地球サミット(環境と開発に関する国際連合会議)のアジェンダ21で提案され、翌年の国際連合総会で3月22日が「世界水の日」とすることが定められている。
                                                      郷土士

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(その4)日本最古の水道「小田原早川上水」
初稿 2015. 1.10
二稿 2015. 1.21 大久保藤五郎墓所写真挿入
三稿 2015. 2. 7 寛永期までの水道・用水表挿入
四稿 2016. 4.18 沼田上沢用水・野蔦鎧堰用水加筆
五稿 2019. 6. 2 更新改訂、日野用水加筆

郷土士の歴史探究記事
その1 江戸の遊廓「吉原」を開いた庄司甚右衛門の謎  その2 良正院督姫の誤伝を糺す
その3 浄光院お静の生涯と保科正之             その4 日本最古の水道「小田原早川上水」
その5 北條氏康室・瑞渓院と今川氏真室・早川殿     その6 『明良帯録』を書いた山形彦左衛門
その7 北條氏政室・黄梅院と武田勝頼継室・桂林院    その8 贈答品・進上品等にみる北條家の文化財
その9 北條家と世田谷吉良家(付、崎姫と香沼姫)     その10 北條五代を支えた女性たち(改訂)
その11 北条五代を支えた男性たち               その12 西国で存続した北條氏と伊勢氏
その13 早雲庵宗瑞の小田原入城、その秋は明応9年    その14 三浦義意を祀った北條氏綱と居神明神社
その15 幻の大森氏小田原城と大森時代の小田原宿    その16 北條氏綱と居神神社の「勝って兜」碑
その17 北條氏綱の小田原城と小田原の町づくり      その18 北條氏綱の三嶋大社と鶴岡八幡宮再造営
その19 小田原北條家と浅草寺の再興             その20 北條二代氏綱の江戸制覇と弁財天の勧請
その21 宗瑞継室狩野氏女と氏綱正室横江氏女の出自  その22 伊勢弥次郎(早雲庵宗瑞・弟)の生涯
その23 虎朱印「禄壽応穏」と北條氏の印判          その24 福良と小田原の居神明神社名の由来
その25 下堀方形居館跡の謎                  その26 北條幻庵宗哲の生涯
その27 北條氏の花押と家紋                   その28 歴博の中世文書展と小田原開府五百年?
その29 新編・早雲庵宗瑞の生涯               その30 北條氏綱、「贈従三位」を叙位される
その31 「初見虎の印判状」発給者と氏綱の家督継承    その32 大久保忠眞の「贈従三位」叙位
その33 九嶋から北條姓を許された玉縄北條綱成家    その34 玉縄甘糟氏は、北條氏家臣か ?
その35 居神明神社と三浦氏関係の新史料         その36 検証、居神明神社名の由来
その37 北條家の縁、徳川家康の側室たち          その38 高潔の武将・北條氏照と室・大石比佐
その39 もう一人の伊勢宗瑞・弟?             その40 北條五代「去る者は追わず、来る者は拒まず」
その41 能楽・宝生流家元の小田原来住            その42 「戦記物」の虚構と史実 
その43 北條氏綱息女、崎姫と香沼姫             その44 新説・まぼろしの崎姫










2019年5月29日 (水)

郷土士の歴史探究記事 その38

                          高潔の武将・北條氏照と室・大石比佐

  北條氏照は、三代氏康と今川氏親息女瑞渓院の三男として生まれたが、生年は天文九年(1540、寛政重修諸家譜)・同十年(小田原編年録)・同十一年(宗閑寺記録)の三説がある。(下山治久)
  北條氏四・五代で、最も活躍した人物として私はこの氏照と韮山城主氏規、それに鉢形城主藤田氏邦の三兄弟を挙げていた。しかし、北條氏を調べてきて下野唐沢山城主北條氏忠と武蔵岩付城主北條氏房も負けず劣らず存在感を示している。
  その中で、氏照は豊臣氏との小田原合戦では主導的役割を果たしている。
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   1、北條氏照の武功と外交
   2、氏照の水道と用水の敷設      (右写真、八王子城跡引橋。H30.4.30)
   3、氏照と梵鐘応召         (写真・図版は、クリックすると拡大します)        
   4、氏照の印判と足利義氏後見人
   5、氏照と室比佐の最期    
      おわりに             

  1、北條氏照の武功と外交
  氏照は弘治元年(1555)十一月、下総葛西城で行われた古河公方足利義氏の元服式に、兄弟で唯一父氏康と共に参加し、翌同二年五月に元服したと見られている。
  永禄二年(1559)十一月、大石定久の娘・比佐を娶り養子縁組をして大石源三氏照を名乗り、由井城(八王子市下恩方町)に入る。同四年には辛垣城(青梅市二俣尾)の三田綱秀と、同七年には安房里見氏とも戦っている。この間、永禄六年から同十年までの間に滝山城(八王子市丹木町)を構築し、本拠を移している。
  ただ、氏照の大石領支配や養子縁組、滝山築城等には諸説があり断定は避けたい。
  そして永禄十年(1567)、武田信玄の相模侵攻の際、高尾山麓の廿里(八王子市廿里町)で迎撃したが敗退、滝山城の三之丸まで陥落、氏照は二之丸で指揮をとり武田勝頼と槍を合わせた
とも伝えられ、最終的には武田軍の攻略を断念させている。Img_20160705_0005_1
  この時、平山城の防御面での不利を悟り大規模な山城を築き、その山頂に八王子
社を祀ったことが、「八王子城」(八王子市元八王寺町)の名称と「八王子」地名の由
来であるという。
  翌同十一年十月一日、信玄の小田原城攻めの時、氏照・氏邦が挟撃体制をとったが失敗、戦国最大の山岳戦として知られるのが同十月八日の「三増峠の戦い」である。この年、大石から北條に復姓している。         (右、伊達輝宗宛氏照書状) 
  天正二年(1574)には下総関宿城(野田市関宿)の簗田氏と戦い開城させ、主に小田原の東方を担当して北條家の勢力拡大に大きく寄与している。この年以降、古河
公方足利義氏の後見役も務めていることは後述する。
  同六年(1578)五月、上杉氏の家督争い「御館の乱」では、実弟上杉景虎の援軍要請に、兄氏政の名代として氏邦と共に出陣。三国峠を越えて坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取したが、冬が近づき重臣に坂戸城を守らせ一時撤退した。Img_20160705_0006
  しかし翌年三月、春を待たずに景虎は悲運の最期を遂げている。
  ここまで武功面を記してきたが、氏照は外交面にも秀でており、下野国佐野氏との
外交を皮切りに、上杉氏との相越同盟の実現、伊達氏との濃密な親交など多くの文
書が残されている。氏照から、出羽米沢城主伊達輝宗(正宗実父)宛の文書を右上
に示した。                                                  
  武田信玄の永禄十二年(1569)一月末からの駿河侵攻を伝え、薩埵山で先月二十四日に対陣し数百人を討ち捕った。このため越後(上杉氏)と同盟した。向後も入魂(じっこん)のことを望んでいる。委細は玉瀧坊(松原明神社別当)が伝える、とある。
  この後、天正十四年(1586)二月、伊達政宗と結んだ文書を右に示した。
  まさに、豊臣と北條との開戦が予期され始める時期である。北條氏直直筆文書で、委細は同名(北條)陸奥守(氏照)が申し伝える、としている。氏照は、伊達政宗に面会し同盟を約したのであろう。小田原合戦では、伊達政宗が六月五日に秀吉陣に入ると、翌六日に北條氏直は岡田利世を小田原城に入れ和平交渉に転じている。
  氏照は、伊達氏が北條氏と共に戦えば、家康も北條氏に味方すると考えていたのであろう。全ては伊達氏の動向に掛かっていたと推定できよう。
  時代は前後するが、織田政権下では氏照は信長との同盟強化を画策し、甥の氏直と信長娘との婚約を実現したが、天正十年の「本能寺の変」で実を結ばなかったことは何とも惜しまれる。

  2、氏照の水道と用水の敷設Img_20160705_0001
  氏照は、野蔦鎧堰用水と日野用水を敷設している。水道・用水の敷設は本ブログ(その4)で述べているが、両用水は、全国の水道・用水敷設順位は4・5番目である。
  ①野蔦鎧堰用水
  永禄八年(1565)の開削で、現町田市野津田を流れる鶴見川に敷設された灌漑用水である。氏照は、永禄五年(1562)七月五日付文書で、地元有力者に対し年貢一年間の諸税を免除する代わりに、離村した農民を帰村させ、野蔦用水を引き新田開発するよう命じている。                  (右図版、北條氏照朱印状)
  その3年後の同八年三月二十日付氏照朱印状は、野蔦郷の用水の堰が崩れて給水が止まってしまったため新堰を築く願書が届き、それを許可し新たに鎧堰用水が敷設されたという文書を示した。4項で述べるが、「如意成就」は氏照の印判で、武藤氏は堰の管理者と見られ専正軒は氏照の奉行人である。
  この文書は、町田市の有形文化財に指定されている。(下山治久著『八王子城主北條氏照』より)

  ②日野用水
  前記野蔦鎧堰用水敷設2年後の永禄十年(1567)、滝山城主北條氏照の指示で美濃国から来た上佐藤家の先祖である佐藤隼人が、日野用水を開削した史料がある。日野では日野本郷名主と日野宿問屋を兼ねて勤めた佐藤家(通称上佐藤家)に伝わる元禄十六年(1703)の『挨拶目録』と、延享二年(1745)の『日録』が、日野用水開削の事情を伝えている。両書の関係箇所のみを抜粋して示す。
 
        元禄十六年三月 挨拶目録
    一、永禄十年、北条陸奥守様より隼人殿罪人をもらゐ、此村之用水を掘せ、茶屋・小家をひつらゐ百
    姓之用水を取、当光寺之のみ水に成、大小之百姓末々迄難有可奉存候。当主を計殿松植候を拙者共 
     見聞申候
    一、元亀元年、北条陸奥守様より屋敷割帳・陸奥守様御書附、新名主彦右衛門殿江御預ケ被成候
     (政右衛門印、以下一六四名連印)

       延享二年十二月 日録
    一、永禄十卯年、北条陸奥守様より罪人を貰、此村之用水名主隼人差図堀せ候書付壱通
    一、元亀元午年、北条陸奥守様御領地之節、日野本郷屋敷割帳壱冊(藤兵衛印、以下一六四名連印)
                                                (『新撰組のふるさと日野』より)
  『挨拶目録』が永禄十年の「日野用水」敷設と、元亀元年(1570)に氏照が甲州道中の道筋を定め、日野宿の町割りを行っていることを記している。特に「日野用水」は飲料水にも用いられているが、こうしたことは各地に見られる。その後、450年余の今日も日野用水は同じ場所に流れ続けているという。
  さらに、『日録』も同十年に氏照領地である日野宿に日野用水敷設を記している。
  同宿の江戸時代は、日野本郷と呼ばれ通称上佐藤・下佐藤の両佐藤家が問屋(日野本郷の名主を兼帯)を務めていた。この上佐藤家の祖先隼人は、永禄年間(1558~70)に美濃国から日野に移住し落武者・野武士を追払い、この辺りの百姓を守り日野用水を開削するなど、草分け名主として大きな足跡を残している。
  日野用水は氏照と上佐藤家の隼人とが連携して開削したことが言われている。

  3、氏照と梵鐘応召Img_20160705_0002 
  北條氏照の極めて特徴的な作戦が文書から知れる。
  豊臣秀吉との一触即発の合戦が予期される天正十六年(1588)正月に、寺や神社の梵鐘を供出させる「梵鐘応召」と言われる三通の文書が現存している。
  ①は成木(青梅市)の愛染院、②は永渕(同市)の玉泉寺、
③は茂呂(入間市)の出雲伊波比神社宛で、④は『戦国遺文』の解読文を引用して示した。
  いずれもほぼ同文であるため、②玉泉寺文書の本文は割愛した。③は寺院と神社の違いのみである。「天下の大合戦が始まるので」と書き出し、「合戦が終われば鋳直して寄進する」と
記している。
  寺社の鐘は、多くは陣鐘として使われているが、この場合は武器や銃弾として鋳つぶして使うためである。鉄や金属が喉から手が出るほど欲しかったのであろう。私たちは太平洋戦争で似たような、いや全く同じことが行われたことを思い出す。しかし、そのことは幕末の異国船渡来の際にも同様の史料が見える。余談になるが、文書史料を示す。
  安政元年十二月二十三日に、太政官府(朝廷側)から次に示す『毀鐘鋳砲之勅諚』が、京都所司代から幕府に届けられている。

