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2019年4月26日 (金)

郷土士の歴史探究記事 その35

                     居神明神社と三浦氏関係の新史料

  平成28年5月、居神神社(元・居神明神社、小田原市城山)の創建が、永正十七年(1520)と判明したことは、本ブログ(その14)で記した。
  その後の同30年6月、居神神社に合祀されている「子安地蔵尊」から、同尊由緒を記す下書が発見され、当初は「居之大明神」と称されていたとする創建秘話もうかがえる。
  さらに、翌同31年3月、同神社の大太鼓の木台に「弘化元年奉納 仙石屋・善四郎」という墨書が確認され、その調査から、三浦氏支族を先祖とする鎌倉屋石内家の小田原来住も判明した。
  こうした新史料から、本ブログ(その14)で課題としていた北條氏綱は居神明神社に何故、敵将三浦義意を自領に祀ったのか? の解答に、朧気ながら近づきつゝあるように思える。
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   1、居神明神社、当初は“居之大明神“
    2、別当「庭松寺」について
   3、三浦義意木像と画像    
   4、大太鼓寄進者・仙石屋善四郎とは
   5、元三浦氏支族の箱根宿本陣・鎌倉屋石内家
   6、豪商・鎌倉屋石内氏宅址              (右写真、三浦義意画像。居神神社・蔵) 
   7、居神神社例祭と三浦義意墓参         (写真・図版はクリックすると拡大します)

  1、居神明神社、当初は“居之大明神“Img_20180918_0006
  平成30年6月、居神神社に合祀されている「子安地蔵尊」
から、その由緒を記す下書文書4枚が発見された。 
  『子安地蔵尊由緒書』と名付けて説明する。
  その解読文①~④を右に示した。下書きであろう判読不明
文字も少なくないが、文書から新たに判明したことを記す。
  ①冒頭に「客殿本尊は慶心僧師作」とあるのは、子安地蔵
尊の本尊で、三尺一寸(約91㎝)の立像とある。「當社」とあ
るのが居神明神社で、「大古(往古か)は居之大明神と申し候」とある。永正十七年(1620)の「居神明神社」創建以前に、「居
之大明神」を称する小社が存在したことを示唆している。Img_20180918_0007
  「居」は「イ、コ、キョ」と読み、「いる、おる」の他に「すまい」
の意味もある。「大明神の住まい(住居)」を言っているのであ
ろうか…。本ブログ(その36)第2項『日本書紀』で記す「居之
神」と関連するのだろうか…。興味深い。
  その後の「三浦荒次郎義意之霊を云々」が、『風土記稿』の居神明神社の説明にある「平義意の霊を祀る、神体は束帯の像なり(長一尺五寸(約45㎝)許)」であり、 後段に尭門和尚
の「明神御身体(神体)再興」であろう、現存している。
  「神社縁起」を消失しているだけに貴重な史料である。
  また、子安地蔵尊は「明神以来」とも記し、明神社創建とほ
ぼ同時期に祀られたことを窺わせている。P1010258_2
  ①の元禄七年(1694)に「当寺七代明山□□寺建立」は、③の元禄十六年大地震
で庭松寺の被災「九年目」が符合している。            (右写真、子安地蔵尊)
  現存する石の鳥居に「延宝五丁巳年八月吉日、貞正寺諸氏子尭門代」とあり、庭
松寺(貞正寺とある)の延宝五年(1677)以前の建立が知れるが、次項で述べる。
  さらに石の鳥居が折れ、拝殿も幣殿も被災するが翌年の再建を記し、元禄大地震
では「小田原中が焼き払われた」とも記している。
  最後の④で、奉行所より明神社の由来を尋ねられ、「居神大明神ハ義意□□□之木像也、作ハ知連不申候、年数百八十七年ニ被成候」と、義意の木像は「作者は不
明だが187年前」の作、と記している。
  元禄十七年(1604)の記述として、単純計算で永正十四年(1517)になり、義意自刃の翌年に相当する。
  その後、尭門和尚の再興を記しているが、氏綱が義意の木像を造らせ祭神としたことが想定される。
  本ブログ(その14)で、山角某の屋敷を移転させた等、居神明神社創建の戦記物の記述は、史料的裏付けが皆無で信用できない、と記した。当初は「居之大明神」の可能性は「大」と言って良いであろう。
  氏綱が「居之大明神」を尊重して、三浦義意を祀りながら「居神明神社」としたことが考えられる。
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  2、別当「庭松寺」について
 『風土記稿』は、山角町の居神明神社の項で、庭松寺を次のように記している。

