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2022年10月16日 (日)

郷土士の歴史探究記事 その77

                     新田義貞公首塚と新田堀江家

  小田原市東町4丁目(旧・網一色村)に、新田義貞公首塚があります。こうした新田義貞公の首塚と言われる場所が、全国数箇所に確認できます。
  歴史上の人物の墓は、供養墓や顕彰墓を含めると数箇所に確認され、何ら不思議なことはありません。しかし、義貞の首は1つの筈…。新田義貞の首塚に限って数箇所に確認できるのは、どういうことでしょうヵ…。
  また、義貞の妻とされる勾当内侍についても、諸説が言われており惑わされます。
  そして、義貞子孫の新田堀江家が、小田原北條氏に仕えていたとあることを私は始めて知りました。しかし、確定史料の発見が今後の研究課題です。なお、参考資料の赤字アンダーライン付き文字をクリックすると、写真と概略を記す説明文に移行します。
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     1、小田原市の新田義貞公首塚
     2、福井県坂井市称念寺の新田塚
     3、滝口寺の新田義貞公首塚碑と勾当内侍
     4、新田義貞の妻子と年表
     5、勾当内侍を祭る野神神社と菩提寺泉福寺
     6、船田入道再建善昌寺の新田義貞公首塚  
     7、新田義貞と勾当内侍墓所の異説地       (右、新田義貞公首塚宝篋印塔)                  
     8、新田堀江家は、小田原北條氏に仕える                 (R4.10.17)  
     おわりに                             (写真・図版等は、クリックすると拡大します) 
              
  1、小田原市の新田義貞公首塚
  『新編相模国風土記稿第二巻』は、◎網一色村○新田社の項で次のように記している。
  「社傳に延元二年(1337)新田左中将義貞、越前にて打死の後、其臣船田(義昌)入道、義貞の首級を捧持し東國に下向して爰に葬る。入道は名を久保明翁と改め、則此地に隠棲すとなり。故に今も立願する者は、久保明翁の子孫なる由告れば願望成就すと云、【太平記】を按ずるに、延元二年七月二日、義貞越前足羽にて討死の時、自ら首をかき深泥の中に藏せしを、越中國の住人、氏家中務丞重國、首を取て足利尾張守高経の実検に入れ、夫より京都へ上せ、獄門に懸らるとあり、且船田入道は義貞討死より前、建武二年(1335)正月京師の戦に討死せし人なり、然れば社傳信じがたし、又三州妙國寺傳を閲するに、義貞討死の後、宇都宮左近将監泰藤、其首級を奉じ、義貞の本國上州へと志し関東に下りしに、小田原驛に著し時、泰藤偶疾に臥す、依て其首級を瓶に収め、酒匂川の邊に埋む、後に新田明神と崇むとあり、三州碧海郡上和田村、法華宗本壽山妙國寺、元禄八年の記曰」として、前述の酒匂川の邊に埋めた経緯を記し、「則新田大明神と崇ける、泰藤の子孫に至て、此地を領すること、偏に新田大明神、當家の守護神と成給ふものならん歟、按ずるに、領主大久保氏は泰藤の裔なり、故にかく記せしなり。蓋此説を得たりとすべし(後略)」とも記している。
  結局『風土記稿』は、「新田社社傳」が義貞家臣の船田善昌入道と、新田義貞に属していた宇都宮泰藤が義貞の首を葬ったとする2説を記し、前説は『太平記』が「船田入道は義貞討死より以前に討死しているから、信じ難い」としている。確かに船田入道が久保明翁と改名して網一色に隠棲したとあるが、同地に久保明翁とその子孫の在住史料は見えない。後説は、江戸時代の小田原城主大久保氏は泰藤の子孫であることから、小田原領主になった縁も新田大明神が当家の守護神になってくれたからと『三州妙國寺傳』にあるから、「蓋此説を得たりとすべし」としている。
  冒頭に「新田義貞公首塚」写真を示した。高さ90㌢程であるが年紀が感じられる立派な宝篋印塔である。
  首塚柵外の左側に10基余、右側には20基余の五輪塔が並んでいる。家臣を祀っているのであろう大きなもので60㌢程、欠け落ちているものもあり歴史の年輪を偲ばせられる。
  天保十年(1839)刊行の『相中留恩記略』に、江戸時代の新田社の鳥居が東海道に三尺ほど出張っている様子が描かれている。歴代小田原城主は、駕籠を鳥居側に停め礼拝したとある。そのためでもないだろうが、東海道通行の大名も鳥居前では簾を上げ、礼拝したともいう。『東海道分間延絵図』によると、網一色村川会所の北側、東海道沿い左角手前にあった。
  この新田社は慶応三年(1867)に焼失し、明治26年に八幡神社(東町5丁目)境内に20221017_niltutasya
合祀されている。元禄八年(1695)に箱根底倉澤田氏によって奉納された「新田大明神縁起写し」が現存しているという。       (右、八幡神社境内の新田神社。R4.10.17
  『小田原地方新聞記事目録』によると、昭和9年1月16日、新田義貞600年祭に改葬挙式~酒匂村網一色の首塚から首級白骨を発掘。また、同年2月2日、酒匂村で「新田義貞公」首級を確認し、「新田神社」社殿を興す。とある。
  『小田原の史跡【川西版】』に、「昭和9年2月2日の新聞に、”酒匂村で「新田義貞公
首級」を確認し…”とある。石野瑛は著書『神奈川大観』の中で、「昭和9年1月14日、
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私は県の命と地元の依頼によって調べ、そのまま厳重に埋納した。恰もその年は建武
中興六百年にあたっていた」と述べている。    (右、「新田義貞公首塚」碑。R4.10.17
  この調査で「首級白骨」とあるが頭蓋骨とは記していない。当時はDNA鑑定はなく、義貞公の遺骨かどうかの断定はできなかったであろう。
  そして、「昭和36年に整備されて石碑等が建てられた」とある。最大高さ172㌢、最大幅136㌢の自然石の碑は、「小田原市長鈴木十郎・書」、裏面に「昭和三十六年三月 新田義貞公首塚復興委員会 撰文並書 中野敬次郎」の説明文が記されている。
  この筆者・中野敬次郎は、「義貞の墓と確認されたものは何処にもなく、この首塚を否定する材料もまたないようである」と、『かながわ風土記』に記している。 