     それ外寇事情は、固より深く宸襟を悩ませらるゝところなり。(中略)
    国家の急務ただ海防にあり。よって諸国寺院の梵鐘を以て大砲・小銃を鋳造し、海内枢要の地に置き不
    慮に備えんと欲す。速やかに諸国寺院に令し、各時勢を存じ本寺の外、古来の名器及び報時の鐘を除
    き、其の他は悉く大砲に鋳換え、皇国擁護の器とすべし(後略)                 (『毀鐘鋳砲之勅諚』)

  これを受けた幕府内には反対論もあったが、翌年の三月三日、仕方なく従ったと言われている。

    一、安政乙卯二年(一八五五)三月五日、左之布令あり。海岸防備之爲諸國寺院の梵鐘本寺其他古來
     の名器及表時の鐘を除き、大小砲に鑄換ふへく且銅・鐵・錫・鉛・硝石等を以て新規に佛像を鑄造し、
     或は其種類を以て無益之製造を禁過すへし。              (『近世小田原史稿本』巻之三)

  さらに記せば、天保二年(1831)水戸藩では藤田東湖ら筋金入りの廃佛論者の献策があり、藩主徳川斉昭は同十三年に「水戸御領中、年々不作、折から御収納も相減じ、思し召すように御届き相成らず候に付き、よんどころなく御領中寺院のつき鐘、銅佛を以て大砲に遊ばされたき思召」として梵鐘・銅佛の供出を募り(供出の事実は判明していない)、大砲を製造している。
  朝廷は、これを参考にしての勅諚と言われている。いずれも3・4百年前の氏照の作戦を承知していたのであろうか。なお、北條氏では氏照以外にこうした文書は見られないというから(下山治久)、氏照独自の考えであった可能性が高い。
  氏照に限らず、小田原合戦2年前の天正十六年は秀吉との開戦を想定し、その準備に怠りなく計っていた支城主は少なくない。氏照は、おそらく開戦になれば伊達が味方し、さすれば徳川も秀吉に反旗をひるがえす、と想定していたのではないだろうか。それが証拠に、小田原合戦では六月五日とされる伊達政宗が秀吉に下った直後から和平交渉が始まっているのである。

  4、氏照の印判と足利義氏後見人Img_20171022_0010
  氏照の印判については本ブログ(その23)で記したが、大変興味深いので重複するが記しておきたい。
  当初は、上部に象の形像に「如意成就」の4文字を刻んだ朱印で、寸法は縦7.3×横7.0㎝である。      ・                (右図版、「如意成就」朱印)
  4字の意味は、「意のまゝに成就」「思いのまゝに願いを叶えたい」であろう。領民への思い、関東に理想の国家設立の氏照の決意とも言われている。この朱印状を、下山治久は永禄2年(1559)頃から同12年(1569)頃までの間に30通を確認している。Img_20171022_0012
  その後、元亀元年(1570)頃から天正18年(1590)までに用いた解読未詳(方形4.3㎝)の朱印状67通がある。氏照が滝山城から八王子城に移ったことから、印判を替えたことが考えられている。                        (右図版、〔印文未詳〕氏照朱印)
  そして、この頃と言っても天正二年(1574)頃であるが、氏照は古河公方足利義氏の後見役を務めている。義氏の印判「大和」(方形4.3㎝)を示した。 (右図版、義氏「大和」朱印)Img_20171022_0014
  お気付きであろう、珍しい三重枠取りの方形印が大きさも一致している。義氏が天文二十一年(1552)公方就任後の永禄元年(1558)六月十九日付文書に見える。
  そして驚かされたのが氏照叔母で足利晴氏室、つまり義氏母の芳春院(葛西様。氏綱息女)の印判の印文が「日本王天下光」(方形4.3㎝の三重枠)と判明した。            
  氏綱の死去により氏康が北條氏三代を継ぐと晴氏は北條家を離反、北條氏に幽閉される。芳春院は嫡子義氏を育てると共に古河公方家を支えている。
  天文十九年カ二十年(1551)と弘治四年(1558)二月の2通の朱印状が見え、義氏の公方就任(天文二十一年)前後に相当し、義氏印判と共に芳春院と義氏の奏者を務めていた瑞雲院周興の関与が言われている。
  印文「日本王天下光」は、とても女性の印判とは思えない。
  残念ながら、写真版に出会っていないが、4.3㎝の方形で三重枠であるという。
  北條氏照の印判と、芳春院嫡子足利義氏の「大和」印判を示した。方形・大きさ・三重枠いずれも同形である。印文の「大和」・「日本王天下光」も、足利公方家を象徴したものと言えよう。
  氏照が義氏後見人を受けたことで印判も倣ったように思える。北條氏の強権的支配が言われているが、氏照の生真面目さがうかがえる。図版はモノクロであるが、朱印である。氏照印文は何であろうか。
 
  5、氏照と室・比佐の最期
  氏照は永禄二年(1559)、信濃木曽氏一門の大石定久の娘比佐を娶り、養子縁組をして大石源三氏照を名乗り家督を譲られている。大石氏は代々関東管領山内上杉氏重臣として武蔵国守護代を任されていた。天文十五年(1546)の河越城合戦で上杉憲政が関東を追われたことから、北條氏に臣従していた。
  氏照は当初は由井姓を名乗り、後に北條姓に復して大石氏(岳父の死去後)を配下に組み入れたとも言われる。ただ、大石定仲ら定久の家族を取り立てており、この件に関しての争いはない。自領である由井領(相模原市)の各村への文書は「油井源三」を記し、当時由井城(淨福寺城とも)を拠点としていた。滝山城はまだ存在しておらず、家督継承後に氏照が築城したとする説が言われている。
  家庭内では氏照自身が一度は大石を襲名しながら、北條に復帰しており複雑であるが、養父の死去後であり大石家は義弟の定仲が継いでいる。定仲は氏照の旗下の滝山衆に属していたが、天正十八年の小田原合戦前の一月に没した。家督は子の直久が継いでいる。
  氏照に側室はなく、室比佐との間に一人娘貞心があった。Img_20191014_0004  
  貞心は重臣山中大炊助頼元に嫁いでいる。頼元は「小田原衆所領役帳」に河越衆の山中内匠助(頼次)の嫡子とある。その後、出家したのであろう貞心尼として、最初の氏照領地で頼元の所領相模東部下溝(相模原市南区下溝)に、曹洞宗の龍淵山天応院を中興開基している。
  天正十六年八月二十六日に死去。法名は『天応院過去帳』に「霊照院殿中室貞心大姉」とある。             (右、大石家と北條家縁戚略系図)
  氏照に男子はなく、養子として氏政五男直重を迎えるが、天正十三年に千葉邦胤の急死により、直重は再度千葉家の養子に入った。このため氏照も再度、氏政七男源三を養子に迎えている。
  このことは、氏照が北條氏照家を興したかったから、と私は推定している。その願いは小田原開城により水泡に帰すのであるが、一度は氏照養子になりながら千葉直重となった氏政五男は、高野山蟄居後、秀吉の命で徳島蜂須賀氏家臣になる。その際、娘婿に「北條姓は良くない、大石を名乗れ」と命じている。直重には氏照の印象が強烈に残っていたのであろう。あるいは、氏照の願いを直重は知っていたのではないだろうか。
  なお、再度養子に入った氏政七男源三は、早雲寺所蔵『平姓北条氏系図』に後筆で「後、相州鎌倉明月院住職以心伝心公、寛永十二年二乙亥五月十九日」との補記があるが、その確認はできていないとある。
  小田原合戦では、八王子は六月二十三日に落城している。女性六十余人が捕えられ、小田原に籠城している武将の妻子は小田原陣に送還するよう命じられている(上杉文書)。しかし、実際に送還された史料は見られない(黒田基樹)。落城の際、城将の一人中山勘解由家範の妻は「我は女なりとも人手にはかかるまじ、かかる折柄に見苦しき憂目を見、我方様の名をば汚すまじ」と、言い自害している(『小田原北條記』巻十第一話)。『相即寺過去帳』には約120人、『大善寺過去帳』には約130人の戦死者の名前が記されている(旧八王子市史)。なかには女性の名前もあるという。(『北條氏康の子供たち』)
  氏照室・比佐は当時は滝之城(所沢市城、比佐居城)にいたが、落城すると淨牧院P1010136
(曹洞宗、東久留米市大門町)に逃れ、自害している。 
  「駿河大宅高橋家過去帳一切」(『伊勢宗瑞』収載)が、次のように記している。
                             (右写真、淨牧院の比佐の墓。H29.1.30)
    北条大石陸奥守氏照  天正拾八庚寅年七月拾壱日自害 五拾壱歳
       正室比佐之方       天正拾八庚寅年六月弐拾参日滅 
                大石駿河守安祝開基神護山淨牧院ニテ自害
                            (黒田基樹・著『伊勢宗瑞』より)
                     
  氏照は、小田原籠城中は「小田原仕寄陣取図」(『小田原市史』城郭編収載)P1010083
によれば、早川口から海岸部にかけて「陸奥守口」「奥州持口」があり、氏照の持ち場であろう。小田原落城後、兄氏政と共に秀吉から開戦の責任を問われて、侍医であった安斉小路にその名を残す田村安栖宅で切腹している。
  平成28年十一月、淨牧院を訪ね比佐の墓に参詣したが、ご住職は頻りに墓は伝承であり確かなものではない、と言われていた。
  この後、八王子城跡も訪ねた。  (右上写真、八王子城跡氏照墓。H28.11.4) Uzimasa_uziteru_bosyo
  大手門跡近くに家臣・中山家範の子孫である中山信治(水戸藩家老・常陸松岡城主)が百年忌に建立したと伝えられる、元禄二年(1689)刻銘のある氏照供養墓に参詣した。氏照墓の左右は中山家範と孫信治の墓とある。周囲にも古色蒼然とした戦死者であろう宝篋印塔や五輪塔等が点在し、当時を偲ばせており暫し感慨に浸った。           (右写真、小田原駅前の氏政・氏照墓所)
  なお、氏照墓と言えば、小田原駅前の氏政墓との墓所が知られている。
  同墓所に掲げられた「小田原市指定史跡・北條氏政・氏照の墓所」説明板にUzimasa_uziteru_bohi 
よると、天正十八年の小田原合戦で自刃し、この地にあった北條家氏寺の伝心庵に葬られた(現在の墓所は永久寺所有)。  (右写真、氏政・氏照墓碑説明板)
  その後、放置されていた墓所を稲葉氏が小田原城主の時(1633~85)に整備された。また大正十二年の関東大震災でも墓所が埋没する被害を被り、翌年、地元の有志により復元された」と、小田原市教育委員会が記している。
  八王子城跡は、平成30年4月末、再度訪ね峻険な山城を詰城まで登った。P1010233
  おそらく、築城中に開戦となり落城したのであろう、遺構らしいものは余り見られなかった。天守台裏の堀井戸が印象的であったが、後年のものであろう。
  しかし、氏照の執務の場で生活の拠点とも想定される御主殿は完成していたのであろう。建物跡と庭園跡を見学し、池が見つかり2段ないし3段の石組との
説明に、平成25年末から翌年にかけて次々に発掘された小田原城御用米曲輪跡の庭園跡を彷彿とさせられた。   (右写真、御主殿庭園跡説明板。H30.4.30)

  おわりに
  北條氏照についての一部をまとめたが、水道・用水の敷設と梵鐘応召は、どの程度知られていることであろうか。水道については、北條氏が我が国最初に敷設しており、それを間違いなく継承したものであろう。本ブログ(その4)を参照されたい。
  一方、梵鐘応召は氏照独自の発想と思える。いずれも、氏照の事績として知られて欲しいことと思う。
  八王子城跡を訪ね、急峻な山城に氏照の生活の場とも言われる御主殿跡の対比と、氏照供養墓が印象に残った。
                                                         郷土士

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参考文献
  小田原市史史料編原始・古代・中世Ⅰ                      小田原市  H7.3
  小田原市史史料編中世Ⅲ                              小田原市  H5.3
  八王子城主北條氏照       下山治久          たましん地域文化財団     H6.12
  新撰組のふるさと日野    日野市ふるさと博物館・編集   新撰組フェスタin日野実行委員会 H15.5
  近世小田原史稿本巻之三     小田原有信会・編      小田原市立図書館・蔵      S6.
  後北条氏家臣団人名辞典    下山治久                        ㈱東京堂出版  H18.9
  葛西城と古河公方足利義氏  編者 葛飾区郷土と天文の博物館       ㈱雄山閣   H22.5
  中世関東武士の研究第10巻「伊勢宗瑞」    黒田基樹                  戎光祥出版㈱    H25.2
 