     ○居神明神社△別當庭松寺 曹洞宗(板橋村香林寺末)居神山と号す、開山
       明庵文聡(本寺四世、弘治三年正月二十七日卒)・                                                               ・                                  (新編相模国風土記稿第二巻)
                                    (右図版、『文久図』の一部)
  極めて簡明な記述であるが、開山の明庵が香林寺四世で「弘治三年(1557)卒」と
あるから、永正十七年(1520)の居神明神社創建当初からの別当であったろう。
  『文久図』(1861~63)に、「居神社(いがみしゃ)」と 記されているから、廃寺は明治Img_20190504_0002
維新の神仏分離令と思われる。
  庭松寺は鳥居の東側に描かれており、現在の社務所の所に存在したのてあろう。
  玉傳寺・傳肇寺・光圓寺の3寺に隣接していることも現在と、ほとんど変わらない。
  傳肇寺(淨土宗、小田原市城山)所蔵の『朝倉右京進證文』文書は、朝倉氏の私領との境目を記す証文で「井神之森」とあることは本ブログ(その36)で記す。
  朝倉右京進は『小田原衆所領役帳』では、御馬廻衆で豆州鎌田(伊東市鎌田)と大窪分(小田原市板橋)を所領としており、この文書は大窪分についての証文である。
  朝倉氏の娘が、氏綱三男で玉縄城主の北條為昌の室と言われていることは本ブログ(その33)で記した。                       (右、傳肇寺文書解読文)
  余談になるが、庭松寺の本寺である香林寺(曹洞宗、小田原市板橋)は、氏綱室養珠院の(中興)開基を『風土記稿』が記している。しかし、養珠院の他界日が「天文七年(1538)三月朔日卒」とあり、大永七年(1527)七月十七日卒が正しく、養珠院開基は疑問視されている。Img_20190504_0002_1
  黒田基樹は「香林寺は朝倉氏が檀那になっており、享禄四年(1531)に朝倉右京進が同寺開山時に行われた祖父古播磨守からの寄進寺領について、改
めて安堵している。年代的に考えると養勝院殿の父は彼(右京進)であった可
能性が高い。そうすると、同寺開基のものとされる忌日は、養勝院殿のもので
ある可能性が考えられる」という。(北条早雲とその一族)
  ということは、香林寺中興開基は養勝院ということになろう。養珠院と養勝院、一字違いの誤記は充分考えられる。       ・   (右、庭松寺文書解読文)
  次いで、庭松寺所蔵の『坂田九郎右衛門他三名連記證文』文書がある。
  前述の『朝倉右京進證文』同様に、居神明神社と隣接する實相寺(現・光円
寺の場所にあった)との境界証文である。
  「貞正寺」とある。既述した現存する石の鳥居にも延宝五年(1677)の記銘が貞正寺とあった。庭松寺は、当初は貞正寺であったと言って良いであろう。

