郷土士の歴史探究記事 その44
新説・まぼろしの崎姫
前ブログ(その43)4項で「崎姫」は山木大方ではなく、「蒔田殿」であろうことを吉良頼康・室の文献等から示唆しながら、確定史料は見えないことも記し、訝しく思いつゝまとめていました。
従って、その後も資料の探求を続け、勝光院(曹洞宗、世田谷区桜一丁目)の「薬師佛縁起」を探していました。偶々、ネット検索で『せたかい第六0号』収載「薬師佛縁起について」を知りました。
早速、世田谷郷土資料館で閲覧しましたが、原文のみで解説はありません。長文の上、難解で穂積隆彦と斎藤月岑が「偽作」・「拙文」とまで酷評して本文を割愛した(前ブログ4項)ことも理解できました。原文を読むことによって、崎姫が創作上の人名と分かり前ブログで記した「崎姫は蒔田殿」の間違いも判明します。
前ブログ4項の訂正も考えましたが、間違いは間違いとして本ブログで訂正させて
いただきます。従って一部、前ブログを参照する記述を御容赦ください。
1、『薬師佛縁起』の「崎姫」は、まぼろし
2、史料が記す「蒔田殿」
3、高源院は山木大方か、蒔田殿か?
(写真・図版は、クリックすると拡大します)
1、『薬師佛縁起』の「崎姫」は、まぼろし
文化九年(1812)十二月五日、世田谷吉良家菩提寺勝光院で、「薬師如来像」(現存しない)を実見した穂積隆彦が、自著『世田谷
私記』で「愛縁仏の縁起」として記した見解を右に示した。
氏綱娘を崎姫と称しての吉良頼康との結婚が、天文六年(1537)春の尊像崇信から20年後の永禄元年(1558)などを理由に、「偽作したること分かるへし」と、「縁起は偽作」と断じている。
後段の「小田原家臣宗哲云々」は、吉良氏朝に嫁いだ宗哲娘の
鶴松院が、嫁入りの際に持参した『幻庵覚書』を、崎姫が持参した
と間違えている。
また、斎藤月岑も天保七年(1836)刊の自著『江戸名所図会』で、同じ「薬師佛」を「愛縁薬師如来」と題して論評している。
その解読文を右下に示した。
崎君(崎姫)を氏康息女として、「天文六年の春、此尊像の霊示により永禄元年に
吉良頼康卿の室」とあるが、「拙文ことに疑ふへき事少からす」として、縁起本文は
記さず、崎君は氏綱息女と訂正している。
ほぼ、『世田谷私記』と同様の見解である。
穂積隆彦と斎藤月岑の見解は正しいが、2項史料の頼康・室は「蒔田殿」とある。
両者ともに偽作と拙文に、「薬師佛縁起」を記す気持は失せたのであろう割愛して
いる。ただ、縁起話を真正面から論じたことは、どう評価したら良いのだろうか?
なお、崎姫父の氏綱と兄氏康の混同は、後述の資料にも度々見える。
この両書の記述から、前ブログでは訝しく思いつゝ「崎姫」を「蒔田殿」と記しながら、「薬師佛縁起」を確かめたく探し続けていたところ、原文に出会った。
江戸時代初期の成立であろう吉良家菩提寺勝光院『薬師佛縁起』は、世田谷城主吉良頼康に嫁いだ氏綱息女を「崎姫」と記している。「崎姫」の初見資料と言えるが、長文でいささか難解(拙文との論評がある)のため関係箇所に絞って要約して記す。
勝光院の山門に立つ愛縁の薬師如来ハ、運慶の作にして小田原北条氏康(氏綱の誤記)卿の御息女
崎姫君御信心の霊像なり。然に天文六年の春頃、彼姫君に夢のお告げがあり、東の方を拝して愛鳥
白鷺の足に一首の歌を付けて離した。その頃、世田谷御所吉良頼康が奥沢(世田谷区奥沢)に御狩に
出ていると、一羽の白鷺が飛び来たり、近習が白鷺の足に付いていた紙を頼康卿に手渡した。その紙に
は「賤の身のことのつまねの糸たてゝ うきねの床に立やしらさき」の和歌が認めれられていた。頼康卿
が不思議に思っていると、傍らにいた白鷺は亡くなっていた。卿はその場所に白鷺を手篤く葬らせた。
翌年からその場所に珍しい草が生え、白色の花が咲くとその形は白鷺に似ていた。このことを近習から
聞いた頼康卿は、奥沢でこの花を実見して「さき草」と名付けた。後日、このことを氏康(氏綱)卿が頼康
