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2017年11月27日 (月)

郷土士の歴史探究記事 その14

                 敵将三浦義意を祀った居神明神社と北條氏綱

  永正十三年(1516)、伊勢宗瑞・氏綱父子と三浦義同(よしあつ)・義意(よしおき)父子との戦いは、戦記物に新井城自刃が記されているが、『建芳書状写』から「三崎城自刃」に改められ、新井城の存在も疑問視されている。
  また、北條氏の侵略戦争とも思われていたが、前ブログ(その13)で記した大森氏小田原城攻めと関連した足利幕府承認の合戦とも考えられている。
  大森氏と三浦氏は基本的には扇谷上杉氏家臣で、縁戚関係にあったことは本文2項で述べる。
  そして、小田原の三大神社の一つ居神神社(旧・居神明神社。小田原市城山)の祭神は、敵将であった三浦義意を祀っている。領主(北條氏)が、自領に敵将(三浦義意)を祀るのは極めて珍しい。
  上野の西郷(隆盛)さん同様、義意が敵味方なく慕われていたからであろうか…
  平成28年5月、居神明神社の創建が永正十七年(1520)と判明したことから、本ブログをまとめた。

   1、北條氏と三浦氏Igami_1
   2、居神明神社の創建と北條氏綱
   3、何故、三浦義意を祀ったのか?  
   4、三浦家墓所を訪ねる          (右写真、居神神社拝殿)
   5、飛翔説と手向け歌      (写真・図版はクリックすると拡大)
   6、諸書「戦記物」の記述     
   7、発見!飛翔説                       
  
  1、北條氏と三浦氏
  伊勢宗瑞(後、早雲庵宗瑞)が三浦氏を知るのは明応二年(1493)九月、扇谷上杉定正に味方し、相模・武蔵で関東管領山内上杉顕定と戦った頃からであろう。当時、三浦氏も扇谷上杉氏に属していたと思われる。
  翌三年九月二十三日、総世寺(曹洞宗、小田原市久野)で蟄居中の三浦道寸(義同)が、新井城(三崎要害カ)で養父時高を討っている。この時、宗瑞の道寸支援が推定されている。その5日後の同月二十八日、宗瑞は武蔵久米川(東村山市)に出陣し、扇谷上杉定正と対面している。
  そして、注目されるのが明応五年(1496)と推定される七月二十四日付の長尾能景(越後守護代)宛、『山内上杉顕定書状写』である。(小田原市史史料編Ⅰ308)
  山内上杉方(長尾景春ら)軍勢が、扇谷上杉方が守る小田原要害に攻Img_20190319_0001_3
め入った時の記述である。
 
   (前略)将又於相州同名(長尾)左衛門入道(長尾景春)向取立陣城
   対陣、既去四日差寄処、右衛門尉(長尾、扇谷上杉氏家臣)其外打
   出遂一戦、得勝利、為始伊勢弥次郎(宗瑞弟)宗者数多討捕、験到
   来本意候、如斯之上、大森式部少輔(定頼カ、藤頼甥)・刑部大輔
   (扇谷上杉朝昌、定昌弟)・三浦道寸(義同)・太田六郎右衛門尉
   (康資、道灌嫡子)・上田名字中并伊勢新九郎入道弟弥次郎要害自
   落、西郡一変、至于東郡進陣、上田左衛門尉(正忠、相模守護代)
   要害実田進陣処、治部少輔(扇谷上杉朝良)打越候(後略)
                       (小田原市史史料編Ⅰ)

  ここに「伊勢弥次郎ら数多(あまた)討捕」とあるが、『勝山記』も同じ明応五年の條で「此年、伊勢入道ノヲトヽ(弟)弥二郎、七月、ラウトウ(郎党)太敷共ニ打死」と、弥次郎の戦死を記している。しかし、『大見三人衆由来書』が翌年の存命を記し、近年重傷ではあったが死は免れ、大永二年(1522)七月没の史料も発見され、本ブログ(その22)で記している。
  そして、小田原要害を守る大森氏・三浦氏・太田氏は、いずれも扇谷上杉氏家臣と言われ、上に示す略系図で縁戚関係にあることも分かる。
  特に筆頭の大森氏に、宗瑞弟弥次郎が明応五年に要害(小田原城カ)に同在していることから、戦記物に記された北條氏による大森氏滅亡の明応三・四年説が完全否定された画期的な文書である。
  このように、北條氏と大森氏・三浦氏は、明応五年までは同盟していたことが分かっている。
  それが経緯は不明だが、明応九年に大森氏が小田原で消滅し、三浦氏も永正九年から北條氏と戦うことになっている。その背景は複雑な山内・扇谷両上杉の介在があることは間違いないであろう。
                                                                                    