  3、三浦義意木像と画像
  『風土記稿』は「居神明神社」の説明で、「三浦荒次郎(弾正少弼と称す)平義意の霊を祀る、神体は束帯の像なり(長一尺五寸許)」と記している。この木像については1項の『子安地蔵尊由緒書』も、「作者は不明だが187年前(義意自刃翌年の永正十四年頃カ)の作」と、記し、その後「尭門和尚の明神御身体(神体)再興」ともあり、江戸時代前期の再興とも考えられる。
  この木像は「ご神体」で写真撮影が叶わないが、三浦道寸・義意父子の信仰がImg_20191002_0001
篤かったと伝えられる潮音寺真光院(浄土宗、三浦市三崎町小網代)にも道寸・義意父子の木像が安置されている。
  令和元年10月、同院を訪ね拝観させていただいた。
  江戸時代末期の作品と説明されている。            (右、三浦義意木像)
  また、現居神神社には三浦義意画像も現存する。平成12年刊行の『奔る雲の
ごとく』(北条早雲フォーラム実行委員会)に収載され、冒頭に引用させていただImg_20191002_0002
た。居神神社宮司の説明では掛軸に表装され、表装裏面に「居神大明神真影」と墨書されていることから、三浦義意公画像と判明する。画紙には絵師の署名と落款も捺されているという。鑑定が待たれるところである。    (右、三浦道寸木像)
  そして、三浦義同道寸開基の海蔵寺(曹洞宗、三浦市三崎町小網代)にも「道寸父子の肖像一副を寺寶とす」(風土記稿)とあるが現存しないという。
  さらに、同じ道寸開基の永昌寺(臨済宗、三浦市三崎町小網代)には、「寺寶に三浦系図一巻あり」と記しているが、これも現存しないという。
  『新横須賀市史資料編』は、三浦道寸画像(京都大学付属図書館所蔵)と三浦義意画像(三浦市・松浦豊氏所蔵)を収載している。そして、この両画像は『風土記稿』が記す海蔵寺の「道寸父子の肖像」に当たると考えられ(但し、『風土記稿』が「一副」とする点に疑問が残る)るとしている。
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  4、大太鼓寄進者・仙石屋善四郎とは           (右写真、奉納された大太鼓)
Img_20190426_0002    平成31年3月、居神明神社に奉納されていた大太鼓
  の木台に、「奉納、仙石屋善四郎。弘化元年(1844)二月
 六日」との墨書が発見された。「仙石屋」の屋号から、『風
 土記稿』の箱根宿新設の記述を左に示した。
    箱根宿は、元和四年(1618)に関所開設と同時に開
 かれ、小田原宿と三島宿から各々50家を移転させてでき
 た新宿で、小田原町と三島町の2町で構成されていた。
    「仙石屋」とあるから、箱根郷土資料館に問い合わせる
 と、箱根宿小田原町の旅籠に仙石屋勘右衛門があり、 Img_20190613_0004
 他にも底倉温泉に仙石屋粂助、木賀温泉に仙石屋七兵
 衛もいるが、いずれも「善四郎」との関係は判明しないと、
 教えられた。               (右写真、木台墨書)
   その後、『我が町の歴史・小田原』の「弘化二年(1845)
 小田原宿十九町役人等一覧」(秦野市、柏木家文書)に、
 「山角町 名主 仙石屋(勝俣)善四郎」を見付けた。
   仙石屋(勝俣)善四郎は、文政八年(1825)には質屋仲
 間の年行事も勤めている(小田原市史史料編近世Ⅲ)。
   当時の質屋は、古着屋・小道具屋等を兼ねる者も多く、
 商人の中でも重きをなす商売であった。また、『天保十四
 癸卯年(1843)八月、在商人御指留願并調査控』(小田原市史史料編近世Ⅲ)に、
 「山角町 質屋改役 善四郎」とある。小田原城下の諸商人が在方商人の商業活動の制限を願い出たもので、善四郎は「質屋改役」とあり、質屋でも統率的地位にあったと思われる。
  この「改役」とは同年の140余年前の元禄十三年(1700)から設けられ、鑑札が割当てられていた。
  文政期に入り小田原藩は株仲間の結成を奨励し、文政九年(1826)城下・
近隣の質屋30軒が質屋仲間を組織している。(同市史通史編近世)Img_20190315_0003
  そして、文政八年の年行事文書の解説に、善四郎は山角町の名
主(幕末に借財で没落)とあり、 文久二年(1862)五月の『御領主様
御入部記』には、「山角町名主・平次郎」とある。(同市史史料編近世)
  代替わりか、名主家の交代であろう。
            (右図版、江戸時代の箱根宿小田原町住居地図)
  右、箱根宿地図で、現在人気の箱根駅伝のゴール地点で「箱根駅伝ミュージアム」のある場所に、本陣「鎌倉屋・石内弥平太」がある。

  5、元三浦氏支族の箱根宿本陣・鎌倉屋石内家
  箱根宿への移住者で本陣経営者6名と、脇本陣1名の『宿方本陣由緒書上』が、『箱根町誌第三巻』に収載されている。その書上げは、各々の出身を記している。