卿から聞かされ、崎姫と頼康卿の縁談がまとまった。嫁入りの際、御化粧免(持参金)として武州久良岐
郡蒔田近在三千石が世田谷御所に入りました。 (「勝光院薬師佛縁起について」収載原文要約)
こうした鷺草に関する伝説的話は、『江戸砂子拾遺』や『名残常盤記』の他にも記され、鷺草は「世田谷区の花」に制定されている。なかでも『名残常盤記』がよく知られている。
両書2編と、「薬師佛縁起」の成立年は判明していない。いずれも伝説的創作話である。
この薬師佛縁起の「しらさき(白鷺)」から、「さき姫」と名付けたのでは…が一瞬、私の頭を過ぎった。鷺は仮名書きすると濁点は付けず「さき」と書くことから、「崎」の字を当てたのが「崎姫の誕生」であろう。
世田谷勝光院愛縁の薬師如来を、小田原の幼女(氏綱娘)が何故知り得て信仰したのか、余りに現実離れした話である。こうした矛盾を含めて穂積隆彦と斎藤月岑は、この薬師佛縁起を「偽作・拙文」と酷評したのであろう。しかし、彼らの論評では「崎姫=吉良頼康・室」までもが偽作とは私は気付かなかった。原文を読んで始めて「崎姫」そのものも偽作であると知った。
以上、こうした「崎姫と蒔田殿の呼称」を記す
資・史料を右表にまとめた。
「崎姫」を記すのは、①~⑤の5件である。
①②⑤は既述した。③④の詳細は後述するが、③『石井家本吉良系図』は「室ハ北条氏綱娘サキ姫ト云、世ニ蒔田御前ト称ス」とある。
このサキ姫は「薬師佛縁起」からであろう。「蒔田御前」の詳細は2項で詳述する。
④「幻庵覚書修補奥書」には、「高源院殿(崎姫君御方)世田谷へ御入輿之時」とあり、高源院を「崎姫君」と記している。「高源院」については3項で詳述するが、この崎姫君も「薬師佛縁起」からであろう。
確かに「吉良頼康と崎姫結婚」の永禄元年は、前ブログ(その43)1項②水口文書で、三月二十一日時点で山木大方の小田原在住が確認でき、その後も山木大方は山木または小田原に居住していた。従って、この崎君は山木大方ではない。山木大方と崎姫の関係がないことはご理解いただけよう。
以上、「崎姫」を記したのは①「薬師佛縁起」と、③「石井家本吉良系図」に、④「幻庵覚書修補奥書」である。③④2書の筆者は後述するが世田谷の関係者(住人か)で、崎姫は①「薬師佛縁起」によるものであろう。
とすると、「崎姫」の名前は伝説的作り話による「さき草」から名付けられた可能性は否定できず、寧ろ可能性は高く架空の人名であり、「まぼろしの崎姫」と言えよう。
なお世田谷吉良家については本ブログ(その9)で詳述しているが、『系図纂要』によれば足利家の嫡男左馬頭義氏の子義継が、三河国吉良荘に住して始めて吉良氏を称した。これが西条吉良氏で、東條吉良氏の祖でもある。因みに、吉良上野介は西条吉良である。
東條・西條とは吉良荘の中央に矢作川が流れ、東岸・西岸の吉良家を分けて称したことによる。
そして、四代貞家が奥州探題を命ぜられ、奥州吉良と呼ばれる。その後、世田谷の地を与えられてから、武藏吉良または世田谷吉良と称せられたが、同書系譜では誰の時代に世田谷を領したかは諸説がある。
『世田谷私記』(穂積隆彦・編、文化九年以降の成立)は、東条吉良六代治家が「足利持氏に従ひ世田谷郷を賜はり始めて茲に住む」と記し、一説に「十一代成高(頼康の父)が世田谷及び武州久良岐郡蒔田(横浜市南区蒔田町)を領す」ともある。世田谷吉良氏は主に世田谷と蒔田を所領としていた。
前記『薬師佛縁起』が記す「蒔田付近三千石の持参金」も、穂積隆彦のいう「偽作」が正しいのであろう。
その後、小田原合戦で篠曲輪を守備した氏朝と嫡子頼久は、小田原開城後直ちに徳川家康に拝謁して上総国長柄郡寺崎村(千葉県長生郡睦沢町寺崎)に 1,125石を与えられ、世田谷は上地(あげち、幕府に召し上げられた土地)となるが、頼久は旗本に登用、母鶴松院と共に移居している。氏朝は世田谷に戻り勝光院末寺の鶴松山実相院(曹洞宗、世田谷区弦巻)で閑居(世田谷私記)とあるが、吉良屋敷実相院門前が家康より拝領した隠居所(大蔵世田谷喜多見旧事考)ともあり、氏朝は慶長八年(1603)九月六日に他界している。