  2、居神明神社の創建と北條氏綱
  居神明神社は、敵将三浦義意の首が三浦新井城から飛翔してきたことから義意を祀り、同明神社が創建されたという(小田原北條盛衰記)ことを同神社説明板に書かれていたが、物語本の創作であり横須賀市民からの投書(私たち先祖の殿さまは化け物ではない)もあり、同説明板は撤去された。
  この合戦は、永正九年(1512)八月に岡崎城(平塚市岡崎)を追われた三浦道寸(義同)が、嫡子義意が守る新井城(?)に逃げると、宗瑞は初めて鎌倉に入り、その荒廃している様子を嘆き、復興を願って和歌を詠んでいる。
   枯るゝ樹に また花の木を植えそえて もとの都に成してこそ見め
  そして十月には玉縄城を築き(小田原市史年表)、翌十年四月に三崎要害を攻めたのが三浦合戦の始まりである。(神奈川県史)
  その後、物語本は永正十五年に新井(?)落城を記しているが、次に示す『建芳書状写』(秋田県公文書館・蔵)が、2年前の同十三年七月、三浦父子は「三崎城で自刃」を記している。

   雖不断御床敷候、云遠路不自由之間、節々不令啓候、其方事、色々其聞候、雖然逐日御本意之様
   候歟、大慶候、御檀方へ別而雖可令啓候、不図之便宜候之間、無其儀候、可然様御伝聞所仰候、
   去年七月三崎落居、道寸父子於城中討死、定痛敷可思召候、然者於当国、対早雲庵可遂一戦覚
   悟候処、一向其以後敵不打出候、此春中相州調義相催候、彼僧其方暫可令堪忍分候、折々者被
   副御詞候者、可為祝着候、恐々敬白(後略)
    (永正十四年)三月三日           建芳〔花押〕
            普門寺侍司                                                   (小田原市史史料編)

  建芳(扇谷上杉朝良)が、普門寺(用林顕材)に永正十四年三月に宛てた手紙である。
  「去年七月三崎落居、道寸父子於城中討死」とあり、永正十三年七月に三崎城で道寸父子討死が史実として改められている。
  そして前ブログで、文書史料は北條氏以前は「○○要害」、北條時代から「○○城」が用いられていることを説明した。ただ、「新井城(要害)」は、文書史料には見えないのである。こうしたことから、三浦氏研究者は「三崎城(新井城)」と表記している。しかし、これでは「三崎城=新井城」になってしまう。
  地元の人は、三崎城の中に新井城があったのではないか、との見解も示されたが、どうであろうか。
  平成28年5月、『新横須賀市史』が居神明神社は永正十七年(1520)に創建された、と記していることに気づいた。出典は、内閣文庫所蔵の『異本塔寺長帳』(以下、『長帳』と略す)と知り、国立公文書館で閲覧してきた。同書は『会津坂下町史三歴史編』にも収載され、年表的に記され分かり易い。
  居神明神社創建に関係する伊勢宗瑞と、三浦道寸父子関係の記述を抜粋して示す。

   永正   九年壬申、三浦時高子陸奥守義同入道道寸ト北條氏茂入道宗雲ト於岡崎合戦陥城
      同  十三年丙子、北條宗雲并氏綱三浦道寸ヲ攻(七月十四日ニ荒井城落ト云誤也、道寸父子討死
                                ハ十五年戊寅也)
      同  十五年戊寅、七月十一日(三浦道寸并荒次郎義基、北條宗雲攻荒井城 岡崎也)陥城、父子
                                討死
      同  十六年己卯、北條宗雲(三浦三崎舟遊興七月二日也、自是煩也)八月十五日(八十八歳死、
                                号宗雲寺殿傳覚随大居士、葬湯本也)
      同  十七年庚辰、三浦荒次郎義基首ヲ於小田原威神明神ニ祭ル          (異本塔寺長帳)

  永正九年(1512)に伊勢宗瑞(北條氏茂入道宗雲とある)の岡崎城(平塚市岡崎)攻略は史実と一致する。面白いのが同十三年(正しい、4項で詳述)に新井(荒井とある、三浦市三崎町小網代)落城を記しながら、「誤り」として同十五年に改めている。
  これは「北條記」等の戦記物が、殆ど全て同十五年を記していたからであろう。
  史実を記しながら江戸時代初期の物語本に惑わされているが、十三年を抹消しなかったことに敬意を表したい。ただ、この記述も江戸時代であろう「荒井城」を記している。
  なお、この合戦に後述の略系図に示した大森実頼(藤頼カ、後述)が戦死、太田資康は援軍に向かう途中討死したとの説もあるが、史実からは疑問視されている。
  また、宗瑞が三浦三崎で同十六年七月二日の舟遊び中に発病して八月十五Ikamizinnzyaohuda_1
日に他界(享年88歳は誤説で、64歳であることは後述する)は史実に一致する。
  そして、三浦義意(「よしもと」とも)を義基と記し、同十七年に威神(居神)明神
社に祀ったとある。この「威神」も必ずしも誤記(当字)とは言い難い(義意を形容
したカ)ところも面白い。               ・   (右写真、居神神社の御神札)
  全体的に当字(?)が目立つが、創建年(初見である)以外は史実に符合する。
  居神明神社の祭典が、この翌年の大永元年(1521)に始まったことを,『新編相
模国風土記稿』(以下、『風土記稿』と略す)が記していることからも肯ける。
  しかも、その祭典の神輿巡行は、小田原城馬出門で同明神社宮司の祈祷を
記している。居神明神社創建に、二代氏綱の強力な支援が窺える。

