« 郷土士の歴史探究記事 その35 | トップページ | 郷土士の歴史探究記事 その37 »

2019年5月 6日 (月)

郷土士の歴史探究記事 その36

                      検証・居神神社名の由来

  小田原の居神神社(旧・居神明神社。小田原市城山)は、不思議な神社と言って良いであろう。
  今まで知られていなかった創建年が500年近くになって永正十七年(1520)と判明し、当時の小田原城主二代北條氏綱公が創建者と推定されている。
  その氏綱公が父早雲庵宗瑞公と共に攻め滅ぼした敵将の三浦義意公を祭神として、自領の小田原城下に祀っており、これも極めて珍しい。さらに祭神に祀った三浦義意公から、明神社名は「三浦明神社」とか「義意明神社」が一般的であるのに、「居神明神社」である。
  この「居神」という言葉は『広辞苑』にもなく、名称もまた極めて珍しく、我が国唯一の神社名である。
  私は「居神」という言葉を不思議に思い、常に念頭に置いていた。
  平成30年7月、読売新聞夕刊で『日本書紀』に「居神」とあるのを知った。
  その日本書紀の「居神」を調査中、南あわじ市の福良に「居神明神社」と、地名「居神」があることも知った。
  古事記や日本書紀は神話ではあるが、淡路島は日本列島で「最初に生まれた島」と記している。
  小田原と淡路島、この2つの居神明神社名は、『日本書紀』に由来するのであろうか…
  平成30年6月、居神神社に合祀されている「子安地蔵尊」から、その由緒を記す下書文書4枚が発見され、同書に「當社、大古(往古か)は居之大明神と申し候」とあったことは前ブログ(その35)で記した。
  この「居之大明神」を含めて、不思議に思える「居神」明神社名を検証してみた。                           
                        
    1、「居神」神社名の由来Igami_kamiss_3
     2、『日本書紀』が記す「居神」
    3、お名前の「居神」さん
    4、淡路島の福良にあった「居神明神社」
    5、地名「福良字居神」について
    6、福良の古文書は、水神を祀る「丹生明神社」
    7、福良の「居神明神社」は、地元民の別称   (右画像。「南淡路の神社」より)
    8、福良を訪ねて                 (画像は、クリックすると拡大します)

  1、「居神」神社名の由来
  『新編相模国風土記稿』(天保十二年(1841)成立。以下『風土記稿』と略す)編纂者も、居神明神社名を不思議に思ったのであろう。◎山角町○居神明神社の項に、
  「按ずるに町内傳肇寺所蔵、天正十六年(十五年の誤記)の文書に、井神之森と云事見ゆ」とある。
  傳肇寺(淨土宗、小田原市城山)所蔵の『朝倉右京進證文』(相州古文書)と名付けられた文書で、私領の境目を記すのに「井神之森際」と記していることは、前ブログ(その35)で文書と共に記した。
  この記述を基に、居神明神社前が小田原府内に飲料水を供給した日本最古の水道・早川上水の起点で、同明神社に水神も祀られていることから、「井神明神社」と称していたと言われる人がいる。
  しかし、「井神」を記す史料は、この1件のみである。
  また、居神明神社の創建年を記した『異本塔寺長帳』は、「永正十七年庚辰、三浦荒次郎義基(義意)首ヲ於小田原威神明神ニ祭ル」と、「威神明神」と記していることも、本ブログ(その14)で記した。
  この「威神」も、三浦荒次郎義意を思えば必ずしも誤記とも言えないところが面白い。しかし、管見の限りこの「威神」も1件のみである。
  当時の人たちは、耳に入った音(おん)を当人の知識の範囲内で漢字を当てることが多い。
  いずれも1件のみでは「居神」を記す史料に比べれば「説」にも値しない。
  そして、注目したのが前ブログで記した「子安地蔵尊由緒書」下書の、「當社、大古(往古か)は居之大明神と申し候」である。当初は「居之大明神」と言ったという。
  居神明神社は、新設されたのではなく「居之大明神」と称した小社があったことを示唆している。これまで、山角信濃守の屋敷を移転させて居神明神社が建てられたとも言われていたが、そうした史料は見えない。
  『風土記稿』は◎山角町○山角氏宅蹟で、山角町の町名由来を「(前略)今土人は信濃守の宅跡と傳ふれど前に載る如く信濃守の名、他の所見なし(後略)」としている。
  土人とは「地元の人」という意で、「地元の人の伝承であるが、山角信濃守は実在しない」としている。
  この伝承の起こりは、本ブログ(その14)で記した『相州小田原盛衰記』(写本・小田原北条盛衰記)である。「三浦義意の首が山角信濃守屋敷に飛び来たり、居神明神社が創建された」と記している。
  この記述は盗作の作り話である。当時は、創作話も史実の如く伝承されることもあるのだろう。
  ところで、前述の「居之大明神」であるが、居神明神社の別当「庭松寺」所蔵の『三名連記證文』文書を前ブログで示した。その『朝倉右京進證文』同様に、居神明神社と隣接する實相寺(現・光円寺の場所にあった)との境界証文である。冒頭に「居神大明神」とある。
  前述の「居之大明神」の名残りと考えるのは、我田引水が過ぎるのであろうか。いずれにしても、「居神明神社」名の由来は確定しない。

  2、『日本書紀』が記す「居神」
  三世紀後半に造られ前方後円墳では最も古い箸墓(はしはか)古墳(桜井市箸中)は、奈良時代の720年に成立したとされる『日本書紀』に登場する、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓とされている。   
  倭迹迹日百襲姫は、第十代崇神(すじん)天皇の時代を記した箇所で、第七
代孝霊天皇の皇女として出てくる。災害が続く理由を崇神天皇が占った時、Hasihaka03
姫に神が乗り移り、「我は是倭国の域の内に所を居(る)神、名を大物主神と為ふ」と述べる。                          (右写真、箸墓古墳)
  後に姫は大物主神と結婚するが、蛇に化身した姿を見て驚き箸を用いて自ら命を絶つ。このため、その墓を「箸墓」と呼んだという。
                 (読売新聞H.30/7/24日夕刊「史跡を訪ねて」)