(その38)高潔の武将北條氏照と室大石比佐
  初  稿 2018. 5.30

郷土士の歴史探究記事
その1 江戸の遊廓「吉原」を開いた庄司甚右衛門の謎  その2 良正院督姫の誤伝を糺す
その3 浄光院お静の生涯と保科正之             その4 日本最古の水道「小田原早川上水」
その5 北條氏康室・瑞渓院と今川氏真室・早川殿     その6 『明良帯録』を書いた山形彦左衛門
その7 北條氏政室・黄梅院と武田勝頼継室・桂林院    その8 贈答品・進上品等にみる北條家の文化財
その9 北條家と世田谷吉良家(付、崎姫と香沼姫)     その10 北條五代を支えた女性たち(改訂)
その11 北条五代を支えた男性たち               その12 西国で存続した北條氏と伊勢氏
その13 早雲庵宗瑞の小田原入城、その秋は明応9年    その14 三浦義意を祀った北條氏綱と居神明神社
その15 幻の大森氏小田原城と大森時代の小田原宿    その16 北條氏綱と居神神社の「勝って兜」碑
その17 北條氏綱の小田原城と小田原の町づくり      その18 北條氏綱の三嶋大社と鶴岡八幡宮再造営
その19 小田原北條家と浅草寺の再興             その20 北條二代氏綱の江戸制覇と弁財天の勧請
その21 宗瑞継室狩野氏女と氏綱正室横江氏女の出自  その22 伊勢弥次郎(早雲庵宗瑞・弟)の生涯
その23 虎朱印「禄壽応穏」と北條氏の印判          その24 福良と小田原の居神明神社名の由来
その25 下堀方形居館跡の謎                  その26 北條幻庵宗哲の生涯
その27 北條氏の花押と家紋                   その28 歴博の中世文書展と小田原開府五百年?
その29 新編・早雲庵宗瑞の生涯               その30 北條氏綱、「贈従三位」を叙位される
その31 「初見虎の印判状」発給者と氏綱の家督継承    その32 大久保忠眞の「贈従三位」叙位
その33 九嶋から北條姓を許された玉縄北條綱成家    その34 玉縄甘糟氏は、北條氏家臣か ?
その35 居神明神社と三浦氏関係の新史料         その36 検証、居神明神社名の由来
その37 北條家の縁、徳川家康の側室たち          その38 高潔の武将・北條氏照と室・大石比佐
その39 もう一人の伊勢宗瑞・弟?             その40 北條五代「去る者は追わず、来る者は拒まず」
その41 能楽・宝生流家元の小田原来住            その42 「戦記物」の虚構と史実 
その43 北條氏綱息女、崎姫と香沼姫             その44 新説・まぼろしの崎姫







  




 

 

2019年5月16日 (木)

郷土士の歴史探究記事 その37

  1.                     北條家の縁、徳川家康の側室たち

      徳川家康の側室に、北條家に関係する姫が4名いる。
      二代秀忠の側室お静(淨光院)も、北條氏家臣神尾榮嘉の息女であったことは本ブログ(その3)で記した。
      こうした縁は、家康の息女督姫が五代氏直に嫁ぎ、小田原合戦に際しては家康自らが北條氏と豊臣秀吉との仲介役を努めていたこともあったのであろう。その後、家康が将軍となり前記側室となった5名は、少なからず北條氏との縁と考え、まとめてみた。
    P1010096
        1、お久の方普照院
        2、お勝の方英勝院
        3、お万の方養珠院       (右、妙法華寺昭光門と庫裡。H28.11.7)
                       (写真・図版等は、クリックすると拡大します)
      家康の側室で北條家に縁があるのは、次の4名である。

         名前     法名    生 ~没年(享年)      父親(経歴)               子供
       ①西郡の局   蓮葉院    ? ~慶長11(?)    鵜殿三郎長忠(今川義元旧臣)     督姫    
       ②お久      普照院    ? ~元和3(?)   間宮康俊(北條氏重臣)             松姫
       ③お勝・お梶   英勝院   天正6~寛永19(65)   太田康資(里見氏旧臣)              市姫
                                       江戸重通(太田康資養女)
                                       遠山直景(北條氏重臣)
       ④お万       養珠院  天正8~承応2(74)    正木左近大夫邦時(元里見氏家老)  頼宣・頼房

      以上の4名であるが、①西郡の局は北條氏直室督姫の母君で、本ブログ(その2)で記したので割愛する。

      1、お久の方普照院
      お久の方は、家康の四女松姫の実母であるが姫が四歳で死去しており、極めて史料が少なく出自にも異説があり、家康の側室ではあったが余り知られていない。
      『寛政重修諸家譜』(以下、『寛政家譜』と略す)は、北條氏重臣間宮康俊の娘と記している。

        豊前守 氏康及び氏政・氏直に仕へ、天正十八年豐臣太閤小田原に進發のとき、康俊松田兵衛大
        夫康長と共に伊豆國山中城を守り、三月二十九日戰死す。年七十三。法名宗覺(今の呈譜に宗閑
        に作る)箱根の山中に葬る。後、康俊が長女こふて彼地に一寺を建立し宗閑寺といふ。
       女 父康俊戰死の後、東照宮の御側近く仕へ奉り、こふて父が葬地に一寺を開基し、宗閑寺と號
        す。この時、聖徳太子作の彌陀佛御紋の幡天蓋を寄附せられ、其寺内の諸役を許さる。
                                      (寛政重修諸家譜)
      宗閑寺(浄土宗、三島市山中新田)を家康に願って開基したとあるが、宗P1000846
    閑寺の石碑には「間宮小兵衛開基」の記銘もあり、次に示す『三島市誌』には「間宮小五郎開基」とある。(右写真、山中城跡宗閑寺の石碑。H28.5.19)
      ただ、今回使用した歴代将軍の婦女子を記した『玉輿記』・『柳営婦女傳系』・『以貴小伝』・『幕府祚胤伝』と、『国史大辞典』が記す家康の「妻妾一覧」21名中に、「お久」も「間宮康俊娘」もない。どういうことであろうか?
      『三島市誌』は、『増訂豆州志稿』の宗閑寺の記述で説明している。

       東月山宗閑寺 間宮小五郎開基ス、元和中間宮康俊(豊前守)追吊ノ爲メ創立ストフ、僧了的開山
        トス。寺記ニ云フ、康俊戦死ノ後其室久子徳川家康ニ事フ、因テ家康ヨリ佛像其他ノ寄贈品アリ
        キト                                   (『三島市誌』収載、増訂豆州志稿)

      元和中の創建、僧了的の開山で久子は「康俊の室」とあるが、康俊は前記『寛政家譜』に73歳とある。康俊の年令から「康俊の室」はないだろう。「家康ニ事フ」は「家康に答えて」で、側室の要望に答えた、ということであろうか。
      さらに、『三島市誌』は宗閑寺檀徒総代保管の『過去帳』(写本)から、「お久は家康の愛妾で康俊の娘とし、駿府城で死去。遺骨は父康俊の墓に合葬した」とある。「康俊墓」は、宗閑寺墓所を言っているのであろうか。『過去帳』にも関わらず法名を記していない。
      没年が元和三年(1617)二月十八日とあり、家康も前年(同二年四月)に他界している。とすると、元和初期の寺院建立にも無理が懸念されるが… 
      行き詰まっていた時、お久を「間宮氏(松姫生母)」とする『家康の族葉』(中村孝也著)に出会った。
      お久の記述は前記『寛政重修諸家譜』のみであるが、天正十八年の小田原合戦時のお久兄弟の年令を推定し、同年のお久は30から37歳として、合戦後に家康に近侍したと推定している。
      松姫の誕生は『徳川家譜』には文禄四年(1595)とあり、お久は35歳から42歳で出産したとある。その松姫について、『徳川幕府家譜』を引用している。

       松姫 文禄四年乙未於伏見御誕生、御母公間宮豊前守康俊ノ女、慶長三戊戌年正月廿九日御逝
          去、御年四歳、嵯峨清涼寺ニ葬               (『家康の族葉』 収載、徳川幕府家譜)

      ここに松姫は、「嵯峨清涼寺ニ葬」とある。前項「英勝院」の市姫も、清涼寺に「御影・御牌等」が立てられたとある。ネット情報であるが「清涼寺(淨土宗、右京区嵯峨釈迦堂)は、慶長十五年(1610)二月十二日、四歳で夭折した徳川家康の息女市姫(一照院、母は次項お勝の方)の位牌所となった。家康は客殿を建立したが寛永四年(1627)の大火で焼失した」とある。
      また、「慶長十五年(1610)、徳川家康息女松姫が亡くなり位牌所になる。家康は客殿を建立した」「徳川家康四女・一照院(松院・松姫)の位牌所として使われていた」とある。
      一照院を、市姫と松姫に混乱している。
      こうした混乱は、『以貴小伝』のお勝に「第四の御女松姫君・第五の御女市姫君をまうけしが、共にいとけなくしてうせ給ふ」とあり、松姫をお勝(英勝院)の子とする異説が散見されるからであろう。
      こうしたことを調べていて、『徳川将軍家墓碑総覧』(秋元茂陽著)に出会った。
      お久は、間宮康俊の娘で元和三年(1617)二月十七日、駿府城にて死去。法名は普照院光譽月桂清薫大禅定尼。墓所は華陽院(浄土宗、静岡市葵区)にある。同院には家康の外祖母である華陽院(お大の方の生母)や、家康の五女市姫の墓もある。
      当初のお久墓は崩壊したため、慶応元年(1865)に間宮康俊の後裔が再建しP1000906
    た、とある。同院は宗閑寺の本寺であり、宗閑寺開山の了的上人は華陽院を経て芝増上寺十四世に就任している。  ,(右写真、華陽院のお久・墓。H28.9.1)
      平成28年9月1日、静岡の華陽院を訪ねた。再建とされるお久の墓碑は現代の一般的角柱墓で、正面上部に徳川家の三葉葵紋が彫られ、普照院殿光譽智相宗薫大禪定尼とある。そして、左側面に「元和三巳年二月十七日逝去/五輪塔法號某自然及破壊故慶應元丑五月再建之 間宮大膳謹誌」とある。
      この記述から、お久の出自も家康側室も間違いないであろう。
      ただ、何故、市姫墓が華陽院にあるのか、あるいは松姫と
    混同してはいないだろうか? と、頭を過ぎった。 Img_20190518_0001
     
      2、お勝の方英勝院
      英勝院(お勝・お梶の方とも)は、父親が江戸城代の太田康資と、水戸佐竹氏家臣の江戸重通で、太田康資の養女とする2説がある。
              (右、武藏太田・北條・遠山三家縁戚略系図)
      いずれも断定するには至っていないが、太田康資と母親の法性院(江戸城代遠山綱景の娘で氏康養女)の息女(養女カ)であることは間違いない。 
      英勝院の兄重正の出生やその後は諸説があり確定できないが、重正の嫡子資宗は浜松城主になり遠州太田家の祖とされ、その五代資俊が初代掛川城主になり、掛川太田家の祖とも称されている。  
      『柳営婦女伝系』に、次の記述がある。