後室鶴松院は、慶長十一年六月十七日卒。『新編武藏国風土記稿』に「今境内ニ氏朝夫婦ノ碑アリ、氏朝ノ碑面ニハ実相院殿四位下學翁玄參大居士、慶長八年九月六日ト刻シ、夫人ノ碑ハ鶴松院殿快窓壽慶大姉トアリ」と記しているが、二人の墓は現存しない。寺院名は二人の法名であり、開基は頼久とされているが実際は氏勝とも言われている。嫡子・頼久は家康の命により、吉良姓は西條吉良の一家のみとされ「蒔田」を名乗り、慶長十四年(1609)三月二十七日に享年42歳で他界している(横浜市史稿)。
宝永七年(1710)世田谷吉良家十七代蒔田義俊の時、赤穂事件により西条吉良家が断絶、蒔田家が実に百余年振りに再び吉良姓を許され、江戸時代を継続して明治維新を迎えている。
2、史料が記す「蒔田殿」
前掲の表⑥泉澤寺(浄土宗、川崎市中原区上小田中、吉良成高開基)の『阿弥陀仏像札銘』(世田谷区史料第二集)は、北條氏綱の息女(名前不記)が吉良頼康に嫁いだことを記す初見史料で、解読文を右に示した。
同文書に「源朝臣頼貞妻平氏女」とある。頼貞は後の吉良頼康で妻は平氏、つまり北條氏(氏綱、天文十年死去)の娘と記している。
文書の損傷が酷く断片的であるが、「…頼康・同嫡男太郎・次男次郎・三男辰房…」が読み取れる。記銘年月は天文十七年(1538)五月で、「施主・沙弥弁誉存隆」とあるが文書の筆者でもあろう。
沙弥は、僧侶になる前の修行中の男子をいう。(広辞苑)
⑦戦記物の『北條記』巻第三「公方御他界之事付御台所御歌之事」は、「マイ田殿(セタカイノ御所)吉良殿ノ御前」と、後述に氏康息女を記しているが、
これは幻庵宗哲息女が氏康養女として吉良氏朝に嫁いだ鶴松院のことである。
このように、崎姫と吉良頼康室と、氏朝室との混同も少なからず見える。
後述するが山木大方との混同も見え、世田谷区や横浜市は「山木大方の頼
康室説は、蒔田殿と混同されている」として完全否定されているが、インターネッ
トや小田原では、山木大方の再婚説までが言われている。
⑧寛永期(1624~1643)成立の『寛永諸家系図傳』は「蒔田御所室」、⑨寛政期(1789~1800)の『寛政重修諸家譜』は「吉良頼康室」、⑩文化九年(1812)間宮士信・著の『小田原編年録』には「吉良頼庸室・蒔田殿」、そして刊行は明治期であるが、⑫塙保己一の『続群書類従系図部』収載の「北條氏系図」にも「蒔田御所室」が、いずれも氏綱息女を記し、「崎姫」とは言っていない。
以上、史料は吉良頼康室は「蒔田殿」で、「崎姫」は称していない。
改めて、前ブログで蒔田殿に崎姫が嫌われていた(史料に見えなかった)ことが分かった。「崎姫」は、伝説的作り話の『薬師佛縁起』から生まれた架
空の人名だったのである。 (右図版、堀越・北條・吉良三家縁戚略系図)
1項で、鷺草の伝説話3編他と記したが、『名残常盤記』が圧倒的に愛読
され世田谷には常盤橋や常盤塚に、常盤地名も生まれている。
おそらく、文政期までは「崎姫」は知られることはなかったであろう。
それが穂積隆彦と斎藤月岑によって、『薬師佛縁起』は酷評はされたが、
「崎姫」の名は一人歩きを始めたのである。時を同じくして、大蔵村(世田谷
大蔵)名主家に生まれた石井至穀作成の「吉良系図」に「崎姫」が記され、
世田谷吉良家二十代当主義房によって『幻庵覚書』に、「修補奥書」として
「高源院崎姫」が加筆されたのである。このことが結果として、それまで殆ど知られていなかった作り話の「まぼろしの崎姫」は、文政期に至って世田谷
関係者が実在の「頼康室」としたことで、明治以降の歴史学者たちによって、「山木大方や蒔田殿の別称」と言われているのが現状である。