   ①小田原町本陣 平左衛門  先祖武田家臣                      豆州在住
   ②小田原町本陣 又右衛門  前記平左衛門三代目二男
   ③小田原町本陣 佐五兵衛  先祖不明
   ④小田原町本陣 覚右衛門  先祖甲州武田家臣土岐八右衛門尉定信 小田原在住
   ⑤小田原町本陣 弥  平  太   先祖相州三浦家三浦清元          小田原在住
   ⑥小田原町本陣 弥五左衛門 先祖甲斐信玄家臣原美濃守        小田原板橋村在住
   ⑦三島町脇本陣 三郎右衛門 先祖武田信玄家臣              豆州韮山在住
 
  ②の又右衛門のみ①平左衛門の三代目の二男とあるから、宿設立数年後の開業Img_20190426_0001_1
である。当初6名の移住者の内、武田氏家臣が4名で三浦氏一族1名、一名は不明とある。いずれも北條時代に北條氏領内へ移住して来ており、北條氏の「来る者は拒まず」の姿勢が窺える。この内、⑥信玄家臣原美濃守は、小田原の中里村名主の原家
一族と思えるが関連史料は見えない。
  ⑤小田原町本陣弥平太の、「先祖は相州三浦家三浦清元」に注目し、右に同家の『本陣由緒書』を示した。    ・               (右、本陣「弥平太」由緒書上)     
  先祖は、三浦家三浦清元で鎌倉荏柄に住んでいたが、姓を石内に改めた四郎左衛門が享禄四年(1531)に小田原に引移り、さらに元和年中に箱根宿に移住したと記している。前記「箱根町地図」から屋号が鎌倉屋」と分かる。享禄四年は、居神明神社創建の11年後で、翌天文元年(1532)に、氏綱は鶴岡八幡宮の再造営に着手している。
  小田原城主北條氏綱と、三浦義意を祀る居神明神社を承知しての小田原移住であろうか。石内弥平太の先祖は「鎌倉荏柄」とあり、屋号「鎌倉屋」も容易に肯ける。
  その「鎌倉荏柄」は、鎌倉二階堂の「荏柄天神社」近くの地名である。
  この頃の同天神社も、八幡宮同様に焼失していたものと思われる。おそらく、同天神社も氏綱により再建されたのであろう。
  『風土記稿』の◎二階堂村○荏柄天神社の説明から、北條家と三浦家に関する記述を抜粋して示す。

   ◎二階堂村○荏柄天神社 (前略)天文十七年社頭造營の爲、北條氏當所に關を居ゑ、關錢を取りて社
     料に充つ(所藏文書に據る)、永禄四年、里見左馬頭義弘の軍勢此關門を押破り、小田原の地に入り
     し事あり(【關八州古戰録】曰、永禄四年、里見左馬頭義弘、相州三浦の地に屯を張り、正木左近大夫
     時忠父子等を武州金澤へ働しめ、南方より守る處の荏柄の關取て押破り、小田原の地に咬入んと武
     威を震ふ、今社前の陸田を關取場と云、天文中、北條氏關をすへ關錢を取、社造營の要脚に寄附せら
     れし其名殘なり)、北條氏割據の頃は社領永二十一貫百文の地を鶴岡八幡社領の内にて配當す、(永
     禄二年【北條役帳】曰、荏柄天神領二十一貫百文、鎌倉社地之内)、天正十五年二月小田原城普請の
     時、當社領の内十一人の夫を課す(鶴岡文書に據る、彼社の條併せ見るべし)(後略)
                                                   (新編相模国風土記稿第四巻)
 
  天文十七年(1548)に荏柄天神前に関を設け、関賃を徴収して社頭の造営費Egaratennzinnsekibaato_2
用に宛てたという。三代氏康の時代である。関を設けた場所には、今も「関取場跡」を刻銘する石碑と説明板がある。            (右写真、関取場跡石碑)
  また、氏康時代の永禄二年(1559)『小田原衆所領役帳』にも、「荏柄天神領」として「廿一貫百文、鎌倉社地之内」を記している。
  同四年(1561)には、里見攻めにより関取場を破られたという。
  そして天正十五年(1587)は、五代氏直の豊臣攻めに備えての小田原城の普
請であろう、人夫十一人が支援していることが分かる。
  次いで、三浦氏であるが、天神社の【神寶】に次の記述がある。