  2、福井県坂井市称念寺の新田塚
  京都で敗れた義貞は越前(福井)へ落ち金ヶ崎城(敦賀市金ヶ崎町)へ入った。Nittahitotsuhikib
  しかしここも激しく攻められて義貞は転戦に次ぐ転戦。何とか盛り返したが燈明寺の戦いで38才の若さで戦死してしまう。                  (右、新田一つ引き紋)
  『太平記巻20』によると、暦応元年(1338)新田義貞は藤島城の救援に向かおうとした際、燈明寺畷付近で足利方の黒丸城の斯波高経軍と遭遇し、乱戦の中戦死したと
されている。義貞が戦死した知らせはすぐ称念寺(時宗、坂井市丸岡町長崎)に伝えられ、「さてハ相違ナキ義貞朝臣ノ頸也けりとて、屍骸ヲハコシニのせ、時衆八人ニかかせて葬礼追善ノ為ニ往生院へ送られ云々」と、時宗の僧8人が遺骸を同寺に運んだと記され、現在も「新田塚」と呼ばれる墓碑がある(往生院とは往生院長崎道場。称念寺の塔頭)。
  明暦二年(1656)、この付近の水田から偶然農夫が兜(鉄製銀象眼冑)を掘り出し、当時の藩軍学者井原番右エ門がこれを新田義貞のものであると鑑定したことから、この地が義貞の戦没地とされるようになったという。掘り出された兜は「伝新田義貞公着用兜」として、福井藩主松平家に献上された後、現在は義貞を祀る藤島神社(福井市毛家三丁目)の宝物となっているという。さらに万治三年(1660)、福井藩四代藩主松平光通(みつみち)は、「暦応元年(1338)閏七月二日 新田義貞戦死此所」と彫った石碑を建立、石玉垣をめぐらし、社殿の覆舎を造りました。このことからこの地は「新田塚」と呼ばれるようになったという。
  昭和40年代に土地中央は国の史跡として文化庁の管理となり、左右は福井市が管理する「新田塚公園」となったとある(「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地新田塚」福井県公式サイト)
  天保八年(1837)の五百回忌には、十一代将軍家斉が五尺(150㌢)余の墓石を再建している。この時、遺骨が残されていることを確認し、それまでの墓石を中に納めた現在の巨大な墓を再建したという。また、既述の「伝新田義貞公着用兜」の鉢裏には、「元応元年(1319)八月」の紀年銘があることから、井原番右エ門は義貞兜と結論付けたという(新田堀江氏研究)。