  3、何故、三浦義意を祀ったのか?
  三浦合戦は、三浦義同・義意父子と宗瑞・氏綱父子の戦いであり、氏綱と義意は良きライバルであったろう。父三浦道寸と自刃のとき、荒次郎義意は21歳(北條五代記)と言われている。三崎(新井)城将ではあったが若くして死去したこともあり、義意にこれと言った事績は見られない。多く知られていることは、荒次郎の名が示すように七十五人力(戦記物の記述)とか、剛腕・剛勇の士といったことである。
  氏綱も29歳前後であるが、何故、自領に敵将義意を祀ったのであろうか…
  また、何故、義意を祀りながら「居神明神社」なのであろうか。一般的には「三浦明神社」とか「義意明神社」と名付けられると思うのだが…。このことについては、本ブログ(その35)で記す。
  義意の実父義同について、『風土記稿』に次の記述がある。

    ◎久野村○総世寺 (前略)明應三年(1494)、三浦新介義同(後、陸奥守入道道寸と號す)養父
      三浦介時高と不和により義同三浦を遁れ出、當時、寺(総世寺)に來りて智海宗哲の弟子となり、
      圓頂黒衣の姿となる(按ずるに義同の妻は、開基寄栖庵の妹なり)三浦の一門家臣等、其跡を尋
      て當寺に來會し、遂に時高を討(【小田原記】曰)(後略)       (新編相模国風土記稿第二巻)

  この後は【小田原記】にあるとして、同書の引用を記している。Img_20190319_0001_2
  ここに「義同が養父時高」とあるが「養祖父」が正しく、義同の実父高救は扇谷上杉持朝の子で、家督を義同に譲ると実家上杉家に戻っている。
  時高は高救(たかひら)を養子に迎えた後、高教が生まれたことから、
高救・義同父子を疎んじ始めたとの説が言われているが諸説がある。
                    (右図版。三浦家・大森家縁戚略系図参照)
  この時、義同が立派だったのは、敢えて時高には逆らわずに母の実家大森家菩提寺総世寺に逃れ、剃髪して道寸を称している。
  その後、時高の圧政に不満を抱いた家臣の多くが義同を頼ってきたこ
とから、三浦新井城を攻め時高を討ち、同城を嫡子義意に任せ自らは真田城(平塚市真田)を居城としたとの説が一般的である。
  『北條五代記』は、このことを「三浦介道寸父子滅亡の事」の前に記しているが、戦記物の記述で異説も言われており、またの機会に述べたい。
  それにしても、伊勢宗瑞が韮山を居城とし、氏綱に小田原を任せたことと似ている。
  さらに『風土記稿』は、義意自刃の地である三浦郡衣笠庄小網代村に「義士塚」を記している。

   ○義士塚 外郭引橋の邊にあり、北條早雲の家士四人の墓なり、相Gisituka1
     傳ふ荒次郎義意最後の奮戦に敵兵辟易して敢て近くものなし、特
     に彼四人義意を目がけ討て懸る、義意たゞ一刀に打果さんとす、
     道寸其勇敢を憐て放免せしむ、落城の後道寸の芳志を感じ爰に來
     て自盡す、故に此名ありと云。      (新編相模国風土記稿第四巻)
                                                                   (右写真、義士塚1)
  北條氏家臣4人が道寸の恩義に感じて殉死した場所で、地元民によって2箇所に埋葬された、と伝承されている。(史実か?疑問)Gisituka2_1
  氏綱が、この話を知っていたかどうかは分からない。(右写真、義士塚2)
  一般的に神社や寺院に人を祀るのは、その人物が崇敬されるからで、
その人にあやかり、またその人の加護を期待するからであろう。
  一方、恨みや祟りが及ぶことを懼れ、その人物の成仏・鎮護を願って祀ることもある。多くは前説で、後説はそのことを積極的に記すことはなく、
一般に知られることは少ないと思う。
  居神明神社創建の永正十七年は、1年前の同十六年七月に早雲庵宗瑞が三浦三崎沖で遊興中に発病し、翌八月十五日に他界している。
  このことからは、後説の「恨みや祟りが及ぶことを懼れ」と考えるのが普通であろう。
  仮に、宗瑞が居神明神社を創建したとすれば、義同を祀ったであろう。前ブログで記したように、明応五年(1496)の上杉顕定文書から、宗瑞弟弥次郎が要害(小田原城カ)で道寸と同在していたことが判明している。少なくとも、宗瑞は義同道寸については知り得ていたであろう。
  氏綱が事績の見えない義意を祀ったことは、義意との間に3年に及ぶ新井城合戦で何か史料に見えない物語が存在し、氏綱が義意に共感したのか、あるいは愛弟のような感情を抱いたのではないだろうか。前説の崇敬説による氏綱の哀悼心からであろうと私は考えた。氏綱贔屓が過ぎるのであろうか。
  敵将を自国に祀る例は極めて珍しく、小田原城主北條氏綱の三浦義意への哀悼心なくして、居神明神社の創建はなかったと考える。氏綱の義意を祀った理由の分かる史料を知りたい。
Zyutokuanniriguti
  4、三浦家墓所を訪ねる
  『風土記稿』は、鎌倉山之内村(三)圓覺寺(下)の項で、「開祖月潭、
中興大旦那三浦介義同入道道寸」と、壽徳菴は道寸の中興開基とした
後、次のように記している。       (右写真、壽徳庵入り口。H30.11.6)
           