  ここに「居(る)神」とある。
  余談になるが、この箸墓古墳を「卑弥呼の墓」とし、倭迹迹日百襲姫を卑弥呼とする説も言われている。
  『日本書紀』を調べると、前記「崇神天皇」の項を含め、少なくとも5箇所で「居神」を記している。
  そして面白いことに、ほぼ同様の神話を記す『古事記』には「居神」の言葉はない。
  つまり、「居神」は『日本書紀』に始まり、『日本書紀』で終わった言葉のようだが、僅かに北條氏綱創建が言われている「居神明神社」が、その言葉を伝承していたと言えそうである。
  創建者(氏綱カ)は、この『日本書紀』の「居神」を明神社名とした、と考えてみた。『日本書紀』の原文は漢文である。命名者が『日本書紀』を読んでいたとすれば、漢文を読んでいたことになろう。
  『日本書紀』に、「居神」が出てくるのは5箇所である。その一部を前後を省略して「居神」を記した部分のみ原文と現代語訳を記した。
  先ずは、「巻第一 神代(上)」に出ている。Img_20180805_0001
 
    是即畝丘樹下所居之神、號啼澤女命矣、遂拔所帶十握劔、斬軻遇突智
    爲三段、                             (巻第一、神代(上))

  現代語訳をすると、「畝丘(うねお)の樹の下に居る神で、名前を啼澤女命(なきさわめ)と言います」となり、原文の「居之神」は「居る神」と訳される。
  前項で記した『子安地蔵尊由緒書』の、「居之大明神」と関連するのであろうか。興味深い。
  この「泣澤女命」を祀った畝尾都多本(うねびつたもと)神社(橿原市木ノ本町宮脇)は、「泣澤女の神の社」と題した石碑で、次のように説明している。
Ikami_unebita_2
     泣澤女の神の社                    (右写真、「泣澤女の神の社」碑)
    此の神社は、古く古事記上巻約1250年前、香山の畝尾の木本に坐す名は泣澤
    女神、日本書紀畝丘樹下所居神で、延喜式神名帳畝尾都多本神社鍬靫、万葉
    集巻二或書の反歌、石長比売神は寿命を司り、泣澤売神は命乞の神なり、春雨
    秋雨等語源的に澤女は雨に通ず水神なり
                        (畝尾都多本神社「泣澤女の神の社」碑文)
                       
  「泣澤女神」について、『古事記』は「座す神」と記しているようである。「座す」は、
「居(おわ)す」と同意であろう。
  次いで、読売新聞が記した「巻第五 崇神天皇」の項である。

   是時、神明憑倭迹迹日百襲姫命曰「天皇、何憂國之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣」
   天皇問曰「教如此者誰神也」答曰「我是倭國域内所居神、名爲大物主神」    (巻第五崇神天皇)

   この時、倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)に神が憑いて言いました。「天皇よ、どうして國が治まら
   ない事を憂うのか? 若し私をよく敬い祀れば、必ず國を平穏にしよう」崇神天皇は問いました。「そのよ
   うな事を教えてくれるのは、どこの神ですか?」神は答えました。「私は倭國(ヤマトノクニ)の域内(サカイ
   ノウチ)に居る神、大物主神(オオモノヌシノカミ)という」                (巻第五、現代語訳)

  現代語訳では「居る神」とあるが、原文は「居神」である。
  この他に『日本書紀』は、3箇所に「居神」を記している。
  それらの「居之神」1箇所と、「居神」4箇所を整理すると次のようである。

   『日本書紀』巻第一 神代(上)     「泣澤女の神」               畝丘樹下所居之神
   『日本書紀』巻第五 崇神天皇     「倭迹迹日百襲姫命」           倭國域内所居神                                                         ・  『日本書紀』巻第九 神功皇后(二)  「撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命」  折鈴五十鈴宮所居神                                                  「幡荻穂出吾」                尾田吾田節之淡郡所居神
                                  神功皇后(三)   「表筒男・中筒男・底筒男」        水葉稚之出居神
                                                                                              
  「居神」は、「居る神」と現代語訳されるが、原書は漢文で「居神」である。
  「居神明神社」は、これら『日本書紀』の「居神」からの命名と考えたが、どうであろうか…
  そして、5箇所中3箇所が女神を記し、神功皇后も女帝であることも注目される。

  3、お名前の「居神」さん
  以前、『姓氏家系大辞典』(太田亮・著)で「居神」姓を調べたが記載はなかった。念のためネット情報で姓氏の「居神」さんを検索すると情報が2つある。「お名前」テレビ番組の影響であろうか。
 
             名字由来ネット            日本姓氏語源辞典
   全 国    約200人   21,759位       約200人  22,360位
   兵庫県     約140人    3,975位         約120人

  そして、居神姓の個人名では、ネット上に次の人たちが登場している。  
   居神 浩    神戸国際大学             
   居神 凌太  高知工科大学学士論文     
    居神麻衣子 京都大学IPS研究所・,大学院生
   居神 光男  府中市議会議員
   居神 孝治  熊澤商事㈱課長(福井市)
                               
  3人が大学関係者。居神さんは学者系であろうか。
  また、淡路島鳴門タクシーのネット情報に、「村上邸のしだれ紅梅(藤牡丹)」が見える。
  その中で、「居神さん」宅の「しだれ紅梅」が紹介されている。淡路島にも居神さんがいる。
  「名字由来ネット」では、居神姓の由来は不明としているが、「日本姓氏語源辞典」によると「兵庫県南あわじ市福良甲の小字居神が発祥」とある。
  福良(ふくら)甲の小字名に「居神(いかみ)」があった。この地名から「居神」姓が起こったという。
  なるほど、前記兵庫県の居神姓約120人中、南あわじ市が約100人で、その内福良甲が約50人、福良乙が約20人、福良丙が約10人とある。(日本姓氏語源辞典)
  しかし、南あわじ市の歴史で、豪族や武将の姓に「居神」は見当らない。8項で福良訪問を記すが慈眼寺ご住職の南岳利英師は、同寺過去帳の「居神姓」で最も古いのは、享保時代(1716~35)であると教えられた。
  ただ、一般庶民で墓などの記録が残るのは江戸時代からで、それ以前の記録は稀であろう。
  いずれにしても「居神」姓は、地名「居神」から生じたとする「日本姓氏語源辞典」の見解は妥当で、比較的新しい姓氏と思われる。