  3、滝口寺の新田義貞公首塚碑と勾当内侍
  京都の嵯峨野に小倉山滝口寺(浄土宗、京都市右京区嵯峨亀山町)がある。
  その山門を入ると、右・新田義貞公首塚碑、左・勾当内侍(こうとうのないし)供養塔の案内標識があり、新田義貞公首塚碑の前に家臣の名を記す燈籠が並び、その1つに船田入道の名もある(ニホンタビ)。
  勾当内侍は、鎌倉時代後期に後醍醐天皇の討幕運動に加わり、鎌倉陥落に功績のあった上野国の新田義貞へ天皇から恩賞として与えられ、彼の妻になったとされる。建武三年(1336)初頭、新田義貞は建武政権から離反した足利尊氏を、楠木正成や北畠顕家らとともに京都で破り、足利尊氏らは九州へ逃れたが、二月から三月にかけて義貞は尊氏追撃を行わなかった。
  その理由として、『太平記』では新田義貞は京都において勾当内侍との別れを惜しみ、出兵する時期を逃したとして、彼女が結果的に義貞滅亡の遠因を作ったとする描き方がされている(ウィキペディア)。
  『太平記』によると、勾当内侍は後醍醐天皇の女官で、新田義貞の妻の一人として登場している。新田義貞の寵愛を受け、琵琶湖畔の今堅田で新田義貞と別れ、京で悲しみの日々を送っていたが、義貞に招かれ北陸へ向かった。しかし義貞は足利軍の攻勢により延元三年/建武五年(1338)閏七月二日に越前国で戦死した(藤島の戦い)。勾当内侍は、杣山(福井県条郡南越前町)においてその戦死を知り、京都に帰り獄門にかけられた新田義貞の首級を目にして持ち帰り、その菩提を弔うために落飾して比丘尼になり、嵯峨にある往生院三宝寺(後、滝口寺)で義貞の菩提を弔って余生を過したことが描かれている。
  なお、勾当内侍とは南北朝時代の天皇に仕える女官のうち、「掌侍」という役職のことで名前ではなく本名は不詳。公家の世尊寺家の一族で、一条経尹あるいは一条行尹の娘、または一条行房の娘もしくは妹ともいう。この勾当内侍の父と伝わる行房も新田義貞に従い、北陸で戦死していることが記されている。
  ただ、勾当内侍と新田義貞との関係を記した史料は『太平記』のみであることから、南北朝時代が専門の歴史学者で福岡大学教授の森茂暁は、年代的な推定などから創作ではないかと考察している。
  また『太平記』における義貞が勾当内侍と色恋沙汰に落ちていたという時期は、実際は義貞が瘧病(おこりびょう)という名のマラリア性の熱病に伏せていた時期ではないかという説もあり、日本中世史と日本医学史が専門の歴史学者で日本医科大学名誉教授の奥富敬之や、日本中世史が専門の歴史学者で東京都立大学名誉教授の峰岸純夫らがこの説を支持している(ウィキペディア)。

  4、新田義貞の妻子と年表
  新田義貞の妻子は、諸説が言われており断定し難いが次のようにまとめてみた。

    妻 小田真知、天野民部橘時宣女、安東入道聖秀の女、安藤五郎重保(左衛門少尉)の女ほか
    子 義顕、義興、義宗、式部権少輔貞員、式部大夫義冬、嶋田義央(義峰)、熊谷貞直
    娘  (千葉氏胤室)、娘(井上頼国室)              (ウィキペディア新田義貞等参照)