   ◎圓覺寺○壽徳菴   往昔境内に聽好庵・養龍軒と唱ふる二室あり、Zyutokuannmiuraboti
       天文十六年十月聽好庵・養龍軒の敷地各北條氏より寄附あり、
           (右写真。寿徳庵内の三浦一族墓碑。各墓碑に記銘なし)
     (如意菴所蔵文書曰、敷地之事九百四拾八文之分、任永正十七
     庚辰歳落着之旨令寄附者也、仍如件、天文十六年丁未十月十二
     日、聽好庵、虎朱印あり、養龍軒に出す所は敷地一貫五百文分と
     在のみ、此餘前と同文なれば略す)、永禄九年六月大道寺資親、
     淨智・護法両寺の内敷地一貫七百文分、養龍軒に寄附あり
・                         (新編相模国風土記稿第四巻)  Zyutokuannbotinagame                             
  天文十六年(1547)に北條氏が敷地を寄附したとあるが、「敷地の事は永正十七年(1520)に落着して寄附せしめた」とあり、聽好庵に氏康(虎朱印)が伝えている。      (右写真。三浦家墓所から右、山門。左、仏堂)     
  「養龍軒に寄附あり」とする同様文書を、『鎌倉市史』が収載している。
  同『市史』は、「永正十七年検地をして落着(決定)していたことで、氏康が寄進した」と解釈されている。ただ、氏綱の寄進か氏康かは、
どちらとも受け取れよう。      (右解読文、右側2通) Img_20181107_0002_1
  更に永禄九年(1566)には大道寺資親(氏政家臣)が、淨智寺と護法寺の敷地を養龍軒に寄附している。
                          (右解読文、左側)
  そして、天文十六年同日付同様文書が、『風土記稿』と『相州古文書』に鎌倉で13通確認でき、同年に検地が行われたことは確かであろう。従って、北條氏が壽徳庵に
のみ敷地寄進をしたわけではないことは確かである。
             (右下、天文十六年の寺領寄進状表)
  なお、壽徳庵に寮舎聴好軒と養龍軒があったが、養龍軒の敷地は淨智寺内と護法寺内にあった。『五山記考異』は、Img_20190522_0001
この軒は仏日庵のものという。(鎌倉市史社寺編)
  いずれにしても、永正十七年は三浦父子滅亡4年後で、居神明神
社創建の年である。主家が亡ぼされ大旦那を失った寺院へ、滅亡させた勝者が支援した例も多くはないだろう。ただ氏綱が、壽徳庵が三浦父子菩提寺であることを知っていたかどうかも分からない。
  平成30年秋、円覚寺壽徳庵の三浦家墓所を訪ねた。
  義同と義意と、他のいずれの墓碑にも記銘がなかった。
  明治初期に書かれた『大日本國誌』は、次のように記している。

    三浦義同墓
    鎌倉郡山之内村字瑞鹿山圓覺寺塔頭壽徳菴ノ傍ニアリ、五層ノ石塔ニシテ文字ノ刻セルナシ、傳
    ヘテ三浦義同ノ墓ト稱ス(義同ノ事地方長官ニ詳カナリ)義同三浦郡ニ於テ戰歿シ、壽徳院其中興
    スル所ナルヲ以テ、此ニ葬ルト云フ、(後略)             (大日本國誌/横濱・鎌倉第2巻)

  やはり、文字の記銘はないとある。「五層の石塔」とあるから、前掲写真中央の宝篋印塔を言っているのであろう。なお、三浦義同・義意父子の墓は新井城跡がよく知られ、居神神社でも毎年、墓参。私も同行させていただいている。義意の墓について『風土記稿』の、◎小網代村○新井古城の記述を示す。