  4、淡路島にあった「居神明神社」
  ネットで、「南淡路の神社」を検索すると多くの神社名の中に、「居神(いかみ)明神社」を記している。

     (名称)     (祭神)    (所在地)     (摘要)
   居神明神社  丹生津媛命   福良居神   居神明神           (南淡路の神社)

  「居神明神社」が存在し、祭神は「丹生津媛命」(にうつひめのみこと)で、所在地が「福良居神」とある。
  3項で記した福良甲の小字名「居神」であろう。ただ、不思議なことに当市図書館の神社関係書籍や地名辞典等を調べても、居神明神社も地名「居神」も見えない。
  唯一、『角川日本地名辞典』が、「三原郡南淡町」の沿革(中世)の中に記す、次の記述に気がついた。
  
   高野山領であった福良に「鳰」(にお)という地名があり、居神(いかみ)に丹生明神が祀られた。 
                                                (角川日本地名辞典28兵庫県)

  福良の鳰(地名)は高野山領で、その地の「居神」に「丹生明神?が祀られた」という。
  このことについて『淡路の歴史』に、「貞応2年(1223)作成の『淡路国大田文(おおたぶみ)』が、賀集庄と福良庄を「高野山宝幢院御領」とある。「大田文」とは、鎌倉時代に国単位で作成された公領や荘園別に、土地面積や所有関係などを記した土地台帳ともいうべき文書で、国の重要文化財に指定されている。
  「居神」の地が高野山領であったことから、「丹生明神」が祀られたということだろう。残念ながら、高野山宝幢院は明治初期に廃絶している。
  高野山には、全国の丹生神社総本山で丹生津媛命が鎮座する「丹生都比売神社」Igami_niutuhimezou_2
があった。祭神の丹生都姫命は、ネット検索で次のようなことが分かる。
  「丹生都売神」(にうつひめのおおかみ)とも言われ、弘法大師(空海)が始めて高野へ登った時に、「我は丹生津姫、我が子は高野童男(ふとな)」と言ったという。
  丹生の「丹」とは、丹砂あるいは水銀のことで、古代において薬・塗料・染料・顔料に使用される重要な資源であった。丹生都姫命は、その鉱物資源採取を生業とする丹生氏の奉じた神とも言われている。            (右画像、推定「丹生津姫命」)         
  一方、丹生都姫命は水神で、高野山麓天野の地が紀ノ川一の水源地で、空海が丹生津媛命から譲り受けたという神領は、有田川・貴志川・丹生川・鞆淵川の流Igaminiutsuhime
域ほぼ全域を占めていたという2説が言われている。
  いずれにしても、丹生津媛命を祀る高野山北西の天野盆地に鎮座する「丹生都比売神社」(にうつひめじんじゃ。別称、天野天社・天野四所明神)は、全国に末社約180社を数える総本山である。
                  (右写真、丹生都比売神社楼門。国重要文化財)    
  『日本書紀』巻第一「国生み」の項に、弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が結婚し、最初のお産で「まず、淡路洲(あわじしま)を胎盤(えな)として生まれた。
  これを二はしらの神は喜ばれなかったので淡路洲(吾恥(あはじ)の意味)というのである。そこで次に、大日本(おおやまと。日本、これを耶摩謄(やまと)という)豊秋津洲(とよあきつしま)を生まれた。次に伊豫二名洲(いよのふたなのしま。四国)を生まれ、次に筑紫洲(つくしのしま。九州)を生まれた。(後略)」とある。
  淡路島は神話の始まりに登場し我が国の始まりでもあり、「居神」地名や「居神明神社」、それにお名前の居神さんを含めて、「在るべき所に在って然るべき」と言えよう。
  福良町の変遷を辿ると、昭和30年に南淡町に福良町と沼島村が吸収合併して南淡町が成立、平成17年に南淡町に三原町等が合併して南あわじ市が成立している。この間、福良町は福良甲・同乙・同丙と三分割しており、居神は福良甲居神だったようだが、「居神」小字名は現在は殆ど見えない。
  紀元前473年、中国の呉は越に滅ぼされ同334年、越は楚に滅ぼされた。この様な国の乱れの中で、金属採取に長けた越人を交えた一族部民は呉王女姉妹を奉載し、まさに呉越同舟で新天地の倭国へ向かった。
  大日女姫(おおひるめ)と稚日女姫(わかひるめ)姉妹は、南九州に上陸。姉の大日女姫は、この地で伴侶を得て留まり、後に天照大神と呼ばれる女神の原型となった。
  妹の稚日女姫はミズガネ(水銀)の女神と讃えられ、丹生都Igami_nyuuhime_1
比売神の原型となった。 (右図版。丹生津媛命、通過経路図)
  稚日女姫を奉載した一族は熊本の八代や佐賀の嬉野で水銀鉱脈を見つけ採掘した。さらに大分でも大きい鉱脈を発見している。姫と一族は移動を続け海を渡り四国に、一部は広島に移動し、その一族は石見・出雲や播磨へと進出している。
  丹生都比売一行は、その後も四国各地で鉱脈を発見・採掘を行いつゝ移動を続け、淡路島を経由、紀ノ国(和歌山)に上陸する経過は、中央構造線と呼ばれる断層に沿った経路であるImg_20190114_0002
ことが分かる。その断層には、水銀鉱脈が秘められていたのであろう。 
  こうした丹生津媛命の足跡には姫を祀る神社が建設され、その数は36都
府県223神社を数える。     (右表、丹生津媛命を祀る都府県別神社数)
  この丹生津媛命の神話は『古事記』にはなく、『播磨国風土記』や『豊後国
風土記』等に記され、『日本書紀』の一部「天野祝」も相当するとの説もある。
  丹生津媛命の話が長くなってしまったが、本項冒頭の「居神明神社」は、Igami_mamasannmikosi
どうも「丹生神社」であるらしい。というのも、居神明神社の写真が見つからなかったが、「居神明神社へ巡行するみさき神社のママさん御輿」とキャプションのついた写真に出会った。  (右写真、居神明神社へ巡行するママさん御輿)
  「居神明神社」の存在は、間違いない。
  しかし、「福良町字居神」の小字名は既に消滅しているようである。
  その福良町字「居神」こそ、『日本書紀』からの命名と推定するのだが…