因みに、右に示す寛政十一年(1799)の『寛政呈書国字分名集』によると、吉良式部義房の役職は「表高家」で、屋敷は浜町蛎殻町(日本橋蛎穀町)で、添屋敷が本所林町(墨田区本所)に、下屋敷が武州荏原郡世田谷とある。吉良家の世田谷屋敷は、小田原合戦後は上地となっていたが、義房の時代には下屋敷があった。おそらく、十七代義俊が吉良姓を許された際に高家となり、世田谷に下屋敷
も許されたのであろう。義房も世田谷の住人とも言えよう。
そして、石井至穀と間宮士信(ことのぶ)の経歴を右表にまとめた。生年は1歳違いで活動時期が一致する。
至穀は国学者・文人とも言われるが、昌平坂学問所(昌平黌)勤番で、74歳で書物奉行を務めた役人である。
その学問所内に設置された地誌取調所に出仕した間宮は学者で、文化七年から天保元年(1810~30)の『武蔵風土記』編纂に加わり、引き続き天保元年から同十二年(1830~41)の『相模風土記』編纂の際には総裁に就任しており、現在の編集長に相当する立場であった。
また間宮は、小田原合戦で山中城を守備して戦死した間宮康俊・弟の北條氏照家臣・間宮綱信の子孫で、北條氏に厚恩を感じて文化九年(1812)に、『小田原編年録』を著わしたという。
因みに、至穀が晩年に就任した書物奉行とは、江戸城内紅葉山文庫の管理者で、通常4・5名で図書の収集・分類・保存等を職務とした。いずれにしても、至穀と間宮の職務上の面識は考えられる。その至穀が「崎姫」を記しているが、間宮は『小田原編年録』で「吉良頼庸室・蒔田殿」を記すが、「崎姫」の記述はない。
その「崎姫」を至穀が、「高源院=蒔田殿」と記していることを次項で述べる。
3、高源院は山木大方か、蒔田殿か?
前掲表では、⑪天保十二年(1841)成立の『新編相模国風土記稿』のみ、山木大方
が「高源院殿」を称している。山木大方については前ブログで詳述したが、③「石井家
本吉良系図」と 、④「幻庵覚書修補奥書」に高源院が蒔田殿とあったのは、どういう
ことであろうか? 次の難問が、この「高源院」である。
先ず『韮山町史』が、山木大方没年を天正十四年八月二十四日と記す発端となっ
た『江戸淨仙・呂顕連署奉書』(世田谷区史料第二集)を右に示した。
『世田谷区史料』の解説は高源寺は高源院の誤記で、「吉良頼康夫人の高源院殿長流泉公大姉(筆者の推定)」の申出によって、寶生寺(真言宗、横浜市南区堀内町)
門前の住民らに、塩場その他一切の公事を免除すると通達したもので、高源院が女
性であるため吉良氏家臣の江戸淨仙と景福軒呂顕が代わって発給したという。
しかし、文書発給年の天文十一年(1542)は、山木大方(崎姫と仮定して)は堀越
六郎に嫁いで嫡子頼貞(後、氏朝)が生まれた年で、法名・高源院を称していたとは
思えない。山木大方が文書で領地差配を行っていたことは前ブログで記している。
また、同日付けの寶生寺宛『北條家寺領寄進状』(戦国遺文)を右に示した。
「好玄寺」とある。前文書の高源寺とこの好玄寺ともに現存せず、どちらが正しいかは判明しないが、高源院(山木大方)ではないことは明かである。
そして、驚かされたのが右下に示す③「石井家本吉良系図」の吉良頼康の記述で、「室ハ北条氏綱娘サキ姫ト云、世ニ蒔田御前ト称ス、是ハ天正十四戌年八月廿四
日卒、高源院殿長流泉公大姉」とある。法名が、高源院から大姉まで10文字すべ
てが山木大方と蒔田殿が全く同じとは思えない。この記述を荻野三七彦は山木大方の没年とし、多くの学者先生方は山木大方=崎姫を言われているのであろう。
この「石井家本吉良系図」とは、『続世田谷徴古録』に収載(蒔田の吉良氏)され、
幕府の御書物奉行を務めた石井至穀(安政六年(1859)82歳で死去)の著作(吉良
氏の研究)で、文政元年(1818)以降の成立(蒔田の吉良氏)という。
この没年と法名は、何から記したのであろうか?