    ○新井古城△三浦弾正少弼義意墓 道寸墓の東に在、碑面大龍院殿玄心P1000866
     安公大禅定門墓、碑陰に當寺開基三浦前陸陸奥守道寸公嫡子、弾正少
     弼荒次郎義意公廟所、地頭松平縫殿助地所寄附、天明二壬寅稔七月十
     一日、網代山海蔵禅寺智玉叟代造立と鐫る、(新編相模風土記稿第五巻)
                    (右写真、新井城跡の三浦義意供養墓。H28.5.22)
  三浦義同道寸が開基した海蔵寺(曹洞宗、三浦市三崎町小網代)住職が、天明二年(1782)に義同の墓(建立は永昌寺住職)と同時に建立したとある。
  従って、両墓ともに供養墓である。

  5、飛翔説と手向け歌
  『風土記稿』は山角町の項で、「居神明神社」を記している。

    ○居神明神社(為賀美三也宇自武也志呂)  三浦荒次郎(弾正少弼と称す)平義意の霊を祀る、
      神体は束帯の像なり(長一尺五寸許)義意永正十五年七月十一日、北條早雲と戦負て自刃し其
      首飛揚して當山の松梢に掛る(社地に枯松樹あり、径三尺首掛松と呼ぶ、按ずるに奥陸守義同・
      弾正少弼義意父子、早雲の為に三浦新井城にて滅亡し、意の首を當所に梟せしを、かく奇怪の
      説を儲しなるべし)三年眼未た閉ず、往返の人民其夭鬼に遭て命を殞すもの少なからず、因て總
      世寺沙門(僧侶)忠室、
        和歌「うつゝとも夢ともしらぬ一眠り 浮世の隙を曙のゝそら」を詠じて、
      怨霊を化導せしかば、頸松梢より忽堕(按ずるに此事【小田原記】【北條五代記】等に載す、但和
      歌を手向しかば首忽瞑して白骨となりしとあり)、且空中に聲ありて今より永く當所の守護神とな
      るべしと聞へしかば、即松下に祠を建、神と崇むとなり、當町及板橋村の鎭守なり、(後略)
                                              (新編相模国風土記稿第二巻)

  三浦義意自刃は、永正十四年(1517)三月三日付『建芳書状写』に、「去年七月、三崎落居、(三浦)道寸父子於城中討死」(小田原市史史料編)とあり、同十三年の自刃が確定している。建芳とは扇谷上杉朝良で、普門寺侍司(鎌倉長建寺173世用林顕材)宛書状(秋田県立公文書館・蔵)である。
  『風土記稿』は、居神明神社の松の梢に三浦義意の首が飛んできた(飛翔説)から祀ったとするのは、「奇怪の説を儲し」作り話であり、事実は梟首であるという。
  「小田原記や北條五代記等に載す」とあるのは間違いであり後述する。居神神社入り口の当市説明板も飛翔説を記していたが、三浦市在住の方からの苦情もあり、平成30年春に撤去されている。
  小田原史談会の青木良一氏も当市説明板を見て『おだわら風土記考』で、飛翔説を「面白がられる話であり、さりげなく本当の由来(梟首)を示唆してくれている」と言っている。
  ただ、この飛翔説は面白がられる話のためであろう、ネットでは伝説として盛んに取り上げられている。
  『風土記稿』のいう作り話か、それとも伝説か? 飛翔説の根拠を確かめれば分かるだろう。『風土記稿』が記した『小田原記』は、一名『北条記』と言われ「義同討死之事」を次のように記している。

            義同討死之事                                                                            
   明れば永正十五年七月十一日辰の剋に打て出、小田原の陣を二町ばかり追立て切まくり、枕を双
    て討死す。三浦前陸奥守従四位下平朝臣義同、子息弾正少弼従五位下平義意、并家親大森越後
    守・佐保田河内守・同彦四郎・三須三河守以下、百余輩の屍は巨港の岸に散り血は長城の窟に満
    つ、されば今に至るまで其怨霊ども此所に留りて月曇り雨暗き夜は呼叫び、求食の声して野人村巷
    の乳児を啼しむ、其後毎年七月十一日新井の地に亡霊あれて、往来の人の現に見え言葉をかはす
    事度々なりとかや。怖しとも愚なり(後略)                                             (北條記)                                          
  大森越後守を家親として出陣を記しているが、飛翔説も梟首も手向け歌もない。
  どうも『風土記稿』は何か間違えているらしい。
  では、『北條五代記』の「三浦介道寸父子滅亡の事」を見てみよう。Miurahusi
                       (右画像、『英雄百首』歌川貞彦・画)
           三浦介道寸父子滅亡の事
   (前略)此威に皆敗北して敵もなければ(荒次郎義意、新井城で)み
    づから首をかき落し、死たりけり。され共首は死せず眼はさかさまに
      さけ、鬼髭は針をすりたるごとく牙をくひしばり、にらみつめたる眼の
    ひかり、百れむの鏡に血をそゝぎたるがごとく、さもおそろしさを、一
    目見たる者なうれつすれば此頸又も見る人なし。是によって有験の貴僧高僧に仰て、さまざまの大
    法秘法、呪せられけれ共、其しるしなし。三年此首死せず、小田原久野の總世寺の禅師来て、一首 
    の哥を詠じ給ふ。               
         うつゝとも夢ともしらぬ一ねむり 浮世のひまをあけぼのゝ空      
      とよみて手向給へば、眼ふたがりたちまち肉くちて、白かうべと成ぬ。此荒次郎死所のわたり百間
    四方は、今にをいて田畠にも作らず草をもからず、牛馬其中に入て草をはめばたちまちに死す。故
    に獣迄もよく知て入事なし、(後略)                  (『北条史料集』収載、北條五代記)
                     