  ○荏柄天神社【神寶】 (前略)△法華經二部(中略)一は三浦道寸の筆也、巻尾毎に奥書あり(曰、爲法昌
    寺殿松岩妙秀大姉百箇日書寫、永正十二年乙亥六月十八日)(後略)   (新編相模国風土記稿第四巻)

  三浦道寸自筆の書写した法華経が、永正十二年(1515)の法昌寺殿百ヶ日の法要(三月八日カ)に同天神社に奉納されていたという。 「法昌寺殿」は、道寸実母で大森寄栖庵の娘である。
  『風土記稿』は天保十二年(1841)の成立であるが、この法華経は現存しておらず、同天神社に奉納されたものと断定することはできないと言われている。というのは、この永正十二年の三浦道寸は、伊勢宗瑞・氏綱父子に攻められ新井籠城中である。翌年七月に自刃しているので、どのように奉納されたかが判明しないという。しかし、永正十年一月末に始まった新井城合戦は、同十三年七月までの3年間を北條氏が完全包囲していたわけではないだろう。おそらく、包囲を解いても三浦父子は「父祖の地」を捨てて逃げることなど考えることはなかったろう。『異本塔寺長帳』は、永正十一年「今年、徳川家・今川家・北條家合戦有」を記している。
  道寸が、同十二年三月に法要を行った可能性は充分あり得ると思う。
  いずれにしても、このような史料が同天神社に実在したことは、三浦家との何らかの縁を窺わせている。

  6、豪商・鎌倉屋石内氏宅址
  鎌倉屋石内家は、小田原府内にもあった。
  『寛文元年(1661)一月六日、小田原

町中惣代年始御礼参上』文書(『神奈川県史資料編4』)に、「町年寄・石内六郎右衛門」が、小田原城主稲葉家に年始挨拶に参上している。同氏は高梨町の年寄役で、「鎌倉屋」を称し公儀城詰銭の輸送を担当し、問屋として藩の御用も勤めていたようである。
  また、「寛文~延宝年間(1661~81)には領内の農民が手放す田畑を買い集め、Img_20190426_0003
手広く質地地主経営を行っている。 後、理由は定かではないが、小田原を離れ江戸に進出して行ったようである。高梨町の屋敷跡は後々までも〔鎌倉屋敷〕と呼ばれていた」とある(小田原市史通史編近世)。『風土記稿』に、「◎高梨町△鎌倉屋鋪(古(いにしえ)、鎌倉屋四郎右衛門と云町人の持地なりしと云)」とある。
  明治初期に編纂された『大日本國誌』が、鎌倉の「石内氏宅址」を記している。
                              (右、大日本國誌「石内氏宅址」)
  概略、前項箱根宿「本陣・弥平太」の『由緒書上』と、ほぼ同様のことを記しているが若干異なる。三浦郡に居た三浦氏支族の清元が、鎌倉二階堂村の荏柄天神社の西麓に移住した際、石内に改姓したとある。
  その石内氏宅で、清元と子・宗元が、関東管領上杉氏春と吟詠・連歌を嗜んでいたという。ただ、上杉氏春は上杉氏系図に見えない。
  その宗元の孫・明蓮が、小田原に来て鎌倉屋を称したとあるから、前項『本陣由緒書』の四郎左衛門が明蓮であろう。来原の時は享禄四年(1531)であった。
  とすると、明蓮の曾祖父(高祖父カ)三浦清元が鎌倉荏柄に移住したのは、北條氏との新井城合戦以前で、伊勢宗瑞が鎌倉に入り玉縄築城の頃は在住していたことになる。小田原移住は三浦道寸・義意父子戦死の15年後で、小田原城主は北條氏綱である。
  「北條氏之ヲ遇スル頗ル厚ク凡帥旅アル、之ニ従ハシメ商買ヲ以テ之ヲ待タス、
又券ヲ與ヘ管内農商鎌倉屋ノ門ヲ過クル者、馬ニ乗リ笠ヲ着クルヲ得サラシムト云」とある。氏綱が石内氏を厚遇し、農商上の権限も与えたという。この三浦石内氏と、氏綱に何があったのであろうか。
  そして、この鎌倉屋は江戸に出た後の元禄八年(1695)に鎌倉荏柄の旧地を購入し、「石内氏宅址」の石碑と美濃加納盛徳寺の僧・帥蠻記銘による由来碑であろうを建てたとある。その石碑は、現存していないのであろう。この石碑建立以外の話は、すべて既述の『小田原市史通史編』等と符合する。
  鎌倉荏柄移住後の石内家当主は、清元→宗光→明蓮→成定→成靜を記している。
  前項の箱根町本陣鎌倉屋・石内弥平太家とは北條時代の分家と思えるが、どちらが本家であろうか。どちらとも言えそうであるが、小田原に残った方が本家と考えるのが普通であろう。