  5、地名「福良字居神」について
  ここまで少なからず疑問も生じたことから南あわじ市に問い合わせ、「福良学教室」で活動された太田良一氏を紹介された。「福良学教室」とは、南あわじ市福良に関する「何でも学」を平成23年度から、同27年度まで5年間にわたって学び活動したグループで、「瀬戸の潮みず交流広場(福良地区県民交流広場)事業」の一環であるという。その5年間の活動を収めたDVDを、太田氏に送っていただいた。
  以下は、そのDVDに収載の記録資料を引用させていただく。
  先ず、地名「居神(いかみ)」について、「地名・字名」の項で次のように記している。

   ○「居神」             (右図版、福良字限大図)Igami_hukuraikami2
   居神明神社を祀る地名で、祭神は水神(みかみ)であり、
   これが居神に転訛したとの説が有力である。
   この辺の山を三上山と言うが、本来は御神山である。
   祭神は罔象女(みずはのめ)命、丹生津媛(にうつひめ)
   命で、明神社の裏に巨石があり石下より清水が流れ出
   ている。(福良学教室。平成24年度第2回)                       

  居神明神社を祀る地名で祭神は水神?(丹生津媛命では)とある。小田原の居神神社も「水神」を祀り、現在は「すいじん」と呼ばれているが、Igami_hukuraikami2
本来は「みかみ」か、「みなかみ」であったとも考えられる。
  そして「居神」は「みかみ(水神)」からの転訛とあるが、丹生津媛命は本来「水銀
の女神」とあり、断定は避けたい。   (右図版、『福良字限大図』「居神」部分拡大)
  仮に水神転訛説にしても、何故「居神」なのだろうか。
  小田原では「井神」を言われる人がいるが、水神ならば「井神」が相応しい。
  「居神」とあるので、『日本書紀』からと思うのだが…
  そして、現代の地図に「居神」字名は見えなかったが、明治初期と言われる『福良
字限(あざかぎり)大図』が、「居神」字名を記している。
  里の区域部に2箇所と山の区域部に1箇所、「居神」が見える。
Igamimyouzinnzya_hukura  次いで、「向谷居神」という地名にも出会う。

   ○「居神明神社(向谷居神)」 ・        (右写真、居神明神社拝殿)
   紀伊の人が16人、神を奉じてこの地に入植し、海端に丹生津媛命を祭
   神とする福良最古の社を造ったと伝えられている。この地で朱砂の採掘
   がなされていたが、大津波で人家80軒が流失したとの伝承がある。                                        (福良学教室。平成24年度第4回)
Igami_niuzinnzya2
  居神明神社は、「向谷(むかいだに)居神」とある。
  向谷は、福良中心地から見て福良湾を隔てた半島にあることから「向谷」と
呼ばれている。「丹生津媛命を祭神とする福良最古の社」とあるが、「朱砂(水銀)の採掘」を主業とする人家があったという。  (右写真、居神明神社本殿)
  さらに『福良むかしむかし』も、地名「仁尾」(にお)の説明で水銀の採掘場を記している。                   
                              
   仁尾
   水銀及び朱をとる朱砂採掘場であると伝える。朱砂は水銀と硫黄の化合物、即ち硫化水銀で鉱土は美し
   い赤色をしている。現在、朱というと印肉の朱や橙色というか昔、朱という真っ赤で強いマルーン色をいう
   た。昔は採掘技術も幼稚で深鉱採掘が出来ないので、表土から僅かの深さを掘れば他に移る。採掘場
   または精錬場には必ず「丹生津媛命」、即ち水銀媛を祭神として祀る。丹生津媛命に因んで丹生・丹歩・
   仁保等があって、福良の「仁尾」もその類である。(中略)
   仁尾はまた「鳰」とも書く。鳰は、かいつぶりの事である。水に入る鳥であることを示す字である。(中略)
   鳰が仁尾になったという説、これは肯けると思う。   (福良学教室。平成23年度第6回)

  「仁尾(鳰)」も、朱砂採掘場であった。さらに、「赤坂」(赤坂地蔵堂の説明は割愛)という所にも朱砂の採掘場があった。何と、福良には向谷居神と仁尾、そして赤坂の3箇所に朱砂採掘場があったという。
  やはり、「居神」を「水神(みかみ)」の転訛と断定することは、一考を要するであろう。

  6、福良の古文書は、水神を祀る「丹生明神社」
  福良学教室は「福良の古文書」として、次の3編を記している。
  先ず、文政八年(1825)成立の『淡路艸』(あわじぐさ。藤井容信・彰民、共著)が、水神について記している。

   水神(みかみ)
   浦の東の浜辺にて小祠あり。罔像(みずはのめ)の神を祭る也。村老曰く、賀集山八幡の摂社、丹生明
   の旧知地也。故に此神、八幡に移りしより、此地、行宮(あんぐう)を造り、祭日に爰まで神輿を遷座す
   る事、恒例なり。                                        (淡路艸)                                                          