さらに驚かされたのが、④『幻庵覚書』の文政六年(1823)九月十六日付「修補奥書」(『蒔田の吉良氏』収載)で右に示した。
冒頭に「此一巻ハ高源院殿(崎姫君御方)」とある。高源院殿を崎姫と記している
ことは既述したが、「此一巻」は前記吉良系図の「文章一巻」や、幻庵宗哲の記述などが良く似ている。筆者「源義房」とは、前掲「略系図」の二十代吉良義房で、北條氏照に清水正次や笠原秀範など北條家を良く調べているが、崎姫と高源院を同一人物
としたことは、『薬師佛縁起』に惑わされたのであろうか?
私の調査で「高源院殿」法名を記すのは、文政元年以降成立の『続世田谷徴古録』収載「石井家本吉良系図」か、この文政六年の『幻庵覚書修補奥書』が初見であろう。他には前述した天保十二年(1841)成立の『風土記稿』の3件である。
因みに天保元年(1830)成立の『新篇武蔵風土記稿』は、「勝光院」の記述に吉良頼康は記しているが、蒔田殿も崎姫も高源院の記述もない。
「石井家本吉良系図」と『幻庵覚書修補奥書』は、「高源院殿」法名を何から知ったのであろうか? また、高源院没年月日も、何から知ったのであろうか?
石井至穀は、学問所勤番中の文政期に「室はサキ姫で蒔田御前と云い、天正十四戌年八月廿四日卒、高源院殿長流泉公大姉」を記しながら、地誌取調所の間宮士信らに報告していなかったのであろうか? 知らせていれば『相模風土記』に記された筈… それとも、地誌取調所では問題にされなかったのであろうか?
あるいは、「吉良系図」「修補奥書」両書は、当時は公表されなかったのであろうか?
両書が記す法名は「高源院=蒔田殿」の史料が見えないだけに、「高源院=山木大方」が正しい。「高源院」名の寺院が伊豆に建立され、後、小田原に再建(現・小田原少年院跡地)され、山木大方がそこで他界したであろうことは前ブログ(その43)1項で記している。
「石井家本吉良系図」と『幻庵覚書修補奥書』は、「薬師佛縁起」から「崎姫」を記し、山木大方との法名が混同している。現に「石井家本吉良系図」の没年月日は、「蒔田御前」
とある。しかし学者先生方は山木大方の没年として、蒔田殿の没年と法名は不明とされている。蒔田殿の法名は高源院ではなく、山木大方の没年も別ではないだろうか?
『相模風土記稿』の高源院「慶長十七年六月
十四日逝す」は、「天正十四年六月十四日」の誤植ではないだろうか?
以上、確定していることを右表に整理した。
現在、『韮山町史』を始め学者先生方は「石井家本吉良系図」から、山木大方没年を「天正十四年八月二十四日」とされているが、同没年月日の出典は不明である。山木大方の没年と断定することは控えたい。
おわりに
平成26年刊行の『蒔田の吉良氏』が、私の直感と同じようなことを記しています。
(前略)吉良頼康の妻と吉良氏朝の妻・鶴松院、その義母の高源院、吉良家をめぐ
る三人の女性は、それぞれ「崎姫」の名前を冠されて、伝説や物語のなかで渾然
一体となって伝わってきたようです。(中略)
実体のわからない北条の姫君・崎姫は、あるいは世田谷の鷺草にまつわる物語
のなかから名付けられているのかもしれません。(後略) (蒔田の吉良氏)
「渾然一体」は、伝説や物語の中から歴史上にも及ぼされているのが実情で、現状で
もあります。そして「鷺草にまつわる崎姫」が、私と同感です。
さらに、『まぼろしのさき姫』(岩崎京子・著、昭和53年・刊)にも出会いました。
当初、崎姫は「まぼろし」ではない!と、批判する論考になろうかと考えていましたが、
まさに崎姫は「まぼろし」(架空の人名)でした。同書は「児童文学創作シリーズ」と銘打
たれていますが、大人にも十分読み応えのある名著です。
残念ながら絶版で購入は叶わず、神奈川県立図書館から借用して読ませて頂きました。是非、皆さまにもご一読をお勧めしたいと思います。
本ブログのタイトルを、「新説・まぼろしの崎姫」とさせていただきました。
とは言え、北條家の女性で最も親しまれている崎姫を否定することになり、忸怩たる思いです。史実は史実としてのご理解を伏してお願い申し上げます。それにしても、偽作・拙文から誕生した崎姫に、限りなくロマンを感じさせられているのは何故(なにゆえ)でしょうか…
郷土士
※末尾のコメント欄は、非公開とさせていただいています。ご感想・ご意見などいただければ嬉しいです。
なお、ご許可いただければ、その時点で公開とさせていただきます。
参考文献
吉良氏の研究 荻野三七彦 名著出版 S50.