  7、居神神社例祭と三浦義意墓参
  早雲庵宗瑞が家訓として残したとも言われる『早雲寺殿廿一箇條』は、「第一に仏神を信じ奉るべきこと」を記している。宗瑞は義意自刃3年後の永正十六年(1519)に他界しているが、その翌年に居神明神社が創建されている。宗瑞他界の永正十六年は氏綱33歳、ほぼ町づくりは終えていたであろう。 
  宗瑞生存中に着工していたと推定される湯本早雲寺は、居神明神社創建の翌大永元年(1521)の建立である。同年に始まった居神明神社祭礼は、町づくりの完成祝いで小田原最初の祭りだったとも言えよう。
  『風土記稿』が◎山角町○居神明神社の項で、同社例祭を次のように記している。

   (前略)當町及板橋村の鎭守なり、祭禮六月十一日、隔年に神輿巡行す(巡行Img_20170822_00011_1
   の次第、山角筋違二町より箱根口城内馬出門にて祈祷、大手に出、青物町・
   欄干橋町より安齋小路に入、濱下り祈祷、夫より板橋村地藏道前に至る)、此
   式、大永元年より始れりと云、          (新編相模国風土記稿第二巻)

  勿論、この記述は江戸時代であるが、小田原城の「馬出門の祈祷と大手門通過」は特例中の特例であろうし、当時の小田原宿の中心地を巡行した画期的な祭典であったろう。  (右写真、居神神社御輿の浜降り。昭和29年5月11日、新久海岸)
  この巡行が北條時代に始まり、稲葉氏・大久保氏と継承Img_20171128_0002_2
されてきたと推定できよう。  (右図版、御輿巡行路)      
  居神明神社は、山角町と板橋村の鎮守とある。この二町村は、江戸時代は上方見附で区切られていた。やゝもすると対立し勝ちな町方と郷方(村方)の仲介役を、同神社は果たしていたのではないだろうか。
  そして、この祭りが終えると居神神社では氏子の人たちと、三浦新井城跡に三浦義意の墓参に出かけるのである。
  村上宮司は、いつから始まったかは分からないが、「祖父の代から続いている。当時は汽車で1泊旅行であった」と、言われる人も何人かいられると教えられたImg_20170822_0002。            
                  (右写真、居神神社例祭の山車。昭和30年)
  『おだわら・ふるさとの記憶』に、板橋在住の三宅金次郎氏(明治44年生まれ、当時85歳)が、「職人が多かった板橋地区」と題して話されている。
 
    (前略)お祭りといえば、居神(神社)さんは板橋の全体と、南町の半分(山Img_20170822_0003
    角町)が氏子で、合同でお祭りをしているんです。五月五日後に、祭ってい
    る三浦荒次郎のお墓参りにいくんです。バス一台で三浦の油壺にある荒次
    郎のお墓まで、毎年お参りに行ってるんです。お祭りが無事に終わった報
    告と、氏子の皆さんの安全な生活を祈願してくるんです。昔から続いている
    お墓参りなんです。  (平成8年聞き取り。『おだわら・ふるさとの記憶』より)

  居神神社の祭典では、板橋村の醤油醸造工場兼販売店経営の内野邸前の「大名かざり」(大名行列の長槍等を飾る)が、目を引いたと言われている。
                           (右写真、居神神社例祭の大名飾り。明治37年5月10日)