  「罔像の神」を祀るが旧知の「丹生明神」の旧地であり、「丹生明神」が八幡社に移ったことから新たに、「行宮(あんぐう)」を建造したという。行宮とは、皇帝もしくは天皇の行幸時、或いは政変などの理由で御所を失陥した場合、一時的な宮殿として建造または使用される施設をいう。頓宮とも書き(かりみや)とも言った。
  似た言葉に行在所(あんざいしょ)・御座所がある。神社によっては行宮を持つものもあるという。
  この「行宮」が居神明神社であろうか。とすると、福良学教室が記した前述の居神明神社が、「福良最古の社」は当たらない。八幡社に移った「丹生明神」の方が古い。
  そして、当時の地名も書き上げている。「水神谷」(みかみだに)を記しいるが、「居神」はない。
  次に、安政四年(1857)刊行の『味地艸(みちくさ)』(小西友直・錦江、共著)も、水神の記述である。

   水神 添江(そうえ)も南並北向向谷口に丹生の祠あり、乾向、古老の伝説に此神比目魚に乗て飛行し
   八幡村に移り給ふ、今の八幡村八幡の摂社丹生明神此也、其旧地にに(ママ)して祭日には八幡村より
   神輿をこゝに迂座する事恒例なり、
       仕ル書物之事
   一、私共子孫先年より福良之内居神百姓に而、御座候所に明神八幡へ御飛びに成、則御供仕り罷越候
   に付福良山之内、長深山・志や谷・大すけ谷・小すけ谷、右四ヶ所の所へ御入に成為其札物榊柴一荷箸
   木壱荷毎年庄屋殿へ仕、其上福良八幡の宮やかさり仕、霜月十五日の祭りに御輿の役人に罷出候事
      明白也、然所に我々一門数多に罷越候に付右の山へ大勢入申事御留に成候に付、福良左衛門殿を相
   頼御言申上仁王門の中札に而右の山へ御入に成忝奉存候依而為後日証文如件
                                居神百姓 助右衛門
                                同       次郎兵衛
      庚子慶安三年卯月二十一日
                                         八幡之内組頭
                                       惣左右衛門
      福良御庄屋
             藤四郎様
      同     甚  助様
       御としより衆
             重大夫様
      同     仁兵衛様
      同     弥次右衛門様                                                       (味地艸)

  向谷に「丹生の祠」があったが、古老の伝説では「丹生の神」が平目に乗って八幡村に飛び移り、丹生明神社になったという。「行宮」の記述はないが神輿が迂座(神道用語か)するなど、前書(淡路艸)とほぼ同様のことを記している。
  この平目に乗って移ったのが南あわじ市福良甲の櫟(いちのき)神社や、賀Igami_mukaiya-hidari
集八幡(かしゅうやはた)の丹生神社(にうじんじゃ)と言われている。
  そして、居神百姓が福良の庄屋と年寄衆に誓約書を提出しており、「居神」
の小字名が知れる。ただ、「庚子慶安三年」とあるが、慶安三年(1650)は庚寅である。「庚子」は万治三年(1660)である。どちらの間違いであろうか。
  いずれにしても、江戸時代初期には「居神」の小字名は存在していた。
  この『味地艸』の挿絵が「丹生社」を記している。その左ページを右に示したが、右端に「水神谷」その左に「丹生社」とある。   (右図版、『味地艸』挿絵)
  さらに、あと一冊、明治27年の『淡路國名所圖會』(暁鐘成(晴翁)著、松川半山・浦川公佐、画)も、「水神」を記している。

   水神(みかみ) 
   同浦の東海浜にあり、むかし丹生明神の社ありしが加集山に移りなひて今八幡村八幡宮の摂社と崇む
   その旧地なるを以て今尚水神と地名せり、丹生明神は則ち水神なる故なるべし。   (淡路國名所圖會)
                                             
  明治27年も「丹生明神の社」で、「丹生明神は則ち水神」とある。
  以上3書、いずれの古文書も「丹生明神」を記し、「居神明神社」の記述はない。
  ただ気に掛かることが、いずれも「水神」の説明の中で「丹生明神」を記していることで、丹生明神をタイトルにした説明でないのはどういうことであろうか…。本来「丹生津媛命」は水銀の神である。
  それを「水神」とするのは、島は川が少なく本州以上に水が貴重であったからではないだろうか。水への願望が、「丹生明神」を水銀の神から、水神へと変えてきたのではないだろうか…
  そして、決定的なことは明治35年の『三原郡神社明細帳』である。Igami_hukuraniuzinnzya
  明確に、「福良町ノ内福良浦字居神 無格社 丹生神社」を記している。
  福良学教室最終回の「福良の神々」と題した講座でも、丹生神社(居神明神社)と記している。      ・             (右図版、三原郡神社明細帳)
                       
   ③丹生神社(居神明神社) 
     祭神  丹生津姫命  よみ にうつひめのみこと   
     祭主  居神明神講          (福良学教室。平成27年度第6回)
                      
  明神とは、神仏習合における仏教的な神の称号の一つで、明治元年3月の「神仏分離令」における仏教由来の言語は取り除くよう指令された。この法令では、明神号自体は取り除くべき言葉とは示されなかったが、仏教関連用語と見られ使用する神社は激減した。小田原の居神明神社も、この時以降「居神神社」である。
  当初、私は福良の居神明神社も同様に「丹生明神社」からの改称を考えたが、既述してきたように江戸時代から「丹生明神社」であった。ただ、「丹生神社」とある。おそらく、「神仏分離令」以降であろう。
  この「三原郡神社明細帳」から、居神明神社は「丹生神社」が正式名称と言えるであろう。というより、当初から公式には「丹生明神社」であったが、地元民は居神明神社を称してきた。
  現に「福良学教室」でも、何の衒いもなく「居神明神社」を記している。方言的名称とでも言えようか。
  では何故、地元の人たちは「居神明神社」を称しているのであろうか…
  また、何時頃から「居神明神社」と言われるようになったのであろうか…
  おそらく、字名「居神」が称されてからであろう。字名「居神」は、江戸時代初期には確認できた。