       水戸黄門頼房御養母、英勝院殿御由緒
         武州江戸の城主遠山丹波守嫡子隼人正ハ戦死し外に男子とてハ無く(間違い)、女子計(ばかり)
       余多(あまた)有之、長女ハ同国河越の城主大道寺駿河守政繁に嫁し、次女は同国稲附の城主太
       田新六郎康資が妻と成る。康資に二人の子あり、兄を新六郎重政、妹を於かぢと称せるなり。
       一説に於かノの方、実は江戸但馬守(水戸の城主)ハ娘なり。東照宮の仰に依て太田新六郎康資
       入道三楽齋が養女と成り、東照宮の御側に召仕われ御寵幸の後、松平右衛門大夫正綱へ下され
       妻となる。然れ共正綱を嫌ひ一月計も過て東照宮是を聞召され御取戻し有しとなり。(後略)
                                                         (柳営婦女伝系)
      水戸黄門頼房御養母とあるが、水戸徳川家の祖で家康の十一男、次項で述べる「お万の方」の子で家康の命で養子として育てている。「稲附城主の太田康資妻」とあるのは、太田道灌が建てた稲付城の城下、稲付村(現北区赤羽西)を言っている。出自については前記両説が述べられているが、「東照宮の指示で康資の養女」は、康資は天正九年(1581)に大多喜城で他界しており、あり得ない。
      本ブログ(その33)で記した玉縄北條氏二代氏繁の五男繁廣
    の室・放光院は、遠山為勝(景信とも)の娘とある。 Img_20190413_0005_2
      『寛政重修諸家譜』には、水戸家の臣・遠山彦六景信の娘とある。当時の常陸水戸は、北條氏に敵対する佐竹義宣領であったが、水戸城主で佐竹家臣江戸重通は北條家とも通じでいた。小田原合戦時には北條氏に付いていることから、遠山為勝は江戸城代遠山氏との何らかの縁も考えられよう。 
                             (右、玉縄北條家略系図)
      英勝院が、江戸城代太田康資とも、遠山直景とも、水戸佐竹氏家臣・江戸重通の娘とも言われる由縁であろう。
      『家康の族葉』を要約すると於梶の方は本名を勝を称し、稲付城主太田新六郎康資(入道三楽)の娘で、母は北條氏康家臣で江戸城主遠山四郎左衛門直景の次女である。天正十八年関東御入国の後、家康はお勝を召出して側近におき、慶長十二年(1607)正月一日にお勝30歳で、家康最後の子市姫が生まれたが4歳で早世した。家康は11歳の孫虎松(結城秀康の次男)を駿府に召してお勝の養子とした。この虎松が後の松平伊豫守忠昌である。
      そして、次項で述べるお万の方が懐妊すると、家康はお勝に命じて世話をさせ、生まれた第十一子鶴松を育てさせた。後の水戸中納言頼房である。
      家康他界後は英勝院といい江戸城田安比丘尼屋敷に住んだが、頼房と忠昌は屡々一緒に来訪し伯父・甥の間柄であるが兄弟のように睦まじかったという。
      家康66歳の時、家康の第五女として江戸で生まれた市姫は、母の胎内にいる時から伊達政宗が嫡子忠宗の室として迎えたいと請い、婚約が成立していた。従って同十五年閏二月十二日の急逝に『台徳院殿御実紀』は、「けふにはかなる事にてうせ給ふ。わづかに3歳、御生母おかぢの局、悲嘆はさることにて政宗が嘆き大方ならず」と記している。伊達政宗には翌慶長十六年四月、池田輝政と督姫の息女振姫を家康とお勝の養女(後、秀忠の養女)として伊達忠宗に嫁がせている。
      京都嵯峨清涼寺に御影・御牌等を立てられ、法名は一照院殿円芳功心大童P1000909
    女(清涼寺過去帳)とあり、前述のお久の方が眠る駿河華陽院に葬られた。
                                (右写真、華陽院の市姫墓。H28.9.1)
      英勝院は、最初から側室であったわけではなく、非常に聡明であったことから寵愛を受けたとされ、両親(太田康資と氏康養女法性院)が大多喜城と誕生寺で他界した後、どのような縁で家康に召されたのであろうか。聡明さの逸話は少なからず伝えられているが、そうした経緯の史料は全く見えない。
      いずれにしても、太田道灌の旧屋敷地を家光から賜り、英勝寺(浄土宗、
    鎌倉市扇ヶ谷)を建立し、寛永十九年(1642)八月二十三日、65歳で逝去P1010029
    すると、その地に葬られている(異説もある)。法名英勝院殿長譽清春大姉。太田道灌の旧領を菩提所としたことも父太田康資娘が裏付けられよう。現在建物等が国宝に指定されている。       
                   (右、太田道灌旧邸跡の英勝寺山門。H28.10.21)
      余談になるが、英勝院の侍女であったお六(養源院)を、家康は側室にしている。家康が他界した時のお六は19歳と若く、秀忠は落飾させ、榊原康Eisyouinn_yougenninn
    成の養女として喜連川義親に嫁がせた。しかし、寛永二年(1625)家康の法事で日光東照宮に参詣した際、急死している。享年29歳だった。
      英勝院は、お六の菩提を弔うため養源院(浄土宗、日光市山内)を建立し、水戸家(頼房の養母)の僧坊とした。 
                          (右、養源院跡の英勝院と養源院の墓)
      松尾芭蕉が「奥の細道」で東照宮を訪れ、この僧坊に泊ったことを記しているが、明治維新後廃寺となり、現在は養源院跡として大小のお墓が二基並んでいる。大が英勝院で小さい方が養源院である。
      なお、お六の正確な法名は「養儼院」で、父親は今川氏旧臣黒田五左衛
    門直陣と伝えられる。  P1010105
             (右、英勝院と養珠院の再建とされる妙法華寺。H28.11.18)

      3、お万の方養珠院
      お万の方養珠院は、実父が安房里見氏家臣の上総勝浦城主正木頼忠(別名、邦時)で、母智光院は『寛政家譜』に北條氏隆(氏堯の誤り)の娘とある。                                       (右、北條家と正木家縁戚略系図) Img_20190517_0002
      ただ、『南紀徳川氏』には、北條氏家臣田中越中守素行の娘で氏堯の養女とある。田中素行の子・江雪斎融成が重臣板部岡の養子になり家老に列していることから、江雪斎の姪説も有力視されている。 
      正木時忠(頼忠実父)は、永禄七年(1564)の第二次国府台合戦に主君里見氏が北條氏に敗れ、次子頼忠を人質として小田原に預けた。その人質中に頼忠は氏堯息女智光院と結婚し二男一女を授かった。 
      しかし、天正三年(1575)に頼忠の実兄時通が急死し、翌年には実父も死去した。頼忠は勝浦城に帰ったが妻子は人質の意味もあったのであろう小田原城に残された。その後、頼忠は男子の帰郷を希望し、北條氏は2人の男子も帰している。そして、頼忠は里見義堯の娘を後添に迎え、智光院も伊豆河津城主蔭山氏広と再婚している。
      『柳営婦女伝系』は、お万の方養珠院について次のように記している。

      紀伊大納言頼宣卿・水戸中納言頼房卿御母堂、養珠院殿之伝系
        頼宣卿・頼房卿ハ御同胞御兄弟にて御母堂ハ始の名於万の方と称し、後蔭山殿と号す。父ハ安
        房国主里見公安房守忠義の一族上総国大多喜城主正木左近大夫邦時入道寛斎が女也。邦時
        東国騒乱の時、相亡さるゝの後、寛斎病死す。其安ハ北條左衛門尉氏堯女なり。寛斎沈落して死
        去に付、男女の両子を携へて、蔭山長門守氏広へ再嫁す。(後略)        (柳営婦女伝系)

      天正十五年、頼忠は北條氏と交渉し嫡子直連と為春は上総に返され、お万は蔭山氏広(義父)の養女として伊豆で育てられる。同地には、養珠院(お万の方)建立の蔭山氏広墓があったとされるが今はない。そして、河津で成長したお万は16・7歳の頃であろう家康に見初められ側室になり、慶長七年(1602)三月に長福丸(紀州徳川頼宣)、翌年八月には鶴千代(水戸徳川頼房)を生んでいる。
      お万と家康の出会いは、江川太郎左衛門との説がある。 
      小田原合戦で父江川英吉は北條氏に、子英長は徳川に通じて親子でP1010094
    争ったと伝えられる。後に英長が沼津で家康に接した際、河津にいたお万を接待役に使ったことから家康の目に留まったという。その後、英長はお
    万の方(養珠院)の養父としても知られ、家康に仕えたという。(下山治久)                                                                               (右、妙法華寺山門)
      養珠院の関係であろう実兄為春は紀州徳川家の家老となり、三浦為春を称している。正木家は、序章で記した三浦義意が新井城で北條氏に敗P1010103
    れた際、船で逃がした義意の一子が安房正木郷で成長し正木氏を称したとの説があるが、それ以前に正木家が分家した三浦系図もある。
      こうしたことから、為春は三浦を称したのであろう。歌人・文化人としても知られ、仮名草子「あだ物語」・紀行「大笑記」や句集などを残している。
                            (右、妙法華寺百間塀。H28.11.18)
      養珠院には、次の逸話が伝えられている。
      義父の蔭山家は、日蓮宗を信仰しておりお万も同宗の日遠に帰依していた。家康は浄土宗で、日頃宗論を挑む日遠を不快に思っていた。ある時、江戸城での問答直前に日蓮宗側論者を襲わせ、浄土宗側を勝たせてしまった。このやり方に怒った日遠は、身延山法主を辞して家康が禁じた宗論を上申した。これに激怒した家康は日遠を駿府の安倍川原で磔にしようとした。お万は驚いて日遠の助命嘆願をしたが家康は聞き入れなかった。するとお万は「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と言って二枚の死に衣を縫い始めた。これには家康も驚いて日遠を放免したという。
      この養珠院の勇気は、当時かなりの話題になったそうで後陽成天皇も感動され、自ら「南無妙法蓮華経」の七文字を書いてお万に贈られたという。家康の死去した後の元和五年(1619)八月、身延山で法華経一万部読誦の大法要を催し、満願の日に七面山に向ったという。
      お万の方は承応二年(1653)死去、法名は「養珠院殿妙紹日心大姉」。墓所は、翌同三年に養珠院を開基として徳川頼宣建立の本遠寺(ほんおんじ。日蓮宗、南巨摩郡身延町大野)である。身延山久遠寺(日蓮宗総本山)の篤信廟に供養墓があるのも本ブログ(その3)で記した。  
      平成28年初秋、本遠寺を訪ねた。 (右、本遠寺養珠院墓所。H28.9.1) P1000910
      慶安三年(1650)建立で国指定の重要文化財である本堂左手の石段を登ると、石垣上の石門は一枚岩を刳り抜いた高さ2、7㍍、間口2、13㍍、その奥の花崗岩製の宝篋印塔は本体高さ4、55㍍で、「養珠院妙紹日心 承應二年歳次癸巳八月二十一烏」(徳川将軍家墓碑総覧)とある。家康の正・側室の墓所では最大規模であろう。静岡県重要文化財指定である。
    P1010112    養珠院墓所は、他にも妙法華寺(日蓮宗、三島市P1010113
    玉沢)・蓮永寺(日蓮宗、静岡市沓谷)・本門寺(日蓮宗、大田区池上)・久昌寺(日蓮宗・常陸太田市)・理性寺(法華宗、杉並区永福)にも供養墓が現存する。
     (左、妙法華寺英勝院墓所、右、掛川太田家墓所)
        妙法華寺は、寛永二年(1625)に徳川秀忠が玉沢の全地を寄進し、下乗札も立ち、英勝院(お勝)や養珠P1010097
    院(お万)らが寺の再興に尽力したからと言われている。  
        P1010098 特に、英勝院兄の掛川太田家墓所は、歴代当主夫妻の墓碑が林立し圧巻である。その前に英勝院墓所が一画を占め、正面の五輪塔が英勝院供養塔である。(左、養珠院墓所三基。右、正木頼忠供養塔)
       養珠院墓所三基は左に養珠院、中央に母・智光院と右側が養父で河津城主・蔭山氏広の供養墓である。写真は大小関係を感じさせるが撮影場所による遠近によるものである。
      養珠院・実父正木頼忠の供養墓も近くにある。なお、妙法華寺は11月7日と18日の2度訪ねた。
      これら英勝院と、養珠院関係者のいずれもが五輪塔であることに、同時期の建立が考えられる。
      蓮永寺は養珠院の支援、本門寺は紀伊徳川家の墓所、久昌寺は水戸光圀(お万の孫)が母久昌院の菩提を弔うために建立した寺院で、久昌院も久遠寺篤信廟に供養墓がある。
      理性寺は旗本大久保家開基であるが、正木家菩提寺でもある。同墓左側面に「明治廿八年七月 親戚協議上為改葬者也正木」とある。

      おわりに
      家康の側室で北條家が関係する3人をまとめたが、3人が家康の子供を産んでいたことは特筆される。それも普照院の子・松姫と、英勝院の子・市姫が少なからず混乱が生じていた。
      また、英勝院と養珠院は家康の意思により、実子と養子の関係が生まれ、お互いに助け合っていたことは間違いないであろう。出自が北條氏関係者であることを承知していたであろうか。妙法華寺の拝観をお勧めしたい。                      郷土士                                                           

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      なお、ご許可いただければ、その時点で公開とさせていただきます。