  勾当内侍は、妻とはされていない。創作上の人物ヵ…
  小田真知は『鑁阿寺新田・足利両氏系図』によるもので、常陸小田城主の小田治久(初名は高知)の娘と見られている。ただ、小田氏系図には小田真知の名前は見られないという。
  また、長男義顕の生母に諸説がある。安東入道聖秀の女、同族の上野国甘羅令(甘楽郡地頭)の安藤五郎重保(左衛門少尉)の女などである。この安藤左衛門五郎重保の娘は、義貞が北条高時を攻め滅ぼしたとき、高時方の叔父安東聖秀の命乞いをほのめかしたとされ、彼女は聖秀から逆にたしなめられたという。
  さらに浅田晃彦『児島高徳と新田一族』によると、義貞には越前国河合庄の豪族・嶋田勘右衛門の娘との間に産まれた義央(別名・義峰、嶋田家の祖)という庶子がいたとする。義央は異母兄・義興と共に南朝方として活動し、兄が謀殺されると多摩川矢口渡付近の住民の頓兵衛の娘・お舟に匿われたという。室町時代を通じて新田氏は「朝敵」「逆賊」(いずれも北朝から見て)として討伐の対象となった。
  義貞の直系は、応永年間に義宗の子・貞方が捕縛され、長子の貞邦と共に鎌倉で処刑され断絶した。ただし、貞方の庶子とされる貞政は堀江氏を称し、武蔵国稲毛に逃れたとする伝承がある。『鑁阿寺新田・足利両氏系図』によると、新田貞方の子・貞政が父と兄の貞邦の刑死後に武蔵国稲毛郡(または橘樹郡、現在の神奈川県川崎市)に逃れ、貞政の孫と名乗る政貞が小田原北條氏に仕えた。子孫の伝承に拠れば、政貞の孫の政邦の代に後北條氏の滅亡と共に、相模国西富岡村に土着したと伝えられていることは7項で詳述する。
  次いで、新田義貞年表を作成してみた。義貞の活躍は30歳過ぎてから始まる。
                        新田義貞年表
  正安3年(1301)         1歳  新田氏本宗家七代当主・新田朝氏(ともうじ)の嫡男として誕生
  元徳3年/元弘元年(1331) 31歳  4月29日、後醍醐天皇、笠置山に籠り「元弘の乱」が起きる
  正慶2年/元弘 3年(1333) 33歳  1月29日、鎌倉幕府方に属して「千早城」攻めに参戦する
                         3月11日、倒幕を決意して、千早城の戦いの途中で上野へ戻る
                         5月8日、護良親王(大塔宮、後醍醐天皇第三皇子)の命で、幕府
                                討伐挙兵に参戦
                         5月22日、鎌倉幕府を滅亡させる
  建武2年(1335)         35歳 12月11日、箱根・竹ノ下の戦いで敗戦する
  建武3年/延元元年(1336) 36歳  2月 ー  、 北朝初代光厳天皇、新田追討の院宣を足利尊氏に下す
                         10月 ー  、 後醍醐天皇の皇子2人を伴い、越前に移る
  建武4年/延元2年(1337)  37歳    3月6日、 拠点としていた金ヶ崎城を脱出、その後、同城落城
  延元3年/暦応元年(1338) 38歳  ゥ7月2日、 越前・藤島(現在の福井市)にて戦死。
                                              (歴史人年表等、参照作成)
  『太平記』では、2月2日に赤坂城(大阪府南河内郡千早赤阪村 )で戦いが起き、その後連戦で千早城(大阪府南河内郡千早赤坂村大字千早 )の戦いと続き、5月10日早朝に終わったと物語られているが、一次史料からは上赤坂城の戦い(2月22日~閏2月1日)と並行する形で、2月27日に千早城への攻城戦が起こり(『楠木合戦注文』)、5月9日に終了したことがわかる(『徴古雑抄』所載『和泉国松尾寺文書』)。この年は和暦では2月の後に閏2月があるため、三ヶ月半ほどの籠城戦だった(ウィキペディア)。
  この年表から、義貞は早ければ正慶2年/元弘3年(1333)5月22日、鎌倉幕府を滅亡させた後、天皇から恩賞として勾当内侍を賜ったことになる。史実とすると、両者の交際期間は5年にも満たなかったことになる。