  7、「居神明神社」は、地元民の別称
  何とも不思議で、兵庫県立図書館に問い合わせた。
  種々資料を示され、居神明神社も字名「居神」がいつ頃から言われ始めたかを明確に言及している資料は見当らないとのことでしたが、示された次の3点の資料から、私見をまとめさせていただく。
  先ず、昭和54年3月・刊の『三原郡史』は、次のように記している。

   丹生明神 (前略)郡内に次の通り丹生明神がある。
      ①南淡町福良居神 丹生神社           ②南淡町賀集八幡 八幡神社に分祀
      ③南淡町賀集野田 丹生神社           ④南淡町賀集福井 大日寺境内(大日川の上流)
      ⑤三原町八木馬廻 天野神社(成相寺境内)  ⑥三原町市三条   戎神社に合祀
   これらの丹生明神がすべて古代から祀られていたとは言えないが、福良の居神はもと水神と呼ばれ、
   (中略、『淡路常盤草』引用)今も居神に丹生神社が祀られ、賀集八幡神社の本殿には丹生明神と八幡
   神が相殿で祀られているが、丹生明神が先に祀られていたという。(後略)           (三原郡史)

  前段の「丹生明神」の説明は割愛したが、三原郡の丹生津媛命を祀る神社の第一番に福良居神の「丹生神社」を挙げているのは、最も古いと見てのことであろう。いずれにしても昭和時代も「丹生神社」である。
  また、全体的には水神説を言っているが、(後略)で割愛したが松田寿男教授の水銀説も記している。
  次に、昭和59年10月・刊(昭12至15)の『兵庫県神社誌(附録)』の神社名簿である。

   丹生神社  丹生津姫命  福良町福良浦字居神                 (兵庫県神社誌・附録)

  福良居神の明神は「丹生神社」が正式名称で、「居神明神社」は別称というべきであろう。
  そして、「居神明神社」を記す同館所蔵資料では、『福良むかしむかし』(平成3年、前田勝一・著)のみと教えられた。勿論、福良学教室も『福良むかしむかし』は記していたが、次の記述は「DVD」にはなかった。

   居神明神社 
   おそらく福良で一番最初に祀られた神であろうという。その創祀伝説には各説ある。
   紀伊の人が十六人、この神を奉じて、この地に移住した。
   これが居神百姓の祖である。社を造った処が海端で昔は、ここまで海であったという。
   今一つは古記(萩原半翠翁は神代記という)に、阿万と福良の境に三上山があって、神が天降って、この
   地に鎮座したという。三上が水神に、次に居神になったというのは地名の項でも書いた。三上山は日本
   国中にあって、御神山のことで同じ話が出てくる。祭神は月読命、罔象女命、丹生都媛命ともいう。
   罔象女命は伊弉冉命が火の神を生む時、火のために焼死する際、土の神、埴山媛と水の神、罔象女を
   生む。水の神は祈雨、止雨の神で農業の神とする。
   丹生都媛命は、天照大神の妹で(また姉とも)稚日女命とも申す。
   当社の場合、祭神を丹生津媛命とするのが強く、当社を丹生明神社とも別称する。
    丹生津媛は水銀姫ともいい、古代、朱砂採掘を業とする丹生族の祖神とする。朱砂採掘の成功を祈っ
   て、その地に丹生明神を祀る。昔は技術力も少く表土浅く採掘して、また次の採掘場を求め、そこでも丹
   生明神を祀る。従って現在丹生社が各所にあるのは、その為であるという。(中略)
   当社には今、本殿はあるが、もともとこの背後にある巨石を御神体としていた。この石は脊後の山から姿
   を出して、この奥、どれだけ大きい石だろうかと思わせていた。そして、この巨石は常に水に濡れて、ポタ
   ポタ水滴を落していた。また、この石にしめ縄が張られ、いかにも神々しく且つ幽遼の感もあった。
   処が戦後、この上に道路が出来て、水も涸れて巨石と思った石も、案外小さい物に見えてガッカリした。
   昭和四十七年の台風で拝殿が倒壊し、四十九年、今のように復旧した。
    当社は福良の市坊から遠く、昔日の感は次第に薄れ年に一度、福良八幡神社祭礼の日、神輿巡行もあ
   るが、今、この辺の住民の信仰に守られる小社となった。(後略)            (福良むかしむかし)

  『神代記』にあると言われているが、同記が「居神明神社」を記しているとも思えない。
  祭神を「丹生津媛命とするのが強い」と言われながら、「丹生明神社」を別称とするのはどうであろうか。
  管見の限り「居神明神社」を正式名称とするのは、この書籍のみである。私は「居神明神社」は別称と思う。その居神明神社は、小字の「居神」を神社名としたのであろう。
  その小字名の福良町「居神」であるが、現在は殆ど使われていないようである。
  いずれにしても、この書籍から「居神明神社」が言われ始めたとは思えないが、これまでの史・資料から、案外「居神明神社」も新しい呼称と思えるが、どうであろうか。
  前田勝一氏は全てをご承知の上で、敢えて「丹生明神社」を別称とされたのではないだろうか。
  そして、字名「居神」についても、次のように記している。

   居神
   居神明神を祀る地が居神である。居神明神の祭神は一説では水の神である処から水神と称し、居神に
   転字したという説。また、この辺の山を三神山というた。三上山は余所にも沢山ある。神が天降った山
   で、本来は御神山である。これらのことも「居神明神」で書いた。                (福良むかしむかし)

  「居神明神」から、字名「居神」が称されたようにも窺えるが、私は字名「居神」から、地元民のみが別称として居神明神社を称したと考える。しかしながら、その別称も4項冒頭に示したネット情報ではあるが「南淡路の神社」が、公然と「居神明神社」を記しているのである。
  次項で福良探訪を記すが、この神社は宮司が常在しておらず、神社名を記す標柱も説明板もない。
  そのため、神社庁や行政には書面上「丹生明神社」が継承されているが、地元民にその名称は忘れ去られ、地名から「居神明神社」を称し、結果的に別称と言わざるを得ないのであろう。
  なお、江戸時代の福良は徳島藩領であった。念のため、徳島県立図書館にも字名「居神」、あるいは「居神明神社」を記す史料の存在を問い合わせたが、多くの史料を提示され見られないとのことであった。