    参考文献
      寛政重修諸家譜         高柳光寿・岡山泰四・斎木一馬/編 ㈱続群書類従完成会   S40.5
      『三島市誌』収載、増訂豆州志稿        三島市誌編さん委員会  三島市     S34.5
      『家康の族葉』収載、徳川幕府家譜       中村孝也        ㈱講談社    S40.4
      徳川将軍家墓碑総覧              秋元茂陽        星雲社     H20.1
      『史料徳川夫伝殿』収載、柳営婦女伝系     高柳金芳・校注     新人物往来社  H7.1

    (その37)北條家の縁、徳川家康の側室たち
      初  稿 2018. 5.20

    郷土士の歴史探究記事
    その1 江戸の遊廓「吉原」を開いた庄司甚右衛門の謎  その2 良正院督姫の誤伝を糺す
    その3 浄光院お静の生涯と保科正之             その4 日本最古の水道「小田原早川上水」
    その5 北條氏康室・瑞渓院と今川氏真室・早川殿     その6 『明良帯録』を書いた山形彦左衛門
    その7 北條氏政室・黄梅院と武田勝頼継室・桂林院  その8 贈答品・進上品等にみる北條家文化財
    その9 北條家と世田谷吉良家(付、崎姫と香沼姫)     その10 北條五代を支えた女性たち(改訂)
    その11 北条五代を支えた男性たち               その12 西国で存続した北條氏と伊勢氏
    その13 早雲庵宗瑞の小田原入城、その秋は明応9年  その14 三浦義意を祀る北條氏綱と居神神社
    その15 幻の大森氏小田原城と大森時代の小田原宿    その16 北條氏綱と居神神社の「勝って兜」碑
    その17 北條氏綱の小田原城と小田原の町づくり  その18 北條氏綱の三嶋大社と鶴岡八幡宮再造営
    その19 小田原北條家と浅草寺の再興        その20 北條二代氏綱の江戸制覇と弁財天の勧請
    その21 宗瑞継室狩野氏女と氏綱正室横江氏女の出自  その22 伊勢弥次郎(早雲庵宗瑞・弟)の生涯
    その23 虎朱印「禄壽応穏」と北條氏の印判       その24 福良と小田原の居神明神社名の由来
    その25 下堀方形居館跡の謎                  その26 北條幻庵宗哲の生涯
    その27 北條氏の花押と家紋               その28 歴博の中世文書展と小田原開府五百年?
    その29 新編・早雲庵宗瑞の生涯               その30 北條氏綱、「贈従三位」を叙位される
    その31 「初見虎の印判状」発給者と氏綱の家督継承    その32 大久保忠眞の「贈従三位」叙位
    その33 九嶋から北條姓を許された玉縄北條綱成家    その34 玉縄甘糟氏は、北條氏家臣か ?
    その35 居神明神社と三浦氏関係の新史料         その36 検証、居神明神社名の由来
    その37 北條家の縁、徳川家康の側室たち        その38 高潔の武将・北條氏照と室・大石比佐
    その39 もう一人の伊勢宗瑞・弟?        その40 北條五代「去る者は追わず、来る者は拒まず」
    その41 能楽・宝生流家元の小田原来住            その42 「戦記物」の虚構と史実 
    その43 崎姫と香沼姫、そして山木大方            その44 新説・まぼろしの崎姫




     

2019年5月 6日 (月)

郷土士の歴史探究記事 その36

                      検証・居神神社名の由来

  小田原の居神神社(旧・居神明神社。小田原市城山)は、不思議な神社と言って良いであろう。
  今まで知られていなかった創建年が500年近くになって永正十七年(1520)と判明し、当時の小田原城主二代北條氏綱公が創建者と推定されている。
  その氏綱公が父早雲庵宗瑞公と共に攻め滅ぼした敵将の三浦義意公を祭神として、自領の小田原城下に祀っており、これも極めて珍しい。さらに祭神に祀った三浦義意公から、明神社名は「三浦明神社」とか「義意明神社」が一般的であるのに、「居神明神社」である。
  この「居神」という言葉は『広辞苑』にもなく、名称もまた極めて珍しく、我が国唯一の神社名である。
  私は「居神」という言葉を不思議に思い、常に念頭に置いていた。
  平成30年7月、読売新聞夕刊で『日本書紀』に「居神」とあるのを知った。
  その日本書紀の「居神」を調査中、南あわじ市の福良に「居神明神社」と、地名「居神」があることも知った。
  古事記や日本書紀は神話ではあるが、淡路島は日本列島で「最初に生まれた島」と記している。
  小田原と淡路島、この2つの居神明神社名は、『日本書紀』に由来するのであろうか…
  平成30年6月、居神神社に合祀されている「子安地蔵尊」から、その由緒を記す下書文書4枚が発見され、同書に「當社、大古(往古か)は居之大明神と申し候」とあったことは前ブログ(その35)で記した。
  この「居之大明神」を含めて、不思議に思える「居神」明神社名を検証してみた。                           
                        
    1、「居神」神社名の由来Igami_kamiss_3
     2、『日本書紀』が記す「居神」
    3、お名前の「居神」さん
    4、淡路島の福良にあった「居神明神社」
    5、地名「福良字居神」について
    6、福良の古文書は、水神を祀る「丹生明神社」
    7、福良の「居神明神社」は、地元民の別称   (右画像。「南淡路の神社」より)
    8、福良を訪ねて                 (画像は、クリックすると拡大します)

  1、「居神」神社名の由来
  『新編相模国風土記稿』(天保十二年(1841)成立。以下『風土記稿』と略す)編纂者も、居神明神社名を不思議に思ったのであろう。◎山角町○居神明神社の項に、
  「按ずるに町内傳肇寺所蔵、天正十六年(十五年の誤記)の文書に、井神之森と云事見ゆ」とある。
  傳肇寺(淨土宗、小田原市城山)所蔵の『朝倉右京進證文』(相州古文書)と名付けられた文書で、私領の境目を記すのに「井神之森際」と記していることは、前ブログ(その35)で文書と共に記した。
  この記述を基に、居神明神社前が小田原府内に飲料水を供給した日本最古の水道・早川上水の起点で、同明神社に水神も祀られていることから、「井神明神社」と称していたと言われる人がいる。
  しかし、「井神」を記す史料は、この1件のみである。
  また、居神明神社の創建年を記した『異本塔寺長帳』は、「永正十七年庚辰、三浦荒次郎義基(義意)首ヲ於小田原威神明神ニ祭ル」と、「威神明神」と記していることも、本ブログ(その14)で記した。
  この「威神」も、三浦荒次郎義意を思えば必ずしも誤記とも言えないところが面白い。しかし、管見の限りこの「威神」も1件のみである。
  当時の人たちは、耳に入った音(おん)を当人の知識の範囲内で漢字を当てることが多い。
  いずれも1件のみでは「居神」を記す史料に比べれば「説」にも値しない。
  そして、注目したのが前ブログで記した「子安地蔵尊由緒書」下書の、「當社、大古(往古か)は居之大明神と申し候」である。当初は「居之大明神」と言ったという。
  居神明神社は、新設されたのではなく「居之大明神」と称した小社があったことを示唆している。これまで、山角信濃守の屋敷を移転させて居神明神社が建てられたとも言われていたが、そうした史料は見えない。
  『風土記稿』は◎山角町○山角氏宅蹟で、山角町の町名由来を「(前略)今土人は信濃守の宅跡と傳ふれど前に載る如く信濃守の名、他の所見なし(後略)」としている。
  土人とは「地元の人」という意で、「地元の人の伝承であるが、山角信濃守は実在しない」としている。
  この伝承の起こりは、本ブログ(その14)で記した『相州小田原盛衰記』(写本・小田原北条盛衰記)である。「三浦義意の首が山角信濃守屋敷に飛び来たり、居神明神社が創建された」と記している。
  この記述は盗作の作り話である。当時は、創作話も史実の如く伝承されることもあるのだろう。
  ところで、前述の「居之大明神」であるが、居神明神社の別当「庭松寺」所蔵の『三名連記證文』文書を前ブログで示した。その『朝倉右京進證文』同様に、居神明神社と隣接する實相寺(現・光円寺の場所にあった)との境界証文である。冒頭に「居神大明神」とある。
  前述の「居之大明神」の名残りと考えるのは、我田引水が過ぎるのであろうか。いずれにしても、「居神明神社」名の由来は確定しない。

  2、『日本書紀』が記す「居神」
  三世紀後半に造られ前方後円墳では最も古い箸墓(はしはか)古墳(桜井市箸中)は、奈良時代の720年に成立したとされる『日本書紀』に登場する、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓とされている。   
  倭迹迹日百襲姫は、第十代崇神(すじん)天皇の時代を記した箇所で、第七
代孝霊天皇の皇女として出てくる。災害が続く理由を崇神天皇が占った時、Hasihaka03
姫に神が乗り移り、「我は是倭国の域の内に所を居(る)神、名を大物主神と為ふ」と述べる。                          (右写真、箸墓古墳)
  後に姫は大物主神と結婚するが、蛇に化身した姿を見て驚き箸を用いて自ら命を絶つ。このため、その墓を「箸墓」と呼んだという。
                 (読売新聞H.30/7/24日夕刊「史跡を訪ねて」)

  ここに「居(る)神」とある。
  余談になるが、この箸墓古墳を「卑弥呼の墓」とし、倭迹迹日百襲姫を卑弥呼とする説も言われている。
  『日本書紀』を調べると、前記「崇神天皇」の項を含め、少なくとも5箇所で「居神」を記している。
  そして面白いことに、ほぼ同様の神話を記す『古事記』には「居神」の言葉はない。
  つまり、「居神」は『日本書紀』に始まり、『日本書紀』で終わった言葉のようだが、僅かに北條氏綱創建が言われている「居神明神社」が、その言葉を伝承していたと言えそうである。
  創建者(氏綱カ)は、この『日本書紀』の「居神」を明神社名とした、と考えてみた。『日本書紀』の原文は漢文である。命名者が『日本書紀』を読んでいたとすれば、漢文を読んでいたことになろう。
  『日本書紀』に、「居神」が出てくるのは5箇所である。その一部を前後を省略して「居神」を記した部分のみ原文と現代語訳を記した。
  先ずは、「巻第一 神代(上)」に出ている。Img_20180805_0001
 
    是即畝丘樹下所居之神、號啼澤女命矣、遂拔所帶十握劔、斬軻遇突智
    爲三段、                             (巻第一、神代(上))

  現代語訳をすると、「畝丘(うねお)の樹の下に居る神で、名前を啼澤女命(なきさわめ)と言います」となり、原文の「居之神」は「居る神」と訳される。
  前項で記した『子安地蔵尊由緒書』の、「居之大明神」と関連するのであろうか。興味深い。
  この「泣澤女命」を祀った畝尾都多本(うねびつたもと)神社(橿原市木ノ本町宮脇)は、「泣澤女の神の社」と題した石碑で、次のように説明している。
Ikami_unebita_2
     泣澤女の神の社                    (右写真、「泣澤女の神の社」碑)
    此の神社は、古く古事記上巻約1250年前、香山の畝尾の木本に坐す名は泣澤
    女神、日本書紀畝丘樹下所居神で、延喜式神名帳畝尾都多本神社鍬靫、万葉
    集巻二或書の反歌、石長比売神は寿命を司り、泣澤売神は命乞の神なり、春雨
    秋雨等語源的に澤女は雨に通ず水神なり
                        (畝尾都多本神社「泣澤女の神の社」碑文)
                       
  「泣澤女神」について、『古事記』は「座す神」と記しているようである。「座す」は、
「居(おわ)す」と同意であろう。
  次いで、読売新聞が記した「巻第五 崇神天皇」の項である。

   是時、神明憑倭迹迹日百襲姫命曰「天皇、何憂國之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣」
   天皇問曰「教如此者誰神也」答曰「我是倭國域内所居神、名爲大物主神」    (巻第五崇神天皇)

   この時、倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)に神が憑いて言いました。「天皇よ、どうして國が治まら
   ない事を憂うのか? 若し私をよく敬い祀れば、必ず國を平穏にしよう」崇神天皇は問いました。「そのよ
   うな事を教えてくれるのは、どこの神ですか?」神は答えました。「私は倭國(ヤマトノクニ)の域内(サカイ
   ノウチ)に居る神、大物主神(オオモノヌシノカミ)という」                (巻第五、現代語訳)