  5、勾当内侍を祭る野神神社と菩提寺泉福寺
  3項で勾当内侍は、京都往生院(後の滝口寺)で余生を過した(太平記)と記した。
  大津市堅田にある勾当内侍を祭神とする野神神社(大津市今堅田2丁目)と、菩提寺の泉福寺(浄土真宗、大津市今堅田)には、勾当内侍が琵琶湖琴ヶ浜に入水したという伝承があり、慰霊のための野上祭(野神祭)も行われている(びわ湖大津トラベルガイド)。
  後醍醐天皇延元元年(1336)五月、新田義貞は足利尊氏と京都・兵庫で戦うが利あらず、十月に比叡山より皇太子恒良、尊良親王を奉じて越前へ下向の砌、勾当内侍を西近江路堅田に留める。
  延元三年(1338)閏七月二日、義貞運なく越前藤島にて戦死、悲報が堅田の勾当内侍に、家臣瓜生判官によってもたらされた。勾当内侍は九月九日夜、悲痛の余り義貞遺愛の笛を吹いて、袂に小石をつめ、琴ケ浜に入水したとされる。今堅田の人々は非業の死をとげた内侍をとむらって石積の塚を築き、野神講を組織して祀り、泉福寺がその菩提寺となったという。泉福寺は天台宗であったが、蓮如上人の教化によって観応二年(1351)、浄土真宗に改められている。明応六年(1497)、勾当内侍150年忌に伊豆神社飛地にある墓の上に祠を建て野神神社とした。琵琶湖大橋近くの森にあり、鳥居をくぐり境内に入ると小さな社殿があり、その背後に勾当内侍の墓があるという(ウィキペディア等より)。

  6、船田入道再建善昌寺の新田義貞公首塚

  上州(群馬県)新田郡の善昌寺(天台宗、桐生市新里町新川)にも新田公義貞の首塚がある。かっての新田荘の一部で、当初は大同寺と称していたが、船田義昌(よしまさ)が再建して以降、義昌にちなみ善昌寺と称するようになったという。この寺の首塚は、越前藤島で戦死した義貞の首を家臣の桃井次郎が密かにが故郷に持ち帰り、船田義昌が受けとり供養したという伝説である。
  義昌は、主君の首級を手厚く葬り、供養のためこの寺で生涯を終えたとも言われている。
  義貞の首塚は、他の塔が凝灰岩製のものであるのに対し、周囲よりひときわ大きい安山岩製である。高さは2.1㍍で、素朴で重量感のある鎌倉時代の特徴が見受けられるという。
  以前、この下から白磁の壺が発見されたとも言われている(「禅昌寺の五輪塔郡」等参照)。
  『新田堀江氏研究』によると、「正平五年(1350)新田義貞の執事であった船田善昌の近臣とされる船田政経は、義貞の一族一党百八十余人をここ(善昌寺)に集め、足利の幕府に隠れて密かに主君義貞の十三回忌法要を営んだ。善正寺所蔵文書に供養した新田党の氏名が列記されている」とある。
  また、山崎衡述の『上毛及上毛人』収載の「新田左中将首塚記事及考案」によると、明治17年4月3日、大雨。(中略)善昌寺の墓域にある(源)頼朝の逆修塔(高七尺六寸大石五輪)土陥り石塔傾斜す。村人其顛墜を怕(おそ)れ之を修築せんとして塔を移動したるに、塔下より異様の方石棺を現出す。衆怪み之を鑿り審視せしに、寺伝応仁二年(1468)の古記に載せたる義貞卿の古冢(こつか)に暗符するの状あり。即ち其石棺の最下なる一石函中に小磁瓶ありて、些少の骨灰を蔵する是なり云々」として、「左中将の墳、世喚て頼朝塚と云、足利氏威燄の盛なる諱憚の言の狃(なれ)て為常、今猶因循不改ものなり」とも記している。つまり、義貞が頼朝塚と呼ばれていたことが判明したという。
  さらに同書は、翌月の明治17年5月に「群馬県令の楫取素彦等らが政府の指示で善昌寺を訪れ、境内一隅に建つ船田長門守経政建立の逆修塔を調査したことがある。この時石塔の下から新田義貞愛用の笛・旗等と共に遺骨も発見されたとされ、以後この五輪塔を「新田義貞の首冢」と称している」とある。同年の4月と5月に、善昌寺で頼朝の逆修塔と、船田経政建立の逆修塔の発掘調査が行われたという。何か混同しているように思えるが、事実なのであろう。
  そして奥富敬之著『上州 新田一族』は、大正時代に新田氏家臣の末裔という村岡五郎氏が桐生警察署立会の上で首塚の発掘調査を行った。義貞の首と云われた墓には、多人数の人骨を集めたものが埋葬されていて、結論としては戦場で落命した新田氏族の骨を集めて埋葬したのではないか、としているが…?