  おわりに
  居神神社には平成29年に「勝って兜」碑が建設され、嘗ての三浦義意の首飛翔説が一新されつゝある。
  本ブログも、「子安地蔵尊」の由緒書が下書ではあるが発見され、また大太鼓の寄進者も判明し、新たな居神神社の姿が垣間見られた。そして、氏綱が三浦義意を祀った理由の一端を窺わせる三浦家三浦清元家が、小田原に移住していたことが判明し、北條家の協力も窺わせていた。
  来年は、いよいよ居神神社創建五百年を迎える。そのためにも、より史実に近い史料の発見・検討に務めたく思いを新たにしている。
                                                          郷土士

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参考文献
  奔る雲のごとく        編集・北条早雲史跡活用研究会 北条早雲フォーラム実行委員会  H12.1
  新編相模国風土記稿第二巻    編集・校訂 蘆田伊人      雄山閣         S45.9
  子安地蔵尊由緒書下書                         居神神社・蔵
  相州古文書第一巻            編者・貫達人          神奈川縣教育委員會    S40.3
  北条早雲とその一族          黒田基樹          新人物往来社       H19.7
  小田原城絵図『文久図』                       小田原城天守閣     H14.7
  我が町の歴史・小田原        福田以久生・内田哲夫他  ㈱文一総合出版       S36.2
  小田原市史史料編「近世Ⅲ」                      小田原市          H2.10
  小田原市史通史編「近世」                               小田原市          H11.3
  箱根町誌第三巻             箱根町誌編纂委員会    角川書店         S59.3
  改訂・箱根宿歴史地図          編集・中村静夫       中村地図研究所     H10.1 
  新編相模国風土記稿第四巻     編集・校訂 蘆田伊人      雄山閣         S45.10
  神奈川県史資料編4近世(1)  神奈川県企画調査部県史編集室 (財)神奈川県弘済会  S46.2  
  大日本國誌「横浜・鎌倉」第2巻  原本東京大学史料編纂所所蔵版 ㈱ゆまに書房         S63.7
  小田原・足柄の100年              監修・内田四方蔵       郷土出版社              H2.8
  おだわら・ふるさとの記憶   小田原市お年寄りの生活体験聞き取り調査会 小田原市    H9.3
  
(その35)居神明神社と三浦氏関係新史料
  初  稿 2018. 4.27

郷土士の歴史探究記事
その1 江戸の遊廓「吉原」を開いた庄司甚右衛門の謎  その2 良正院督姫の誤伝を糺す
その3 浄光院お静の生涯と保科正之             その4 日本最古の水道「小田原早川上水」
その5 北條氏康室・瑞渓院と今川氏真室・早川殿     その6 『明良帯録』を書いた山形彦左衛門
その7 北條氏政室・黄梅院と武田勝頼継室・桂林院    その8 贈答品・進上品等にみる北條家の文化財
その9 北條家と世田谷吉良家(付、崎姫と香沼姫)     その10 北條五代を支えた女性たち(改訂)
その11 北条五代を支えた男性たち               その12 西国で存続した北條氏と伊勢氏
その13 早雲庵宗瑞の小田原入城、その秋は明応9年    その14 三浦義意を祀った北條氏綱と居神明神社
その15 幻の大森氏小田原城と大森時代の小田原宿    その16 北條氏綱と居神神社の「勝って兜」碑
その17 北條氏綱の小田原城と小田原の町づくり      その18 北條氏綱の三嶋大社と鶴岡八幡宮再造営
その19 小田原北條家と浅草寺の再興             その20 北條二代氏綱の江戸制覇と弁財天の勧請
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その31 「初見虎の印判状」発給者と氏綱の家督継承    その32 大久保忠眞の「贈従三位」叙位
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その35 居神明神社と三浦氏関係の新史料         その36 検証、居神明神社名の由来
その37 北條家の縁、徳川家康の側室たち          その38 高潔の武将・北條氏照と室・大石比佐
その39 もう一人の伊勢宗瑞・弟?             その40 北條五代「去る者は追わず、来る者は拒まず」
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その43 崎姫と香沼姫、そして山木大方            その44 新説・まぼろしの崎姫




 

    

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