  現代語訳では「居る神」とあるが、原文は「居神」である。
  この他に『日本書紀』は、3箇所に「居神」を記している。
  それらの「居之神」1箇所と、「居神」4箇所を整理すると次のようである。

   『日本書紀』巻第一 神代(上)     「泣澤女の神」               畝丘樹下所居之神
   『日本書紀』巻第五 崇神天皇     「倭迹迹日百襲姫命」           倭國域内所居神                                                         ・  『日本書紀』巻第九 神功皇后(二)  「撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命」  折鈴五十鈴宮所居神                                                  「幡荻穂出吾」                尾田吾田節之淡郡所居神
                                  神功皇后(三)   「表筒男・中筒男・底筒男」        水葉稚之出居神
                                                                                              
  「居神」は、「居る神」と現代語訳されるが、原書は漢文で「居神」である。
  「居神明神社」は、これら『日本書紀』の「居神」からの命名と考えたが、どうであろうか…
  そして、5箇所中3箇所が女神を記し、神功皇后も女帝であることも注目される。

  3、お名前の「居神」さん
  以前、『姓氏家系大辞典』(太田亮・著)で「居神」姓を調べたが記載はなかった。念のためネット情報で姓氏の「居神」さんを検索すると情報が2つある。「お名前」テレビ番組の影響であろうか。
 
             名字由来ネット            日本姓氏語源辞典
   全 国    約200人   21,759位       約200人  22,360位
   兵庫県     約140人    3,975位         約120人

  そして、居神姓の個人名では、ネット上に次の人たちが登場している。  
   居神 浩    神戸国際大学             
   居神 凌太  高知工科大学学士論文     
    居神麻衣子 京都大学IPS研究所・,大学院生
   居神 光男  府中市議会議員
   居神 孝治  熊澤商事㈱課長(福井市)
                               
  3人が大学関係者。居神さんは学者系であろうか。
  また、淡路島鳴門タクシーのネット情報に、「村上邸のしだれ紅梅(藤牡丹)」が見える。
  その中で、「居神さん」宅の「しだれ紅梅」が紹介されている。淡路島にも居神さんがいる。
  「名字由来ネット」では、居神姓の由来は不明としているが、「日本姓氏語源辞典」によると「兵庫県南あわじ市福良甲の小字居神が発祥」とある。
  福良(ふくら)甲の小字名に「居神(いかみ)」があった。この地名から「居神」姓が起こったという。
  なるほど、前記兵庫県の居神姓約120人中、南あわじ市が約100人で、その内福良甲が約50人、福良乙が約20人、福良丙が約10人とある。(日本姓氏語源辞典)
  しかし、南あわじ市の歴史で、豪族や武将の姓に「居神」は見当らない。8項で福良訪問を記すが慈眼寺ご住職の南岳利英師は、同寺過去帳の「居神姓」で最も古いのは、享保時代(1716~35)であると教えられた。
  ただ、一般庶民で墓などの記録が残るのは江戸時代からで、それ以前の記録は稀であろう。
  いずれにしても「居神」姓は、地名「居神」から生じたとする「日本姓氏語源辞典」の見解は妥当で、比較的新しい姓氏と思われる。

  4、淡路島にあった「居神明神社」
  ネットで、「南淡路の神社」を検索すると多くの神社名の中に、「居神(いかみ)明神社」を記している。

     (名称)     (祭神)    (所在地)     (摘要)
   居神明神社  丹生津媛命   福良居神   居神明神           (南淡路の神社)

  「居神明神社」が存在し、祭神は「丹生津媛命」(にうつひめのみこと)で、所在地が「福良居神」とある。
  3項で記した福良甲の小字名「居神」であろう。ただ、不思議なことに当市図書館の神社関係書籍や地名辞典等を調べても、居神明神社も地名「居神」も見えない。
  唯一、『角川日本地名辞典』が、「三原郡南淡町」の沿革(中世)の中に記す、次の記述に気がついた。
  
   高野山領であった福良に「鳰」(にお)という地名があり、居神(いかみ)に丹生明神が祀られた。 
                                                (角川日本地名辞典28兵庫県)

  福良の鳰(地名)は高野山領で、その地の「居神」に「丹生明神?が祀られた」という。
  このことについて『淡路の歴史』に、「貞応2年(1223)作成の『淡路国大田文(おおたぶみ)』が、賀集庄と福良庄を「高野山宝幢院御領」とある。「大田文」とは、鎌倉時代に国単位で作成された公領や荘園別に、土地面積や所有関係などを記した土地台帳ともいうべき文書で、国の重要文化財に指定されている。
  「居神」の地が高野山領であったことから、「丹生明神」が祀られたということだろう。残念ながら、高野山宝幢院は明治初期に廃絶している。
  高野山には、全国の丹生神社総本山で丹生津媛命が鎮座する「丹生都比売神社」Igami_niutuhimezou_2
があった。祭神の丹生都姫命は、ネット検索で次のようなことが分かる。
  「丹生都売神」(にうつひめのおおかみ)とも言われ、弘法大師(空海)が始めて高野へ登った時に、「我は丹生津姫、我が子は高野童男(ふとな)」と言ったという。
  丹生の「丹」とは、丹砂あるいは水銀のことで、古代において薬・塗料・染料・顔料に使用される重要な資源であった。丹生都姫命は、その鉱物資源採取を生業とする丹生氏の奉じた神とも言われている。            (右画像、推定「丹生津姫命」)         
  一方、丹生都姫命は水神で、高野山麓天野の地が紀ノ川一の水源地で、空海が丹生津媛命から譲り受けたという神領は、有田川・貴志川・丹生川・鞆淵川の流Igaminiutsuhime
域ほぼ全域を占めていたという2説が言われている。
  いずれにしても、丹生津媛命を祀る高野山北西の天野盆地に鎮座する「丹生都比売神社」(にうつひめじんじゃ。別称、天野天社・天野四所明神)は、全国に末社約180社を数える総本山である。
                  (右写真、丹生都比売神社楼門。国重要文化財)    
  『日本書紀』巻第一「国生み」の項に、弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が結婚し、最初のお産で「まず、淡路洲(あわじしま)を胎盤(えな)として生まれた。
  これを二はしらの神は喜ばれなかったので淡路洲(吾恥(あはじ)の意味)というのである。そこで次に、大日本(おおやまと。日本、これを耶摩謄(やまと)という)豊秋津洲(とよあきつしま)を生まれた。次に伊豫二名洲(いよのふたなのしま。四国)を生まれ、次に筑紫洲(つくしのしま。九州)を生まれた。(後略)」とある。
  淡路島は神話の始まりに登場し我が国の始まりでもあり、「居神」地名や「居神明神社」、それにお名前の居神さんを含めて、「在るべき所に在って然るべき」と言えよう。
  福良町の変遷を辿ると、昭和30年に南淡町に福良町と沼島村が吸収合併して南淡町が成立、平成17年に南淡町に三原町等が合併して南あわじ市が成立している。この間、福良町は福良甲・同乙・同丙と三分割しており、居神は福良甲居神だったようだが、「居神」小字名は現在は殆ど見えない。
  紀元前473年、中国の呉は越に滅ぼされ同334年、越は楚に滅ぼされた。この様な国の乱れの中で、金属採取に長けた越人を交えた一族部民は呉王女姉妹を奉載し、まさに呉越同舟で新天地の倭国へ向かった。
  大日女姫(おおひるめ)と稚日女姫(わかひるめ)姉妹は、南九州に上陸。姉の大日女姫は、この地で伴侶を得て留まり、後に天照大神と呼ばれる女神の原型となった。
  妹の稚日女姫はミズガネ(水銀)の女神と讃えられ、丹生都Igami_nyuuhime_1
比売神の原型となった。 (右図版。丹生津媛命、通過経路図)
  稚日女姫を奉載した一族は熊本の八代や佐賀の嬉野で水銀鉱脈を見つけ採掘した。さらに大分でも大きい鉱脈を発見している。姫と一族は移動を続け海を渡り四国に、一部は広島に移動し、その一族は石見・出雲や播磨へと進出している。
  丹生都比売一行は、その後も四国各地で鉱脈を発見・採掘を行いつゝ移動を続け、淡路島を経由、紀ノ国(和歌山)に上陸する経過は、中央構造線と呼ばれる断層に沿った経路であるImg_20190114_0002
ことが分かる。その断層には、水銀鉱脈が秘められていたのであろう。 
  こうした丹生津媛命の足跡には姫を祀る神社が建設され、その数は36都
府県223神社を数える。     (右表、丹生津媛命を祀る都府県別神社数)
  この丹生津媛命の神話は『古事記』にはなく、『播磨国風土記』や『豊後国
風土記』等に記され、『日本書紀』の一部「天野祝」も相当するとの説もある。
  丹生津媛命の話が長くなってしまったが、本項冒頭の「居神明神社」は、Igami_mamasannmikosi
どうも「丹生神社」であるらしい。というのも、居神明神社の写真が見つからなかったが、「居神明神社へ巡行するみさき神社のママさん御輿」とキャプションのついた写真に出会った。  (右写真、居神明神社へ巡行するママさん御輿)
  「居神明神社」の存在は、間違いない。
  しかし、「福良町字居神」の小字名は既に消滅しているようである。
  その福良町字「居神」こそ、『日本書紀』からの命名と推定するのだが…

  5、地名「福良字居神」について
  ここまで少なからず疑問も生じたことから南あわじ市に問い合わせ、「福良学教室」で活動された太田良一氏を紹介された。「福良学教室」とは、南あわじ市福良に関する「何でも学」を平成23年度から、同27年度まで5年間にわたって学び活動したグループで、「瀬戸の潮みず交流広場(福良地区県民交流広場)事業」の一環であるという。その5年間の活動を収めたDVDを、太田氏に送っていただいた。
  以下は、そのDVDに収載の記録資料を引用させていただく。
  先ず、地名「居神(いかみ)」について、「地名・字名」の項で次のように記している。

   ○「居神」             (右図版、福良字限大図)Igami_hukuraikami2
   居神明神社を祀る地名で、祭神は水神(みかみ)であり、
   これが居神に転訛したとの説が有力である。
   この辺の山を三上山と言うが、本来は御神山である。
   祭神は罔象女(みずはのめ)命、丹生津媛(にうつひめ)
   命で、明神社の裏に巨石があり石下より清水が流れ出
   ている。(福良学教室。平成24年度第2回)                       

  居神明神社を祀る地名で祭神は水神?(丹生津媛命では)とある。小田原の居神神社も「水神」を祀り、現在は「すいじん」と呼ばれているが、Igami_hukuraikami2
本来は「みかみ」か、「みなかみ」であったとも考えられる。
  そして「居神」は「みかみ(水神)」からの転訛とあるが、丹生津媛命は本来「水銀
の女神」とあり、断定は避けたい。   (右図版、『福良字限大図』「居神」部分拡大)
  仮に水神転訛説にしても、何故「居神」なのだろうか。
  小田原では「井神」を言われる人がいるが、水神ならば「井神」が相応しい。
  「居神」とあるので、『日本書紀』からと思うのだが…
  そして、現代の地図に「居神」字名は見えなかったが、明治初期と言われる『福良
字限(あざかぎり)大図』が、「居神」字名を記している。
  里の区域部に2箇所と山の区域部に1箇所、「居神」が見える。
Igamimyouzinnzya_hukura  次いで、「向谷居神」という地名にも出会う。

   ○「居神明神社(向谷居神)」 ・        (右写真、居神明神社拝殿)
   紀伊の人が16人、神を奉じてこの地に入植し、海端に丹生津媛命を祭
   神とする福良最古の社を造ったと伝えられている。この地で朱砂の採掘
   がなされていたが、大津波で人家80軒が流失したとの伝承がある。                                        (福良学教室。平成24年度第4回)
Igami_niuzinnzya2
  居神明神社は、「向谷(むかいだに)居神」とある。
  向谷は、福良中心地から見て福良湾を隔てた半島にあることから「向谷」と
呼ばれている。「丹生津媛命を祭神とする福良最古の社」とあるが、「朱砂(水銀)の採掘」を主業とする人家があったという。  (右写真、居神明神社本殿)
  さらに『福良むかしむかし』も、地名「仁尾」(にお)の説明で水銀の採掘場を記している。                   
                              