  7、新田義貞と勾当内侍墓所の異説地
  以上、5件の新田義貞と勾当内侍の首塚や墓所を記してきたが、他にも両者の伝説は少なくない。
  三河(岡崎市)の妙国寺のすぐ横に「糟目犬頭(かすめけんとう)神社」がある。神社本堂の向かって右横に池があり、その中に小さな島がある。大和田島弁財天社(弁天さん)で、建武の中興の時である。天皇の忠臣新田義貞が足利氏に討たれた時、義貞の首を宇都宮泰藤が京より奪い取ってきて、この地に埋めたというのが、大和田島弁財天社である。島には赤い橋が架かっているが、立ち入り禁止である。島には小さな祠があり「新田義貞首塚」と伝承されている。
  1項で記した宇都宮泰藤が義貞の首を、自らの菩提寺とした三河国妙国寺に持ち帰った際、隣接地に埋葬して犬の墓と称したというのであるが、1項で記した『妙国寺傳』は同じ泰藤が小田原に埋葬していた。「糟目犬頭神社」説には無理がある。
  泰藤は正平七年(1352)三月、51歳で病死。慰霊碑および墓は犬頭神社のすぐ東、妙国寺にあるという。泰藤の墓のみならず泰藤を祖とする歴代の大久保家の墓塔や供養塔も立っているという。
  こうしたことから、大久保氏が先祖・泰藤に結びつけた、との説も言われている。
  また、花見塚公園(群馬県太田市武蔵島町)にある左から二つ目の五輪塔が新田義貞首塚、その右が勾当内侍の「花見塚」であるという。同公園は、義貞が勾当内侍のために新田荘に建てた館の跡地で、勾当内侍が京都の三条河原に晒されていた義貞の首を持ち出して新田荘に渡り、現在の儀源寺(太田市)の地で尼となって義貞の菩提を弔ったのだという(武将人物情報・史跡情報「歴史観」) 。
  3項で新田義貞と勾当内侍の年表を作成したが2人の交際は僅か5年、この間、勾当内侍の関東来訪の機会は全く見えない。義貞の戦死は延元3年/暦応元年(1338)閏7月2日、越前国藤島とされる。夏の暑い盛りで首級の腐敗を考えると、前記2件もそうだが本ブログの1と4も、遠隔地で考え難い。
  また、江戸時代に講釈として『太平記』が広まると、各地に勾当内侍の墓所が作られた。その内の1つは群馬県太田市阿久津町(旧・新田郡尾島町阿久津)にあるという(ウィキペディア)。
  ネット検索すると他にも身受けられるが、それにしても義貞の首を持ち帰ったのは、1項では越前から京都には越中國の住人・氏家中務丞重國が、京都からは船田善昌入道と宇都宮泰藤の2人を、2項では時宗の僧8人、3項では勾当内侍、6項では義貞家臣の桃井次郎、7項では1項と同じ宇都宮泰藤と、3項と同じ勾当内侍を言っているが、両者ともに1・3項とは違う場所に持ち去ったと記している。