  總世寺の禅師は、新井城に来て和歌を手向けている。やはり飛翔説、つまり「儲し話」も梟首もない。『風土記稿』とも話が違う、どういうことであろうか?

  6、諸書「戦記物」の記述
  『北条史料集』の解題は、「北条記」は一名「小田原記」であるが、いわゆる戦記物であり型にはまった文体や誇張した表現が多く、読むのに興味は起こしやすいが、どこまで史実を述べているか疑わしく、作者・成立年代とも不明である。
  寛文十二年(1672)刊行の『北条盛衰記』も『北条記』と同じで、『小田原軍記』など、もっともらしく北条旧家臣と称する横井道可なる70歳の人の作としているが、内容は前書と同じであるという。
  さらに『北条記』の第三巻までは『相州兵乱記』と同じであるとして、同書は江戸時代以前とされていることから、江戸時代になって『北条記』『異本小田原記』等が同書を基に書かれているという。
  『小田原北条記』は、同書解説によると「原題は『北条五代実記』『北条五代記』『北条盛衰記』等と称され、作者は江西逸志子とされているが本名はわからない。天明三年(1783)の刊行であるが、序文に寛文十二年(1672)九月が記されている」という。
  そこで、各種「戦記物」の記述を確かめて右表にまとめた。Img_20190329_0001
  なお、①『異本小田原記』は、奥書に文禄二年の記述があり、②『相州兵乱記』より先の成立とした。
  しかしながら、成立年については研究者により異なることが多く、参考程度にご理解いただきたい。
  なるほど、②『相州兵乱記』と③『北條記』の「義同討死之事」は全く同文である。三浦氏滅亡を①『異本小田原記』(相州兵乱記カ)が、永正十五年と記したことから諸書が同年としていることも分かる。
  ただ、④『鎌倉九代後記』と⑤『豆相記』(相豆記とも)は、独自の記述である。前書④は飛翔説や手向け歌を記していないのは①②③と同じであるが、文章は独自の記述で、年月が四月十一日とあるのは、七月の間違えであろう。時刻の記述はない。
  後書⑤は、次に示すように若干異なる記述をしている。  

   (前略)荒次郎不退終死之、早雲実検彼級首、視未閉、故葬首於豆僧修禅寺、不成礼義之易、而僧
   詠左歌曰、「浦山シ二度覚ヌ又一睡一期ノヒマヲアケホノノ空」首忽瞑云云         (豆相記)

  宗瑞の首実検後、豆州の僧が修善寺に首を葬り、和歌(忠室禅師の和歌に似ている)を詠じた、とあるが、その和歌は⑥⑦に似ている。
  前記表から、①『異本小田原記』から②『相州兵乱記』や③『北条記』が、⑥『北條五代記』から⑦『小田原北条記』という、二系統の類似本が出版されたことが推定できる。
  ④は独自の記述であるが、⑤は類似本に近いと言えるだろう。
  以上、『風土記稿』が記した「飛翔説(儲し話)」はなく、「梟首」もない。
  また、諸書が三浦氏滅亡を永正十五年としているが、永正十四年三月三日付と推定される『上杉建芳(朝良)書状写』は、「去年七月三崎落居、道寸父子城中にて討死、定めて痛ましく思し召すべく候」と記している(小田原市史史料編)。伊勢宗瑞も、その十日後の七月二十一日「今度度々の合戦に大利を得るにより」として、伊豆国三島社(三島市大社町)に指刀を奉納している。(三嶋大社文書)
  こうした一次史料から、三浦新井落城は永正十三年が確定している。
  そして、『北條五代記』の最後は次のように結んでいる。

   (前略)扨又不思議の事有、道寸父子の討死は永正十五年戊寅の年七月十一日の寅の刻也、然所
   に北條氏政の切腹も天正十八庚寅の年七月十一日寅の刻なり、七十三年に当て年月日刻たがは
   ず果給ひたる因果のことはりこそおそろしけれ、父祖の善悪はかならず子孫にをよぶといへる、古人
   の言葉、おもひしられたり、此道寸いくさの次第、三浦の老人物語をあらかじめ記し侍る者也、   
                                            (『北条史料集』収載、北條五代記)