   仁尾
   水銀及び朱をとる朱砂採掘場であると伝える。朱砂は水銀と硫黄の化合物、即ち硫化水銀で鉱土は美し
   い赤色をしている。現在、朱というと印肉の朱や橙色というか昔、朱という真っ赤で強いマルーン色をいう
   た。昔は採掘技術も幼稚で深鉱採掘が出来ないので、表土から僅かの深さを掘れば他に移る。採掘場
   または精錬場には必ず「丹生津媛命」、即ち水銀媛を祭神として祀る。丹生津媛命に因んで丹生・丹歩・
   仁保等があって、福良の「仁尾」もその類である。(中略)
   仁尾はまた「鳰」とも書く。鳰は、かいつぶりの事である。水に入る鳥であることを示す字である。(中略)
   鳰が仁尾になったという説、これは肯けると思う。   (福良学教室。平成23年度第6回)

  「仁尾(鳰)」も、朱砂採掘場であった。さらに、「赤坂」(赤坂地蔵堂の説明は割愛)という所にも朱砂の採掘場があった。何と、福良には向谷居神と仁尾、そして赤坂の3箇所に朱砂採掘場があったという。
  やはり、「居神」を「水神(みかみ)」の転訛と断定することは、一考を要するであろう。

  6、福良の古文書は、水神を祀る「丹生明神社」
  福良学教室は「福良の古文書」として、次の3編を記している。
  先ず、文政八年(1825)成立の『淡路艸』(あわじぐさ。藤井容信・彰民、共著)が、水神について記している。

   水神(みかみ)
   浦の東の浜辺にて小祠あり。罔像(みずはのめ)の神を祭る也。村老曰く、賀集山八幡の摂社、丹生明
   の旧知地也。故に此神、八幡に移りしより、此地、行宮(あんぐう)を造り、祭日に爰まで神輿を遷座す
   る事、恒例なり。                                        (淡路艸)                                                          

  「罔像の神」を祀るが旧知の「丹生明神」の旧地であり、「丹生明神」が八幡社に移ったことから新たに、「行宮(あんぐう)」を建造したという。行宮とは、皇帝もしくは天皇の行幸時、或いは政変などの理由で御所を失陥した場合、一時的な宮殿として建造または使用される施設をいう。頓宮とも書き(かりみや)とも言った。
  似た言葉に行在所(あんざいしょ)・御座所がある。神社によっては行宮を持つものもあるという。
  この「行宮」が居神明神社であろうか。とすると、福良学教室が記した前述の居神明神社が、「福良最古の社」は当たらない。八幡社に移った「丹生明神」の方が古い。
  そして、当時の地名も書き上げている。「水神谷」(みかみだに)を記しいるが、「居神」はない。
  次に、安政四年(1857)刊行の『味地艸(みちくさ)』(小西友直・錦江、共著)も、水神の記述である。

   水神 添江(そうえ)も南並北向向谷口に丹生の祠あり、乾向、古老の伝説に此神比目魚に乗て飛行し
   八幡村に移り給ふ、今の八幡村八幡の摂社丹生明神此也、其旧地にに(ママ)して祭日には八幡村より
   神輿をこゝに迂座する事恒例なり、
       仕ル書物之事
   一、私共子孫先年より福良之内居神百姓に而、御座候所に明神八幡へ御飛びに成、則御供仕り罷越候
   に付福良山之内、長深山・志や谷・大すけ谷・小すけ谷、右四ヶ所の所へ御入に成為其札物榊柴一荷箸
   木壱荷毎年庄屋殿へ仕、其上福良八幡の宮やかさり仕、霜月十五日の祭りに御輿の役人に罷出候事
      明白也、然所に我々一門数多に罷越候に付右の山へ大勢入申事御留に成候に付、福良左衛門殿を相
   頼御言申上仁王門の中札に而右の山へ御入に成忝奉存候依而為後日証文如件
                                居神百姓 助右衛門
                                同       次郎兵衛
      庚子慶安三年卯月二十一日
                                         八幡之内組頭
                                       惣左右衛門
      福良御庄屋
             藤四郎様
      同     甚  助様
       御としより衆
             重大夫様
      同     仁兵衛様
      同     弥次右衛門様                                                       (味地艸)

  向谷に「丹生の祠」があったが、古老の伝説では「丹生の神」が平目に乗って八幡村に飛び移り、丹生明神社になったという。「行宮」の記述はないが神輿が迂座(神道用語か)するなど、前書(淡路艸)とほぼ同様のことを記している。
  この平目に乗って移ったのが南あわじ市福良甲の櫟(いちのき)神社や、賀Igami_mukaiya-hidari
集八幡(かしゅうやはた)の丹生神社(にうじんじゃ)と言われている。
  そして、居神百姓が福良の庄屋と年寄衆に誓約書を提出しており、「居神」
の小字名が知れる。ただ、「庚子慶安三年」とあるが、慶安三年(1650)は庚寅である。「庚子」は万治三年(1660)である。どちらの間違いであろうか。
  いずれにしても、江戸時代初期には「居神」の小字名は存在していた。
  この『味地艸』の挿絵が「丹生社」を記している。その左ページを右に示したが、右端に「水神谷」その左に「丹生社」とある。   (右図版、『味地艸』挿絵)
  さらに、あと一冊、明治27年の『淡路國名所圖會』(暁鐘成(晴翁)著、松川半山・浦川公佐、画)も、「水神」を記している。

   水神(みかみ) 
   同浦の東海浜にあり、むかし丹生明神の社ありしが加集山に移りなひて今八幡村八幡宮の摂社と崇む
   その旧地なるを以て今尚水神と地名せり、丹生明神は則ち水神なる故なるべし。   (淡路國名所圖會)
                                             
  明治27年も「丹生明神の社」で、「丹生明神は則ち水神」とある。
  以上3書、いずれの古文書も「丹生明神」を記し、「居神明神社」の記述はない。
  ただ気に掛かることが、いずれも「水神」の説明の中で「丹生明神」を記していることで、丹生明神をタイトルにした説明でないのはどういうことであろうか…。本来「丹生津媛命」は水銀の神である。
  それを「水神」とするのは、島は川が少なく本州以上に水が貴重であったからではないだろうか。水への願望が、「丹生明神」を水銀の神から、水神へと変えてきたのではないだろうか…
  そして、決定的なことは明治35年の『三原郡神社明細帳』である。Igami_hukuraniuzinnzya
  明確に、「福良町ノ内福良浦字居神 無格社 丹生神社」を記している。
  福良学教室最終回の「福良の神々」と題した講座でも、丹生神社(居神明神社)と記している。      ・             (右図版、三原郡神社明細帳)
                       
   ③丹生神社(居神明神社) 
     祭神  丹生津姫命  よみ にうつひめのみこと   
     祭主  居神明神講          (福良学教室。平成27年度第6回)
                      
  明神とは、神仏習合における仏教的な神の称号の一つで、明治元年3月の「神仏分離令」における仏教由来の言語は取り除くよう指令された。この法令では、明神号自体は取り除くべき言葉とは示されなかったが、仏教関連用語と見られ使用する神社は激減した。小田原の居神明神社も、この時以降「居神神社」である。
  当初、私は福良の居神明神社も同様に「丹生明神社」からの改称を考えたが、既述してきたように江戸時代から「丹生明神社」であった。ただ、「丹生神社」とある。おそらく、「神仏分離令」以降であろう。
  この「三原郡神社明細帳」から、居神明神社は「丹生神社」が正式名称と言えるであろう。というより、当初から公式には「丹生明神社」であったが、地元民は居神明神社を称してきた。
  現に「福良学教室」でも、何の衒いもなく「居神明神社」を記している。方言的名称とでも言えようか。
  では何故、地元の人たちは「居神明神社」を称しているのであろうか…
  また、何時頃から「居神明神社」と言われるようになったのであろうか…
  おそらく、字名「居神」が称されてからであろう。字名「居神」は、江戸時代初期には確認できた。

  7、「居神明神社」は、地元民の別称
  何とも不思議で、兵庫県立図書館に問い合わせた。
  種々資料を示され、居神明神社も字名「居神」がいつ頃から言われ始めたかを明確に言及している資料は見当らないとのことでしたが、示された次の3点の資料から、私見をまとめさせていただく。
  先ず、昭和54年3月・刊の『三原郡史』は、次のように記している。

   丹生明神 (前略)郡内に次の通り丹生明神がある。
      ①南淡町福良居神 丹生神社           ②南淡町賀集八幡 八幡神社に分祀
      ③南淡町賀集野田 丹生神社           ④南淡町賀集福井 大日寺境内(大日川の上流)
      ⑤三原町八木馬廻 天野神社(成相寺境内)  ⑥三原町市三条   戎神社に合祀
   これらの丹生明神がすべて古代から祀られていたとは言えないが、福良の居神はもと水神と呼ばれ、
   (中略、『淡路常盤草』引用)今も居神に丹生神社が祀られ、賀集八幡神社の本殿には丹生明神と八幡
   神が相殿で祀られているが、丹生明神が先に祀られていたという。(後略)           (三原郡史)

  前段の「丹生明神」の説明は割愛したが、三原郡の丹生津媛命を祀る神社の第一番に福良居神の「丹生神社」を挙げているのは、最も古いと見てのことであろう。いずれにしても昭和時代も「丹生神社」である。
  また、全体的には水神説を言っているが、(後略)で割愛したが松田寿男教授の水銀説も記している。
  次に、昭和59年10月・刊(昭12至15)の『兵庫県神社誌(附録)』の神社名簿である。

   丹生神社  丹生津姫命  福良町福良浦字居神                 (兵庫県神社誌・附録)

  福良居神の明神は「丹生神社」が正式名称で、「居神明神社」は別称というべきであろう。
  そして、「居神明神社」を記す同館所蔵資料では、『福良むかしむかし』(平成3年、前田勝一・著)のみと教えられた。勿論、福良学教室も『福良むかしむかし』は記していたが、次の記述は「DVD」にはなかった。

   居神明神社 
   おそらく福良で一番最初に祀られた神であろうという。その創祀伝説には各説ある。
   紀伊の人が十六人、この神を奉じて、この地に移住した。
   これが居神百姓の祖である。社を造った処が海端で昔は、ここまで海であったという。
   今一つは古記(萩原半翠翁は神代記という)に、阿万と福良の境に三上山があって、神が天降って、この
   地に鎮座したという。三上が水神に、次に居神になったというのは地名の項でも書いた。三上山は日本
   国中にあって、御神山のことで同じ話が出てくる。祭神は月読命、罔象女命、丹生都媛命ともいう。
   罔象女命は伊弉冉命が火の神を生む時、火のために焼死する際、土の神、埴山媛と水の神、罔象女を
   生む。水の神は祈雨、止雨の神で農業の神とする。
   丹生都媛命は、天照大神の妹で(また姉とも)稚日女命とも申す。
   当社の場合、祭神を丹生津媛命とするのが強く、当社を丹生明神社とも別称する。
    丹生津媛は水銀姫ともいい、古代、朱砂採掘を業とする丹生族の祖神とする。朱砂採掘の成功を祈っ
   て、その地に丹生明神を祀る。昔は技術力も少く表土浅く採掘して、また次の採掘場を求め、そこでも丹
   生明神を祀る。従って現在丹生社が各所にあるのは、その為であるという。(中略)
   当社には今、本殿はあるが、もともとこの背後にある巨石を御神体としていた。この石は脊後の山から姿
   を出して、この奥、どれだけ大きい石だろうかと思わせていた。そして、この巨石は常に水に濡れて、ポタ
   ポタ水滴を落していた。また、この石にしめ縄が張られ、いかにも神々しく且つ幽遼の感もあった。
   処が戦後、この上に道路が出来て、水も涸れて巨石と思った石も、案外小さい物に見えてガッカリした。
   昭和四十七年の台風で拝殿が倒壊し、四十九年、今のように復旧した。
    当社は福良の市坊から遠く、昔日の感は次第に薄れ年に一度、福良八幡神社祭礼の日、神輿巡行もあ
   るが、今、この辺の住民の信仰に守られる小社となった。(後略)            (福良むかしむかし)

  『神代記』にあると言われているが、同記が「居神明神社」を記しているとも思えない。
  祭神を「丹生津媛命とするのが強い」と言われながら、「丹生明神社」を別称とするのはどうであろうか。
  管見の限り「居神明神社」を正式名称とするのは、この書籍のみである。私は「居神明神社」は別称と思う。その居神明神社は、小字の「居神」を神社名としたのであろう。
  その小字名の福良町「居神」であるが、現在は殆ど使われていないようである。
  いずれにしても、この書籍から「居神明神社」が言われ始めたとは思えないが、これまでの史・資料から、案外「居神明神社」も新しい呼称と思えるが、どうであろうか。
  前田勝一氏は全てをご承知の上で、敢えて「丹生明神社」を別称とされたのではないだろうか。
  そして、字名「居神」についても、次のように記している。