  8、新田堀江家は、小田原北條氏に仕える
  新田義貞の傍系子孫が、北條家に仕えたことが『神奈川新聞、2015年9月8日(火)』に記されている。
  伊勢原市の旧家で、鎌倉幕府の倒幕などで知られる新田義貞の子孫とされる新田堀江家が3日、所有する土地や家、古文書などの史料を市に寄贈した。堀江家は江戸期以前に同市西富岡に移ってきたとされ、所蔵する古文書などは歴史的価値が高いという。32代当主として寄贈を決めた堀江政伸さん(83)は「市民のために活用してほしい」と話している。
  市に寄贈されたのは約4千平方㍍の土地、住宅、長屋門などのほか、約4300点の古文書、医療器具や絵画など約600点。住宅や長屋門などは近年になって建て直されたものだが、古文書などの史料は地域史の変遷を記した歴史的価値が非常に高いという。
  新田堀江家は上野国(現在の群馬県)の清和源氏の一門・新田義重を始祖とし、鎌倉幕府を倒した義貞らを経て現在に続く。勢力争いの中で堀江と姓を変え、戦国末期に現在の伊勢原に移ったとされる。特に江戸期は名主として村政をつかさどり、多くの歴史的資料が系統的に保存されてきた。市文化財課は「名主も多くが途中で代わったり移ったりする。約450年にわたって同じ場所で続いている家は珍しい」と話す。すでに県や有志の研究家により古文書の多くが整理され、市史などに反映されているという。(中略)
  20年にわたって市教育委員も務めた堀江さんは、自らの年齢や膨大な史料を管理する困難さも踏まえ、「伊勢原には文化財などを保存する施設がないので、この建物や史料を生かしてくれれば」と話しているという。市は一般公開を前提に活用法を検討するという(ネット情報)。
  新田義貞は越前国藤島(現・福井市)で戦死。その直系は、三男義宗の子・貞方が捕縛され、長子の貞邦と共に鎌倉で処刑され断絶している。ただ、貞方の庶子とされる堀江貞政の孫と名乗る政貞が小田原北条氏に仕えたとあり、そのご子孫の伝承に拠れば、政貞の孫の政邦の代に後北條氏の滅亡と共に、相模国西富岡村に土着したと伝わる。以後の堀江氏は子孫代々西富岡村の名主を世襲し、神奈川県伊勢原市に堀江氏は現存しているとされる(ウィキペディア等、ネット情報)。
  小田原北條氏家臣名簿とも言える永禄二年(1559)二月十二日成立とされる『小田原衆所領役帳』に、堀江姓の家臣はいない。しかし、新田姓に次の2名を記している。
    小田原衆(34名) 新田(名前不記) 百七拾弐貫百六拾八文 東郡 菱沼(茅ヶ崎市菱沼) 
                       此外 百六拾貫三百八拾七文 中郡 飯山(厚木市飯山) 他
    御馬廻衆(94名) 新田又七郎     弐拾貫三百文   河越卅三郷 上戸(川越市上戸)
  新田(名前不記)と新田又七郎の2名である。同書校注は「御馬廻衆」とは、大将の馬の側に付き添うようにして警固に当った武士団で、家臣団の中心的存在、とある。
  「清水中世史研究・新田氏姓堀江氏」は、「堀江家文書の墓碑銘」を記している。その六代までを抜粋した。
   新田義貞―義宗―貞方―
   堀江貞政〔初代 新田荘司従五位下相模守貞方公正嫡 新十郎 正長元戌申年(1428)没〕―
       政貞〔二代 十郎 寛正三壬午年(1462)没〕―
       政武〔三代 庄九郎 延徳二庚戌年(1490)没〕―
       政貞〔四代 惣七郎 享禄四辛卯年(1531)三月五日没〕―
       政延〔五代 土着 惣左衛門 永禄五壬戌年(1562)四月十七日没一底常忻居士〕―
       政邦〔六代 土着 織部 慶長十七壬子年(1612)四月十七日没 孝庵道存居士〕―
      政永〔七代 帰郷 仁左衛門 万治二年(1659)十月十六日没 96歳 仙庵清歌居士〕―以後略… 
  あるいは、五代堀江政延(惣左衛門)が、前記『小田原衆所領役帳』の「新田(名前不記)」で、六代政邦(織部)が、「新田又七郎」を称していたのではないだろうか。興味深い。
  本ブログ公開4日後に、新田堀江氏研究会・偏『新田堀江氏研究』に出会えた。
  同書は、「『小田原衆所領役帳』に新田氏の嫡系であるところから、〔新田殿〕として客将の扱いを受けるに至る後北條氏家臣新田堀江氏が、政貞の代から始まるのである」という。同書年表は、文明元年(1469)この頃、三代政武は駿河国を流浪しており、文明八年(1476)の駿河国興国寺城攻めに伊勢宗瑞に従い、延徳二年(1490)に歿している、とある。ただ興国寺城は、天文十八年(1549)今川義元の創建で、伊勢宗瑞の興国葉寺城主は戦記物の創作で史実ではない。本ブログ(その29)と(その42)で記している。
  また、四代政貞が宗瑞に仕えていたのであろう「明応元年(1492)惣七郎政貞、北條氏客将として〔新田殿〕となる」とある。これも宗瑞の小田原入りは明応九年(1500)であるが、「北條氏客将」とは、どういうことであろうか? 北條氏家臣に「客将」は見えない。
  次いで同書は、新田家十六代の織正政邦は「新田堀江氏系図」に、「病身ニ付、相模国中郡西富岡村ニ住ス/永代住居ト定メ土地ヲ開キ、村名ヲ起ス/蓋シ北條氏政ノ許可ヲ得テ土着ス/子政永ヲ北條氏ニ仕へシム」という。この文章に年号は記されていないが、同書年表には「天正三年(1575)この頃、織部正政邦北條家を致仕、西富岡に土着す。土地を開き村名をおこす。子政永北條氏に仕う」とある。
  そして「天正十八年(1590)〔小田原落城〕政永、西富岡に帰郷し、村の経営に当る」とある。
  以上、新田堀江氏は五代政延と六代政邦に七代政永が北條氏に仕えて「新田姓」を称し、政邦織部が「又七郎」を名乗ったのであろう。但し、同書は「又七郎」には全く触れていない。四代政貞が宗瑞の小田原入り以前から従っていたことも傍証する史料が今後の課題となろう。