  8、 福良を訪ねて  P10000101
  福良の居神明神社については、福良学教室学級委員の太田良一氏に大変なご協力をいただいた上に、福良訪問をお勧めされておりました。
  福良調査の私なりのまとめが一段落すると、「居神明神社」を別称とした
ことに、他所(よそ)者の机上調査のみの勝手読みが懸念されたこともあり、平成31年3月5日、福良をお訪ねしました。    (右写真、居神明神社拝殿)
  山陽本線の舞子駅で乗り換えた高速バスが、福良に近づくと農家の長屋門が点在し、裕福な農村風景が思い浮かびます。道の駅「福良」に11時着、P10000141
昼食まで車窓から見えた福良図書館に立ち寄る。近代的な素晴らしい図書館で、郷
土資料の本棚は鎖錠され、閲覧は申し込み制で資料の貴重品扱いが知れる。
  13時に福良公民館で太田氏にお会いして、彼のマイカーに会長の徳田壽春氏と
委員の冨永博雄氏ご同道で、ご案内いただいた。       (右写真、居神明神社本殿)
  先ず、最大の目的・居神明神社に向かわれた。出発後5分程で農道脇に駐車、徒
歩で明神社に向かう。山裾の藪際を3・4分程で明神社に着く。古びて半ば放置され
たような拝殿に神社名も説明板等もない。裏に廻ると本殿は渡り廊下で繋がれ、屋根で覆われ大切にされていることが分かる。背後の巨石に注連縄、ご神体である。
前田氏は「思ったより小さくてガッカリした」と、記していたが一辺1.5㍍程か。P10000081
  思った以上に福良中心地から近かったことをお訊ねすると、福良湾は明治
期には塩田が盛んであったが、その後、湾が埋め立てられた。従って、当時
は湾を迂回して来る所で、「向谷」と呼ばれていたが、現在はその面影はなく
直進できるので極めて近くなったと教えられた。    ・ (右写真、櫟神社拝殿)
  次に向ったのが、居神明神社から祭神が平目に乗って移ったと伝えられる「櫟神社」である。大きな石の鳥居が立派だ。拝殿は解放され拝観自由で、鴨居に「丹生津姫命」の画像が飾られ、渡り廊下先の本殿も目の前にある。P10000091
  拝殿・本殿ともに居神明神社と同規模か若干小さく思える。拝殿前の駐車場横に
大きな倉庫があり、「だんじり庫」であるという。    (右写真、丹生津姫命画像と本殿)
  最後に案内されたのが賀集八幡神社である。
  以前は福良町よりも賀集八幡村が大きかったと太田氏は言われる。参道は200㍍ほどであろうか桜並木である。鎌倉鶴岡八幡宮若宮大路の段葛を思わせられる。
  気のせいであろうか、どこも鳥居が大きく目立つ。 
  参道の突き当たりが拝殿で神社には珍しい寄棟造りで、寛永八年(1631)の棟札があり、兵庫県の重要文化財に指定されている。また、徳島城主蜂須賀忠英の信仰篤く、本殿・拝殿・摂末社の再建が言われている。(右写真、賀集八幡神社参道) Igami_kashuuhachiman_jinjya
  拝殿の奥、右に八幡社と左に丹生神社が併設されている。
  かっては、この丹生神社御輿が、居神明神社に巡行していた、とあった。
  丹生神社拝観中、宮司にお会いした。同行の徳田壽春氏が陶芸家でもあり、丹生神社狛犬の補修を依頼されているそうで話が弾んだ。
                        (右下写真、右・八幡社と左・丹生神社)
  この後、太田氏から人形浄瑠璃を勧められ、15時の最終公演に間に合う Igami_kasyuuhatimann_1
よう道の駅「福良」に戻った。流石に本場の人形浄瑠璃、演し物も「傾城阿波
の鳴門・順礼歌の段」で人形は元より語りの素晴らしさを堪能した。
  そして、18時半から老舗旅館の「やぶ萬」で、徳田氏と太田氏に福良学教
室級長で慈眼寺ご住職の南岳利英師と会食、21時半までたっぷり3時間、
郷土史談義に話が尽きなかった。     ・ (右下写真、人形浄瑠璃開演前)
  皆様のお話から源氏と平家では、福良では平家贔屓に思えた、おそらく、P10000071
徳川と豊臣では豊臣贔屓であろう。郷土史を愛好する者、当たり前と言えば
当たり前のことである。兎に角、郷土史を満喫する旅であった。
  なお、懸念された「居神明神社」名が別称であろうとする私見については、
ほぼご了承をいただけた。ところが意外と言って良いのだろう か、日本書紀
の「居神」については、ほとんど関心を示されなかった。みな様、歴史探究に
一家言お持ちのようである。       
  しかし、福良には神社が多い。道の駅から「やぶ萬旅館」に向かう途中、右Igami_yasaka
側200㍍ほどの所に福良八幡神社・福良護国神社・福良八坂神社各々の参道石段が並び、八坂神社斜向かいが「やぶ萬」である。接待さんにお聞きすると、石段を登ると上では一緒になるとのこと。小田原では寺院は並んでいるが、神社が並んでいることはない。所変われば品変わる、である。    
                           (右写真、福良八坂神社参道石段)
  最後に、福良をご案内いただいて「居神」地名を記す交差点や看板等には、
全く出会わなかった。すでに、「居神」地名は死語となっていることを痛感した。