   居神
   居神明神を祀る地が居神である。居神明神の祭神は一説では水の神である処から水神と称し、居神に
   転字したという説。また、この辺の山を三神山というた。三上山は余所にも沢山ある。神が天降った山
   で、本来は御神山である。これらのことも「居神明神」で書いた。                (福良むかしむかし)

  「居神明神」から、字名「居神」が称されたようにも窺えるが、私は字名「居神」から、地元民のみが別称として居神明神社を称したと考える。しかしながら、その別称も4項冒頭に示したネット情報ではあるが「南淡路の神社」が、公然と「居神明神社」を記しているのである。
  次項で福良探訪を記すが、この神社は宮司が常在しておらず、神社名を記す標柱も説明板もない。
  そのため、神社庁や行政には書面上「丹生明神社」が継承されているが、地元民にその名称は忘れ去られ、地名から「居神明神社」を称し、結果的に別称と言わざるを得ないのであろう。
  なお、江戸時代の福良は徳島藩領であった。念のため、徳島県立図書館にも字名「居神」、あるいは「居神明神社」を記す史料の存在を問い合わせたが、多くの史料を提示され見られないとのことであった。

  8、 福良を訪ねて  P10000101
  福良の居神明神社については、福良学教室学級委員の太田良一氏に大変なご協力をいただいた上に、福良訪問をお勧めされておりました。
  福良調査の私なりのまとめが一段落すると、「居神明神社」を別称とした
ことに、他所(よそ)者の机上調査のみの勝手読みが懸念されたこともあり、平成31年3月5日、福良をお訪ねしました。    (右写真、居神明神社拝殿)
  山陽本線の舞子駅で乗り換えた高速バスが、福良に近づくと農家の長屋門が点在し、裕福な農村風景が思い浮かびます。道の駅「福良」に11時着、P10000141
昼食まで車窓から見えた福良図書館に立ち寄る。近代的な素晴らしい図書館で、郷
土資料の本棚は鎖錠され、閲覧は申し込み制で資料の貴重品扱いが知れる。
  13時に福良公民館で太田氏にお会いして、彼のマイカーに会長の徳田壽春氏と
委員の冨永博雄氏ご同道で、ご案内いただいた。       (右写真、居神明神社本殿)
  先ず、最大の目的・居神明神社に向かわれた。出発後5分程で農道脇に駐車、徒
歩で明神社に向かう。山裾の藪際を3・4分程で明神社に着く。古びて半ば放置され
たような拝殿に神社名も説明板等もない。裏に廻ると本殿は渡り廊下で繋がれ、屋根で覆われ大切にされていることが分かる。背後の巨石に注連縄、ご神体である。
前田氏は「思ったより小さくてガッカリした」と、記していたが一辺1.5㍍程か。P10000081
  思った以上に福良中心地から近かったことをお訊ねすると、福良湾は明治
期には塩田が盛んであったが、その後、湾が埋め立てられた。従って、当時
は湾を迂回して来る所で、「向谷」と呼ばれていたが、現在はその面影はなく
直進できるので極めて近くなったと教えられた。    ・ (右写真、櫟神社拝殿)
  次に向ったのが、居神明神社から祭神が平目に乗って移ったと伝えられる「櫟神社」である。大きな石の鳥居が立派だ。拝殿は解放され拝観自由で、鴨居に「丹生津姫命」の画像が飾られ、渡り廊下先の本殿も目の前にある。P10000091
  拝殿・本殿ともに居神明神社と同規模か若干小さく思える。拝殿前の駐車場横に
大きな倉庫があり、「だんじり庫」であるという。    (右写真、丹生津姫命画像と本殿)
  最後に案内されたのが賀集八幡神社である。
  以前は福良町よりも賀集八幡村が大きかったと太田氏は言われる。参道は200㍍ほどであろうか桜並木である。鎌倉鶴岡八幡宮若宮大路の段葛を思わせられる。
  気のせいであろうか、どこも鳥居が大きく目立つ。 
  参道の突き当たりが拝殿で神社には珍しい寄棟造りで、寛永八年(1631)の棟札があり、兵庫県の重要文化財に指定されている。また、徳島城主蜂須賀忠英の信仰篤く、本殿・拝殿・摂末社の再建が言われている。(右写真、賀集八幡神社参道) Igami_kashuuhachiman_jinjya
  拝殿の奥、右に八幡社と左に丹生神社が併設されている。
  かっては、この丹生神社御輿が、居神明神社に巡行していた、とあった。
  丹生神社拝観中、宮司にお会いした。同行の徳田壽春氏が陶芸家でもあり、丹生神社狛犬の補修を依頼されているそうで話が弾んだ。
                        (右下写真、右・八幡社と左・丹生神社)
  この後、太田氏から人形浄瑠璃を勧められ、15時の最終公演に間に合う Igami_kasyuuhatimann_1
よう道の駅「福良」に戻った。流石に本場の人形浄瑠璃、演し物も「傾城阿波
の鳴門・順礼歌の段」で人形は元より語りの素晴らしさを堪能した。
  そして、18時半から老舗旅館の「やぶ萬」で、徳田氏と太田氏に福良学教
室級長で慈眼寺ご住職の南岳利英師と会食、21時半までたっぷり3時間、
郷土史談義に話が尽きなかった。     ・ (右下写真、人形浄瑠璃開演前)
  皆様のお話から源氏と平家では、福良では平家贔屓に思えた、おそらく、P10000071
徳川と豊臣では豊臣贔屓であろう。郷土史を愛好する者、当たり前と言えば
当たり前のことである。兎に角、郷土史を満喫する旅であった。
  なお、懸念された「居神明神社」名が別称であろうとする私見については、
ほぼご了承をいただけた。ところが意外と言って良いのだろう か、日本書紀
の「居神」については、ほとんど関心を示されなかった。みな様、歴史探究に
一家言お持ちのようである。       
  しかし、福良には神社が多い。道の駅から「やぶ萬旅館」に向かう途中、右Igami_yasaka
側200㍍ほどの所に福良八幡神社・福良護国神社・福良八坂神社各々の参道石段が並び、八坂神社斜向かいが「やぶ萬」である。接待さんにお聞きすると、石段を登ると上では一緒になるとのこと。小田原では寺院は並んでいるが、神社が並んでいることはない。所変われば品変わる、である。    
                           (右写真、福良八坂神社参道石段)
  最後に、福良をご案内いただいて「居神」地名を記す交差点や看板等には、
全く出会わなかった。すでに、「居神」地名は死語となっていることを痛感した。

  おわりに
  大部の『日本書紀』に、「居神」を記すのが5箇所とは思った以上に少なかった。少ないがために、「居神神社」名が普及しなかったとも言えよう。改めて、「居神」を神社名としたであろう北條氏綱に敬意を表したい。
  本ブログ3項の「居神姓」と4項の福良の居神明神社と小字名についてはネット情報で、5・6項の多くは「福良学教室」の活動記録資料(DVD)である。改めて「福良学教室」にも敬意を表したい。
  そして、8項の福良訪問では太田様始め、徳田様・冨永様・南岳様には大変お世話になり、有意義で愉しい一時を過ごさせていただきました。心より御礼申し上げます。
  また、現在では福良の小字名「居神」が死語に近いことを痛感しました。全国的にP1000436
明治維新以降、自治体の合併・町名変更等の変遷が激しい。こうした地名の歴史も分
かり易く後世に伝えてゆきたいと願っている。一例として、小田原では「旧・町名碑」を
設け、町名と簡略な由縁を刻銘している。            (右写真、青物町・町名碑)
  冒頭に小田原の居神神社は不思議な神社と記したが、結局、福良の「居神明神社」もいつ頃から言われ始めたのか…。完全解明ができたわけではない。
  小田原の居神明神社は、「為賀美三也宇自武也志呂」(『新編相模国風土記稿』)と濁音読みである。居神姓も、ネット情報の「日本姓氏語源辞典」では、伊神・井上・伊上
・位上・伊賀美等、いずれも「イガミ」の濁音読みを記している。しかし、福良では地名も明神社名も、姓も「いかみ」の清音読みであるという。謎解きテーマの尽きることはない。
  神社名・小字名を含めて「居神」さん命名の確たる由来は判明していない。改めて情報のご指導をいただきたく、お願い申し上げます。
  なお、本ブログは(その24)「福良と小田原の居神明神社名の由来」を要約し、福良訪問記を加筆した改訂版であることをご承知いただきたい。
                                                       郷土士 

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参考文献
  新編相模国風土記稿第二巻   編集校訂・蘆田伊人      雄山閣         S45.9
  「子安地蔵尊由緒書」下書                 居神神社・蔵
  読売新聞夕刊                       読売新聞社       H.30.7
  日本書紀(上)             監訳者・井上光貞       中央公論社           S62.3
  名字由来ネット                           INT            
  日本姓氏語源辞典                          INT
  南淡路の神社                            INT
  福良学教室活動記録        HTMLドキュメント       福良学教室      H28.3
  角川日本地名辞典28兵庫県   日本地名辞典編纂委員会 (株)角川書店     S63.10
  淡路の歴史              大阪淡友会           燈影社         S52.4
  淡路艸             藤井容信・彰民、共著              文政8(1825)
  味地艸             小西友直・錦江、共著              安政4(1857)
  淡路國名所圖會         暁鐘成(晴翁)著、松川半山・浦川公佐、画     M27.
  三原郡神社明細帳                                 M35.
  三原郡史           三原郡史編纂委員会・編   三原郡町村会事務所       S54.3 
  兵庫県神社誌・附録 昭12至15 兵庫県神社会・編        臨川書店                S59.10
  福良むかしむかし          前田勝一・著         前田勝一                  H3.

(その36)検証、居神明神社名の由来
  初  稿 2018. 5.12

郷土士の歴史探究記事
その1 江戸の遊廓「吉原」を開いた庄司甚右衛門の謎  その2 良正院督姫の誤伝を糺す
その3 浄光院お静の生涯と保科正之             その4 日本最古の水道「小田原早川上水」
その5 北條氏康室・瑞渓院と今川氏真室・早川殿     その6 『明良帯録』を書いた山形彦左衛門
その7 北條氏政室・黄梅院と武田勝頼継室・桂林院    その8 贈答品・進上品等にみる北條家の文化財
その9 北條家と世田谷吉良家(付、崎姫と香沼姫)     その10 北條五代を支えた女性たち(改訂)
その11 北条五代を支えた男性たち               その12 西国で存続した北條氏と伊勢氏
その13 早雲庵宗瑞の小田原入城、その秋は明応9年    その14 三浦義意を祀った北條氏綱と居神明神社
その15 幻の大森氏小田原城と大森時代の小田原宿    その16 北條氏綱と居神神社の「勝って兜」碑
その17 北條氏綱の小田原城と小田原の町づくり      その18 北條氏綱の三嶋大社と鶴岡八幡宮再造営
その19 小田原北條家と浅草寺の再興             その20 北條二代氏綱の江戸制覇と弁財天の勧請
その21 宗瑞継室狩野氏女と氏綱正室横江氏女の出自  その22 伊勢弥次郎(早雲庵宗瑞・弟)の生涯
その23 虎朱印「禄壽応穏」と北條氏の印判          その24 福良と小田原の居神明神社名の由来
その25 下堀方形居館跡の謎                  その26 北條幻庵宗哲の生涯
その27 北條氏の花押と家紋                   その28 歴博の中世文書展と小田原開府五百年?
その29 新編・早雲庵宗瑞の生涯               その30 北條氏綱、「贈従三位」を叙位される
その31 「初見虎の印判状」発給者と氏綱の家督継承    その32 大久保忠眞の「贈従三位」叙位
その33 九嶋から北條姓を許された玉縄北條綱成家    その34 玉縄甘糟氏は、北條氏家臣か ?
その35 居神明神社と三浦氏関係の新史料         その36 検証、居神明神社名の由来
その37 北條家の縁、徳川家康の側室たち          その38 高潔の武将・北條氏照と室・大石比佐
その39 もう一人の伊勢宗瑞・弟?             その40 北條五代「去る者は追わず、来る者は拒まず」
その41 能楽・宝生流家元の小田原来住            その42 「戦記物」の虚構と史実 
その43 崎姫と香沼姫、そして山木大方            その44 新説・まぼろしの崎姫




                                        




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