  おわりに
  新田義貞と勾当内侍の伝説話の多さに正直、驚かされました。江戸時代は、こうした伝説話が喜ばれたのでしょう。それに引き替え、7項の伊勢原市の新田堀江家の話は興味深い。
  特に、小田原北條氏に繋がったことは予想だにしていなかったことです。結論は今後の調査によりますが、興味津々で調査に取り組みます。本ブログの更新に期待して頂きたく思っています。        郷土士
 
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  なお、ご許可いただければ、その時点で公開とさせ ていただきます。
          
参考文献 
 新編相模国風土記稿第二巻      編集校訂者・蘆田伊人             雄山閣      S45.9
 小田原地方新聞記事目録       編集・小田原市役所企画調整部文化室  (有)石橋印刷  H元.12
 小田原の史跡【川西版】        監修・内田清               小田原市教育委員会  H30.3
 神奈川縣大観第3編 石野瑛・著                             武相出版社   S33.
 ウィキペディア                                               INT
 小田原衆所領役帳           校訂者・杉山博                 ㈱近藤出版社  S44.8
 清水中世史研究・新田氏姓堀江氏                              INT
 新田堀江氏研究、通史・資料・各論 新田堀江氏研究会               ㈱東京堂出版   S57.4

(その77)新田義貞公首塚と新田堀江家
  初  稿 2022.10.15
  二  稿 2022.10.20 『新田堀江氏研究』通史・資料・各論より追記


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