  この同日同刻滅亡の記述は、著者・三浦浄心(本名・出口五郎左衛門)は北條氏に仕えたが、元は三浦氏家臣で大森家のみならず三浦家をも滅ぼされた家臣の恨み節と私は推定していた。
  真鍋淳哉は、「天正十八年の豊臣秀吉の小田原攻めで北條氏政と氏照が切腹した七月十一日は、道寸父子が討死した日と同じであった。ただ、天正十八年の干支は庚寅である。そこで、三浦氏滅亡も干支の同じ寅年の永正十五年として、〔きれいな因縁話〕にまとめあげようとする作者(三浦浄心)の意図は明らかであろう」という。(中世武士選書『三浦道寸』)
  真偽は兎も角、諸書が最初に書かれた「永正十五年」に倣ったことは間違いない。
  いずれにしても『風土記稿』は何を元に「飛翔説」を記したのであろうか。それを確かめたく、さらに出典を追い求めた。

  7、発見! 飛翔説
  立木望隆が、郷土誌『芦間の道』十七・十八合併号(昭和60年刊)で、飛翔説を書いているのに出会った。長文のため詳細は割愛するが出典が示されていない。どうも、『風土記稿』や諸書の記述を基に創作したように思えるが、結論として『風土記稿』の「梟首」が正しいとしている。
  ある日、当市立図書館地域資料室で、地方史研究『あずまえびす三・四合併号』の小題に、「三浦荒次郎死物狂ひ討死之事、付・荒次郎が首小田原へ飛来る事」とある一文に出会った。
  静岡県小山町菅沼、岩田稲夫氏所蔵で、『相州小田原盛衰記』(後日、写本『小田原北條盛衰記』に出会うが若干異なる)である。「古文書解読いけやたけし(昭和51年2月21日)」とあるが、文書の解説や所蔵の経緯などは記していない。
 
       三浦荒次郎死物狂ひ討死之事、付・荒次郎が首小田原へ飛来る事    
   (前略)(荒次郎は)今は是迄なり軍は存分ニしたり、いざ最期せんとかの五尺八寸之刀首に当て両
   手を懸てえいやえいやと首かき落し、此首眼を開き歯を鳴らし空ニ飛上り、北条方の勢ニ火炎を吹
   かけ西北ニ飛び去りける。小田原山角信濃守が屋敷の松の枝ニかゝり、眼をいからし歯かみして往
   来の人をにらみ殺す事三三年に及びける。此度討手之大将ハ山角信濃守なりけるゆへ、此所ヘ飛
   来りよって今に此処山角町という也。是ニよって天子ヘねがい上ゲて居神大明神と勧請すれども、
   其祟り止めざりけるか、久野総世寺之和尚来り給ひて、法子(払子カ)を以て首を撫て、
      うつゝとも夢ともツかぬ一祢なり 浮世の隙もあけぼのゝそら
   と詠しければ、此首からくと笑い眼をふさぎ地ニ落ける。今に居神大明神社ニあり。扨三浦新居之
   城、道寸討死の処ハ草も生すといふ。永正十五年七月十一日に落城しける。(後略)
                                                  (相州小田原盛衰記)