  おわりに
  大部の『日本書紀』に、「居神」を記すのが5箇所とは思った以上に少なかった。少ないがために、「居神神社」名が普及しなかったとも言えよう。改めて、「居神」を神社名としたであろう北條氏綱に敬意を表したい。
  本ブログ3項の「居神姓」と4項の福良の居神明神社と小字名についてはネット情報で、5・6項の多くは「福良学教室」の活動記録資料(DVD)である。改めて「福良学教室」にも敬意を表したい。
  そして、8項の福良訪問では太田様始め、徳田様・冨永様・南岳様には大変お世話になり、有意義で愉しい一時を過ごさせていただきました。心より御礼申し上げます。
  また、現在では福良の小字名「居神」が死語に近いことを痛感しました。全国的にP1000436
明治維新以降、自治体の合併・町名変更等の変遷が激しい。こうした地名の歴史も分
かり易く後世に伝えてゆきたいと願っている。一例として、小田原では「旧・町名碑」を
設け、町名と簡略な由縁を刻銘している。            (右写真、青物町・町名碑)
  冒頭に小田原の居神神社は不思議な神社と記したが、結局、福良の「居神明神社」もいつ頃から言われ始めたのか…。完全解明ができたわけではない。
  小田原の居神明神社は、「為賀美三也宇自武也志呂」(『新編相模国風土記稿』)と濁音読みである。居神姓も、ネット情報の「日本姓氏語源辞典」では、伊神・井上・伊上
・位上・伊賀美等、いずれも「イガミ」の濁音読みを記している。しかし、福良では地名も明神社名も、姓も「いかみ」の清音読みであるという。謎解きテーマの尽きることはない。
  神社名・小字名を含めて「居神」さん命名の確たる由来は判明していない。改めて情報のご指導をいただきたく、お願い申し上げます。
  なお、本ブログは(その24)「福良と小田原の居神明神社名の由来」を要約し、福良訪問記を加筆した改訂版であることをご承知いただきたい。
                                                       郷土士 

☆末尾のコメント欄は、非公開とさせていただいています。ご感想・ご意見などいただければ嬉しいです。
  なお、ご許可いただければ、その時点で公開とさせていただきます。

参考文献
  新編相模国風土記稿第二巻   編集校訂・蘆田伊人      雄山閣         S45.9
  「子安地蔵尊由緒書」下書                 居神神社・蔵
  読売新聞夕刊                       読売新聞社       H.30.7
  日本書紀(上)             監訳者・井上光貞       中央公論社           S62.3
  名字由来ネット                           INT            
  日本姓氏語源辞典                          INT
  南淡路の神社                            INT
  福良学教室活動記録        HTMLドキュメント       福良学教室      H28.3
  角川日本地名辞典28兵庫県   日本地名辞典編纂委員会 (株)角川書店     S63.10
  淡路の歴史              大阪淡友会           燈影社         S52.4
  淡路艸             藤井容信・彰民、共著              文政8(1825)
  味地艸             小西友直・錦江、共著              安政4(1857)
  淡路國名所圖會         暁鐘成(晴翁)著、松川半山・浦川公佐、画     M27.
  三原郡神社明細帳                                 M35.
  三原郡史           三原郡史編纂委員会・編   三原郡町村会事務所       S54.3 
  兵庫県神社誌・附録 昭12至15 兵庫県神社会・編        臨川書店                S59.10
  福良むかしむかし          前田勝一・著         前田勝一                  H3.

(その36)検証、居神明神社名の由来
  初  稿 2018. 5.12

郷土士の歴史探究記事
その1 江戸の遊廓「吉原」を開いた庄司甚右衛門の謎  その2 良正院督姫の誤伝を糺す
その3 浄光院お静の生涯と保科正之             その4 日本最古の水道「小田原早川上水」
その5 北條氏康室・瑞渓院と今川氏真室・早川殿     その6 『明良帯録』を書いた山形彦左衛門
その7 北條氏政室・黄梅院と武田勝頼継室・桂林院    その8 贈答品・進上品等にみる北條家の文化財
その9 北條家と世田谷吉良家(付、崎姫と香沼姫)     その10 北條五代を支えた女性たち(改訂)
その11 北条五代を支えた男性たち               その12 西国で存続した北條氏と伊勢氏
その13 早雲庵宗瑞の小田原入城、その秋は明応9年    その14 三浦義意を祀った北條氏綱と居神明神社
その15 幻の大森氏小田原城と大森時代の小田原宿    その16 北條氏綱と居神神社の「勝って兜」碑
その17 北條氏綱の小田原城と小田原の町づくり      その18 北條氏綱の三嶋大社と鶴岡八幡宮再造営
その19 小田原北條家と浅草寺の再興             その20 北條二代氏綱の江戸制覇と弁財天の勧請
その21 宗瑞継室狩野氏女と氏綱正室横江氏女の出自  その22 伊勢弥次郎(早雲庵宗瑞・弟)の生涯
その23 虎朱印「禄壽応穏」と北條氏の印判          その24 福良と小田原の居神明神社名の由来
その25 下堀方形居館跡の謎                  その26 北條幻庵宗哲の生涯
その27 北條氏の花押と家紋                   その28 歴博の中世文書展と小田原開府五百年?
その29 新編・早雲庵宗瑞の生涯               その30 北條氏綱、「贈従三位」を叙位される
その31 「初見虎の印判状」発給者と氏綱の家督継承    その32 大久保忠眞の「贈従三位」叙位
その33 九嶋から北條姓を許された玉縄北條綱成家    その34 玉縄甘糟氏は、北條氏家臣か ?
その35 居神明神社と三浦氏関係の新史料         その36 検証、居神明神社名の由来
その37 北條家の縁、徳川家康の側室たち          その38 高潔の武将・北條氏照と室・大石比佐
その39 もう一人の伊勢宗瑞・弟?             その40 北條五代「去る者は追わず、来る者は拒まず」
その41 能楽・宝生流家元の小田原来住            その42 「戦記物」の虚構と史実 
その43 崎姫と香沼姫、そして山木大方            その44 新説・まぼろしの崎姫




                                        




« 郷土士の歴史探究記事 その35 | トップページ | 郷土士の歴史探究記事 その37 »

趣味」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 郷土士の歴史探究記事 その35 | トップページ | 郷土士の歴史探究記事 その37 »