世田谷区史料第二集 東京都世田谷区 S34.3
勝光院文化財綜合調査報告 世田谷区立郷土資料館 S45.9
せたかい第六0号収載「勝光院薬師佛縁起について」 下山照夫 世田谷区誌研究会 H21.7
江戸幕府旗本人名事典第1巻(寛政呈書国字分名集・収載)
監修・石井良助/編著者・小川恭一 原書房 H元.6
戦国遺文「後北条氏編」第一巻 杉山博・下山治久/編 ㈱東京堂出版 H元.9
蒔田の吉良氏 編集・横浜市歴史博物館 公益財団法人横浜市ふるさと歴史財団 H26.7
まぼろしのさき姫 岩崎京子/絵・田代三善 ㈱講談社 S.53.11
(その44)新説・まぼろしの崎姫
初 稿 2019.10.21
更新1 2019.11.10 3項、北條家寺領寄進状写(堀之内村並木氏文書)追記
郷土士の歴史探究記事
その1 江戸の遊廓「吉原」7を開いた庄司甚右衛門の謎 その2 良正院督姫の誤伝を糺す
その3 浄光院お静の生涯と保科正之 その4 日本最古の水道「小田原早川上水」
その5 北條氏康室・瑞渓院と今川氏真室・早川殿 その6 『明良帯録』を書いた山形彦左衛門
その7 北條氏政室・黄梅院と武田勝頼継室・桂林院 その8 贈答品・進上品等にみる北條家の文化財
その9 北條家と世田谷吉良家(付、崎姫と香沼姫) その10 北條五代を支えた女性たち(改訂)
その11 北条五代を支えた男性たち その12 西国で存続した北條氏と伊勢氏
その13 早雲庵宗瑞の小田原入城、その秋は明応9年 その14 三浦義意を祀った北條氏綱と居神明神社
その15 幻の大森氏小田原城と大森時代の小田原宿 その16 北條氏綱と居神神社の「勝って兜」碑
その17 北條氏綱の小田原城と小田原の町づくり その18 北條氏綱の三嶋大社と鶴岡八幡宮再造営
その19 小田原北條家と浅草寺の再興 その20 北條二代氏綱の江戸制覇と弁財天の勧請
その21 宗瑞継室狩野氏女と氏綱正室横江氏女の出自 その22 伊勢弥次郎(早雲庵宗瑞・弟)の生涯
その23 虎朱印「禄壽応穏」と北條氏の印判 その24 福良と小田原の居神明神社名の由来
その25 下堀方形居館跡の謎 その26 北條幻庵宗哲の生涯
その27 北條氏の花押と家紋 その28 歴博の中世文書展と小田原開府五百年?
その29 新編・早雲庵宗瑞の生涯 その30 北條氏綱、「贈従三位」を叙位される
その31 「初見虎の印判状」発給者と氏綱の家督継承 その32 大久保忠眞の「贈従三位」叙位
その33 九嶋から北條姓を許された玉縄北條綱成家 その34 玉縄甘糟氏は、北條氏家臣か ?
その35 居神明神社と三浦氏関係の新史料 その36 検証、居神明神社名の由来
その37 北條家の縁、徳川家康の側室たち その38 高潔の武将・北條氏照と室・大石比佐
その39 もう一人の伊勢宗瑞・弟? その40 北條五代「去る者は追わず、来る者は拒まず」
その41 能楽・宝生流家元の小田原来住 その42 「戦記物」の虚構と史実
その43 崎姫と香沼姫、そして山木大方 その44 新説・まぼろしの崎姫











































































































