  小田原の山角信濃守屋敷に、義意の首が飛翔して来て居神明神社が勧請されたとある。『風土記稿』は「山角町」の説明で、山角信濃守なる人物は確認できない、としているし、4項冒頭に記した「居神明神社」の説明では、山角屋敷ではなく居神明神社の松(首掛松)の梢としていた。
  ただ、まさに、これが「儲し話」で「飛翔説」の始まりであろう。P1000865
  賢明な読者はお気づきであろう、この「総世寺之和尚」の話は『北條五代記』からの引用創作(盗作)である。当時は著作権などはない。作者(未詳)は梟首も総世寺の禅師が新井城に来た史料もないことに目をつけ、新井城を山角屋敷(後、居神明神社も創作)に置き替えた飛翔説を思いついたのであろう。
                      (右写真、三浦義意意供養墓前の新井城跡碑)
  おそらく、『風土記稿』は、これを調査して「儲し話」としたのであろう。
  その「儲し話」が除かれ「飛翔説」のみが一人歩きを始めた。それも、小田原に限ってであることを知っていただきたい。
  三流作家?の引用盗作は、ほとんど知られることはなかったのである。
  『神田明神史考』(平成四年、神田明神史考刊行会)は、平将門の首塚について「首の飛ぶ伝説、首無し武者の伝説は、わが国の伝説の中にあって将門公だけのもので特異なものとされている。事実は京都で獄門にかけられた首を将門公に有縁の者が密かに持ち去り、武蔵国豊島郡芝崎(現千代田区大手町)に葬った」という。「首の飛ぶ伝説は将門公だけ」とある。
  義意の首飛翔説は、小田原以外で知られる機会はなかったであろう。
  一般的には『北條五代記』が知られ、特に『新横須賀市史』が収載していることから、三浦・横須賀の人たちは居神神社の当市説明板に、???と首を傾けていられたが、ネット上に蔓延してしまった。
  『国書総目録』や国立国会図書館の蔵書に『北条盛衰記』や『小田原盛衰記』(小田原北条記)はあるが、『相州小田原盛衰記』も写本『小田原北條盛衰記』もない。おそらく、この両書は刊本(刊行された本)ではないのだろう。なお、『小田原北條盛衰記』は落城の時刻を「申刻」(午後四時頃)を記している。若干、独自の記述を示したかったのであろうか。ただ、奥書に「嘉永元年戊申写之」とあるが、何故かその後の部分が破られ欠落している。故意か偶然か?  何かしら不信の念を抱かせられる。
  この書籍の成立年代も判明しないが、『風土記稿』が天保十二年(1841)の成立であるから、江戸時代中期十九世紀初め頃と考えられようか。
  では、『北條五代記』の作者三浦浄心は何故、総世寺住職を新井城に登場させたのであろうか。
  『相州兵乱記』は、「荒井ノ地ニ亡靈アレテ、徃來ノ人ノウツヽニ見ユ。言葉ヲカハスコト度々ナリトカヤ」と記している。この記述から、義意を成仏させるために「手向け歌」を思いついた。その際、三浦氏同様大森氏も北條氏に滅ぼされていることから、両家に縁のある総世寺に思い至り、当時の住職・四世忠室を登場させたのであろう。『北條五代記』の刊行は、義意自刃の125年後である。
  因みに『豆相記』は、北條氏馴染みの修善寺で豆州の僧としていた。残念ながら同書の著者・成立年代も判明していないが、成立が『北條五代記』よりも早ければ、三浦浄心は『豆相記』を脚色したことも考えられる。このことは当然『小田原北條盛衰記』にも言えることであるが…
  なお、『風土記稿』の記述から立木望隆も、居神明神社近くの「梟首 (さらし首)」が正しいとされているが、こうした「梟首」が同社近くで行われたとの史料も見えない。これも推察(創作に近い)であろう。
                                                                        
  おわりに
  三浦義意の首、飛翔説を伝説とした居神神社の当市説明板が撤去されたことは喜ばしい。
  しかし、この説明板が飛翔説を「伝説」としたことで、ネット上の飛翔説の蔓延はすさまじいものがある。おそらく、飛翔説が解消されるには限りない年月が必要とされるであろう。
  歴史はより史実に近いものが伝承されるべき、と願っている。
                                                    郷土士

(注)『相州小田原盛衰記』を手書きした『あずまえびす』(コピー)と、小田原有信会文庫所蔵の『小田原   
   北條盛衰記』(写)は、小田原市立図書館地域資料室にある。
                                                                                               
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参考文献
  異本塔寺長帳                      内閣文庫・蔵
  会津坂下町史三歴史編     会津坂下町史編纂委員会  福島県河沼郡会津坂下町   S54.3
  新編相模国風土記稿第二巻   編集・校訂 蘆田伊人       雄山閣            S45.9
  新編相模国風土記稿第四巻   編集・校訂 蘆田伊人      雄山閣            S45.10
  新編相模国風土記稿第五巻   編集・校訂 蘆田伊人      雄山閣            S45.11
  北条史料集               校注者 萩原龍夫        ㈱人物往来社       S41.3
  小田原北条記(上)          訳者 岸正尚           ㈱教育社                   H3.4
  異本小田原記(國史叢書収載)  黒川真道・編                  國史研究會                T3.
  豆相記(群書類従第21輯)    塙保己一・編纂         群書類従完成会      S35.
    相州小田原盛衰記                            岩田稲夫・蔵         S51.2
  写本・小田原北條盛衰記                        小田原有信会・蔵     嘉永元年写
  小田原市史史料編中世Ⅰ                       小田原市               H2.10
  中世武士選書・三浦道寸      真鍋淳哉             戎光祥出版㈱            H29.1
 
(その14)敵将三浦義意を祀った北条氏綱と居神明神社
  初  稿 2017.11.27 
  更新1 2018. 9.18 当市居神明神説明板の記述削除、5項、子安地蔵尊由緒書発見追記
  更新2 2018.11.  7  鎌倉市史収載の相州文書と壽徳庵写真掲載
  更新3 2019. 3.28 7項、箱根宿本陣鎌倉屋先祖は、三浦家三浦清元追記
  更新4 2019. 4.27 5~7項、(その35)に移行
  更新5 2019. 6.11 1項、追記

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